第543話 邪竜と巫女と杖
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赤髪の女執事ソフィは邪竜ファヴニルに契約を強いられ、体内に飲みこまれていた。
(クロードくん、レアちゃん、アリスちゃん、セイちゃん。皆は大丈夫かな)
彼女の真っ白な肉体は、全長三〇mの邪竜を支える機械と肉塊が入り混じる、心臓の一部となっている。
(くらい、まっくらで何も見えないよ)
ソフィの顔も肉塊の中に飲み込まれ、本物の悪徳貴族クローディアス・レーベンヒェルムに瞳を奪われた時と同様、視界が闇に閉ざされている。
赤い髪の女執事は、ほんの僅かな光も射さない暗黒の中で身を震わせながら、孤独と恐怖に耐え忍ぶ。
暗闇は、苦手だった。地下室で受けた拷問を思い出すから。
(いたい、くるしい、でも、たえなきゃ)
ソフィは三年前に領主館の地下室に囚われて、殴られ切り付けられ、手のひらを穿たれ、瞳を奪われた経験がある。
性的な辱めを受けなかったのは不思議だったが、おそらくは竜に捧げる生贄、巫女としての価値を下げたくなかったのだろう。
そして今、邪竜の心臓が脈打つたびに、ソフィの真珠のように白い肉体を、黒々とした蛇のような何かが取り囲み、生命力と魔力を奪ってゆく。
「ア、ア」
ソフィはせめて声を出そうとしたが、心臓の一部となった彼女の身体は正常に動くことなく、こぼれたのは言葉ではなく、唾だけだ。
(しっかりしなきゃ。今度は、わたしがクロードくんを守るんだ)
ソフィは研究所の戦闘後、ファヴニルと過ごした三日間で改めて理解した。
(邪竜ファヴニル。その正体は一〇〇〇年以上前に、わたしとレベッカちゃんの御先祖様が契約して、グリタヘイズ地方を救った〝湖の龍神〟。私たちが祀ってきたカミサマだ)
ソフィはクロードと共に過去を追い、真実を知った。
善良なる龍神は数えきれない人々を救うも、大陸の圧力や陰謀、身内からの裏切りにさらされ、愛する家族を失ったことで、邪悪なる竜に堕ち果てたのだ。
世界を呪うファヴニルは、〝魔術道具に干渉する〟巫女ソフィを体内に取り込み、マラヤディヴァ国の地脈からエネルギーを奪って、とうとう第一位級契約神器へと進化を果たした。
邪竜の願いは、無間地獄にも似た新世界を創造する、おぞましいものだ。
(テルくんが教えてくれた終末戦争の真実が正しいなら、七つの鍵と呼ばれる第一位級契約神器が世界樹と接触することで、願いが叶えられる)
熟慮すべきは、世界樹で願いを叶える資格は、ファヴニルのような神器だけでなく、契約で結ばれた盟約者も同様にある、という点だろう。
(だから、万が一にもクロードくんが止められなかった時は、わたしがカミサマを滅ぼすよう世界樹に願う。必ず彼を助けてみせる)
ソフィは愛する男を守る最後の盾となるために、ファヴニルの無理矢理な契約を飲んで、邪竜の盟約者となっていた。
『ねえ、それ、意味あるの?』
暗闇の中から、誰とも知れぬ声が聞こえた。
ソフィは、それを自身の迷いだと解釈した。
自身の恐怖が、幻聴を聴かせているのだと。
『ファヴニルが元々良きカミサマであったなら、ひょっとしたら新世界は、良いものになるかも知れないよ。その生誕を、身勝手に阻止していいの? 貴方がやろうとしていることは、愛情に瞳を閉ざしたグズルーン姫と同じかも知れないよ』
ソフィは知っている。
〝グズルーン姫〟とは、原初神話に登場する、親族に翻弄される無力な姫君だ。
一族の奸計で〝竜殺しの英雄シグルズ〟と結ばれた彼女は、偽りの婚姻にも関わらず、夫に真の愛を抱いた。
そうして、三角関係と陰謀の果てに伴侶を殺された彼女は――。
夫との愛を証明する為ならば、自らの子供すらも道具に用いて敵対者を焼き尽くす、手段を選ばぬ悪女へと豹変した。
(グズルーンさんは、ひどい人だよね。自分のエゴだけの為に、子供も国も何もかもを滅ぼした。巻き込まれた人は憎んで当然だと思う)
それでも、と、ソフィは幻の声を否定した。
(わたしは、彼女の無念と復讐を肯定するよ。大好きなクロードくんを傷つける奴なんて、絶対に許さないもの。この生命に変えても、ファヴニルの、カミサマの野望を止めるんだ)
『貴方は、愛する人を残して死ぬつもり? 悔しくないの、未練はないの?』
(悔しいけれど、わたしには後を托せる恋敵が三人もいるんだ。未練はあっても心配はないよ。しんぱい、ない、はずなのに)
ソフィは強がろうとして、胸を張ろうとして、失敗した。
(ごめんなさい、ササクラ先生。血の宿命に抗えって、みずちを残してくれたのに)
肉塊に閉ざされた瞳から、涙が滂沱と流れる。
未練がないはずなんてない。もっと抱き合いたかった。キスをしたかった。
「……たすけて、クロードくん」
ソフィは肉塊に埋もれながら、動かない舌と裂けた喉を動かして、かすれた声で助けを求めた。
『おっけー、わんだほー!』
想像もしなかった奇声が響き渡り、赤い髪の少女は仰天した。
『良かったわね、ソフィ。貴方の願いは叶ったわ。恋人が助けに来たわよ』
「鋳造――雷切! 火車切!」
ソフィにはまるで状況が掴めなかったものの、熱と衝撃が彼女の顔を覆う肉塊を吹き飛ばす。
ファヴニルの心臓の下方、腹部に大きな裂傷が開き、夜だというのに煌々とした光が射し込むのが見えた。
『貴方の恋人は、こんなに扱いが難しく有効射程の短い術式を、よく使いこなしたものね。でももう安心よ。外からの祈りが、貴方とファヴニルを切り離すわ』
契約神器は、人々の魂の震え、感情を糧に成長する。
ファヴニルは、マラヤディヴァ国に恐怖を振りまき、自らの力と変えた。
逆に言えば、湖と竜神を祀る巫女カロリナによる奉納品を、彼は絶対に無視できない。
(これは、竜神様を慕い、穢れを祓おうとする魂鎮めの術? そっか、今のカミサマは邪竜になってしまったから……)
傷口から飛び込んだ泡が、ソフィを取り巻く肉と機械を溶解させる。
赤髪の巫女は泡に包まれて素裸のまま落下するも、敬愛する師匠ササクラより受け継いだ木杖みずちに受け止められた。
(みずち、声の正体は貴方だったの?)
『そうよ。試すようなことをしてごめん。どうしても貴方の本音を知りたかったの。ソフィ、貴方はグズルーン姫になれるけれど、支え合う恋人が健在で、恋敵とも友誼を結べるなら、惨劇は起きないでしょ。正直、五角関係はどうかと思うけどね』
みずちが指し示すファヴニルの傷口には、ソフィが求めてやまなかった青年がいた。
「ソフィ、待たせてごめん。君を助けに来た!」
「っ、クロードくん。クロードくんっ」
ソフィの喉を泡が治癒してくれたのだろうか?
赤髪の女執事は恋人の名を叫んだ。
クロードは満身創痍の傷だらけで、燃え滓のようなボロをまとっている。
どれほどの血を流し、どれほどの苦難があっただろう。
それでも彼は、ソフィを悪しき竜から救いに来てくれた。
『さようなら。私の主人、ソフィ・ファフナー。貴方達と過ごした時間は楽しかった。まるで一〇〇〇年前に戻ったみたいに、毎日が愉快だった』
みずちはソフィを魔術文字の結界で覆い、クロードという帰るべき場所へと押し出した。
「みずち、あなたも一緒にっ」
『ソフィ。貴方を生還させることが、私の役目だよ』
一〇〇〇年前に世界を救った〝神剣の勇者〟の戦友が残した杖は、崩れゆく邪竜の傷口を維持して、主人と認めた少女を見送って、……砕け散った。
あとがき
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