第49話 姫将と思い出と綺麗な月
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復興暦一一一〇年/共和国暦一〇〇四年 暖陽の月(五月)二六日正午。
オーニータウン守備隊砦、丘陵に設えられた小屋の広間で昼食会が始まった。
最初はトゲトゲしかった隊員たちも、クロードがアリスに振り回される姿を見て溜飲を下げたのか、あるいは新兵器の御披露目による衝撃か、幾分穏やかなものとなっていた。
レアとソフィが作ってくれたサンドイッチの入ったバスケットを、皆美味しそうに口いっぱいに頬張っている。
アリス・ヤツフサは、クロードの膝上にもこもこした身体で寝そべり、ガンとして退こうとしなかった。
「仕事仕事と言い訳するのは不健康たぬ! クロードも、セイちゃんと一緒にお昼寝でもするたぬ」
「そういうわけにはいかないよ」
昼食後の打ち合わせでは、サムエル率いる小隊の増員と、山賊捜索に差しさわりが出ないよう、守備隊員を交代で銃の練習に領都へ派遣することを決めてお開きとなった。
「棟梁殿、諸事は万端だ。恵葉の月(六月)中には決着させる。大船に乗ったつもりで領運営に専念してくれ」
「わかった。頼んだよ」
席を立ったクロードは、セイがいつも通りの笑顔で手を振って、アリスが無言で見送り、守備隊の面々が胸を撫で下ろすのを見た。
ふと、……首筋が泡立った。強い違和感が彼の胸を苛む。違う、そんなことは、砦に来る前から感じていた。
喉に刺さった小骨。セイを司令官に任じなかった理由を、クロードは、はっきりと認識した。
(ああ、くそ、演劇部になんか入るんじゃなかった!)
わかってしまったから。セイが今、彼女自身を演じていると。
(守備隊員たちがああも警戒していたのは何故だ? 赤い導家士の宿敵たる僕がやってくるから……。それだけが理由じゃない。だったら、閲兵式の隊列行進も手を抜くはずだ)
彼らは必要以上に気合いを入れて、ミスひとつなく完璧にこなして見せた。
守備隊員たちが恐れていたのは、何かしらの不調を抱えた彼女を、ろくでなしの悪徳貴族が罰することに違いない。
選択肢は二つある。ひとつはこのまま黙って屋敷に帰ること。もうひとつはセイと向き合うことだ。
(選ぶのは、最初からひとつしかないだろうっ)
「そうだ。セイ、せっかく来たんだから、剣の稽古をつけてくれ。最近デスクワークばかりで鈍ってるんだ」
「お、おお。構わないぞ」
クロードがセイに声をかけた瞬間、守備隊員たちの空気が一変した。
イヌヴェがとっさに二人の間に割り込もうとして、しかし、サムエルが彼の正面に立ったことで失敗する。
「そこをどけ、猿面」
「狂犬を放し飼いにするのが、この部隊の流儀かい?」
お互いにだけ聞こえる小さな声と交差する視線が火花を散らし、一触即発の空気が広間を満たす。
膨れ上がった殺気が弾けようとしたまさにその時、上気したセイがクロードの手をとった。
「み、みんな。午後の訓練は、参加できない。か、勘違いしないで欲しい。と、棟梁殿の命令だから、これもレーベンヒェルム領の為なんだ!」
舌を噛みそうなくらい早口でまくし立てたセイは、いかにも楽しそうで、隊員たちが心配していた疲労や精神圧迫が嘘のような生気に満ち満ちていた。
「アリス、この場をお願いできるかい?」
ステップを踏むセイに引きずられ、たたらを踏むクロードに頼まれて、アリスは鼻をぺろんと舐めると、片目を瞑ってウィンクした。
「任せるたぬ」
「ちょ、副隊長。いいんですか? なんで隊長があんな悪徳貴族と!」
「野暮はいいっこなしたぬ。さあ、片付けたら午後の訓練と見回りたぬよ」
「そ、そんなことより。セイ隊長の方が大事ですよっ」
駄々をこねる隊員たちに、カチンと来たらしい。アリスは、本気を出すことにした。
「あれ、副隊長の耳がいつもより大きいような」
「お前たちの声が、よく聞こえるようにしたたぬ」
モフモフのお手ごろぬいぐるみサイズだった体躯がぐわんと伸びて、鍛えられた刃物を連想させるワイルドな虎に変わる。
「目も大きくて、ギラギラ光ってて、怖いですよ」
「怖がる事はないたぬ。可愛い部下たちを、よーく見守る為だぬ」
黄金色の毛並みは真っ黒に染まり、可愛かった八重歯はいまや軍刀のように妖しく光っている。
「か、身体真っ黒ですし、巨大化してますよね! 口なんか大きすぎて牙はえてますよね!」
「体が大きくないと、真剣な訓練に付き合えないたぬ。つまらないことで怠けるなら、食べちゃうたぬ」
「いやぁああああっ」
この日の訓練は、隊員たちにとって過酷なものとなった。
「なんでオレまで走らされてるんですかねえ!?」
同席したサムエルも、とばっちりでしごかれた。不憫である。
☆
そして、クロードもまた――。
「ま、まいった。もう動けない」
「え、もうちょっと、あと一時間だけ一緒にやらない? 痛くしないから」
「むり。もうちょっと早く手加減して欲し……かった」
クロードはセイにのされて、竹刀をもつ腕さえ上がらずに練兵場でぶっ倒れた。
とはいえ半日の間、ずっと彼女と打ち合っていたのだから、彼としては驚異的な進歩である。
訓練と巡回を終えた守備隊員たちが、丘内に設えられた五右衛門風呂で汗を流して、宿舎へと戻ってゆく。
クロードとセイも頭から水を被り、小山の上に作られたセイとアリスの寝所、館へと移動した。
時は、すでに夕暮れ。青空は少しずつ藍色に染まり、白い雲は黄金色に輝いている。
そんな空を見上げながら、クロードはセイと縁側に座り差し向かいで紅茶を飲んでいた。
彼女が生まれた世界では、お茶はあまり普及していなかったらしく、セイはティータイムがことの他お気にいりだった。
「このお茶は、離島の別領から来た商人から買ったものなんだけど、レアがいい茶葉だって褒めていたよ」
「うむ。旨い! ……棟梁殿は凄いな」
「お茶を入れてくれたのはセイじゃないか」
「違う違う。今朝の新兵器、銃のこともそうだし。このお茶もそう。たった数ヶ月で、市場がずいぶんと賑やかになったじゃないか」
「レアやアンセルたちのおかげだ。僕は、皆に助けられてばかりだよ」
夕日が沈む。黄昏に染められて、セイの顔はよく見えなかった。
「最近、元の世界のことをようやく思い出してきた」
乾いた、穏やかな風が小山の上を吹き抜けた。
セイの声音は落ち着いていたが、どこか悲しみを帯びていた。
夕暮れだから、そんな風に聞こえてしまったのか。
「私の祖父は、自分が治める大地と民草を愛していた。それだけは間違いない。だから、朝廷が安寧を踏みにじろうとした時、彼らを守ろうと弓を引いた。たとえ、その決断が、自分が守ろうとしたものに流血を強いることになったとしても」
「そう、か」
クロードにはわからない。セイの祖父が選んだ決断を、その背後にあっただろう煩悶を。だから、ただうなづく。
「祖父が死んで、伯父が家を継いだ。強い人だった。そして、野心に溺れた人だった。彼はいたずらに戦線を拡大し続けた。だから、父は伯父を討って、朝廷と和議を結んだ。それが務めだったと、今でも思っている。誰かが止めなければならなかった。平穏を、秩序を取り戻したかった。王朝の旗の下、法と規を敷いて民草に太平をもたらすことが、私と父の唯一の願いだった」
「……辛かったんだな」
クロードに裁く資格はない。セイの伯父の暴走も、セイの父が負った罪も。彼らはきっと己が立場で最善を尽くそうとしたのだから。
「けれど、乱は続いた。より大きな炎になった。ただ一人生き残った従兄弟は他家の力と兵を借りて、捲土重来を果たした。私は見くびっていたのだろうな。歴戦の将だった近臣に言われたよ。貴女は、勝ち方さえも知らない。戦う術さえも分からぬ。――と。そして、私は彼の言うとおりに負けた。自らの信念も守れず、人々の期待に応えられず、ついてきてくれた部下たちを犬死にさせて、無様にも一人生き延びた」
泣いているのだろう。クロードは逆光で見えないセイの顔から視線を逸らした。
きっと見られたくないだろうし、なによりセイの語る敗北は、ひどく無残で酷薄なものだったから。
「どれだけの名将だったか知らないけど、その人は、セイに甘えすぎだったと思うよ」
こんな華奢な女の子の背に、どれだけの重責を負わせていたのか。
あるいは、と、クロードは、うろんなことを思う。彼女の従兄弟は、そんな世界にこそ疑問を抱いて戦っていたのかもしれない。
(……セイには悪いけど、信念がどうとかいう次元じゃない。戦略面で詰められている)
連絡網は寸断され、味方は調略されて裏切り、周囲は他家に包囲、選択肢の大半が殺されていた。
(両腕と両足を縛られて両目を潰され、毒を盛られて半身が麻痺した状態で決戦に挑むようなものだ。……勝てるわけがない)
ある意味で彼女の従兄弟は、セイを高く評価していたのだろう。
もしも、だ。絶対に有り得ないことではあるが、先輩たちと戦うことになったら、クロードはそれくらいする。
同時に、それでも勝った自分が想像できないあたり、自分はどこまでも小物なのだろうと思う。
黄昏は黄金から濃紺に染まり、やがて夜の帳がおりてくる。
「セイ、戦から降りてもいいんだぞ」
「私は、いらない――か?」
「僕は、セイを大切な友達だと思ってる。だから、だからこそ生きてほしい。君の部下たちが望んだように」
「皆が私に望んで……」
セイは、涙で赤く染まった瞳で薄墨色の空を見上げている。
目に見える星はまだ少ない。けれど、たしかに瞬いていた。
「君の部下たちは、家のために尽くしたんだと思う。だけど、セイに生きていてほしかったから命を賭けたはずだ。だったら、血なまぐさい戦場からは手を引いて、女の子として生きてもいいんじゃないか?」
「棟梁殿はどうするんだ?」
振り絞るように声を出したセイの問いかけに、クロードは腹の底からはっきりと答えた。
「僕はファヴニルを討つ」
かつて、クロードはファヴニルに怯えて、恐れて、逃れようとして、ソフィたちに加えた所業を知って、燃えるような怒りを得た。
けれど、今は、憎悪ではない。使命感だけでもない。不適切かもしれないが、絆のようなものを感じている。
「領のこと、ソフィのこと、エリックたちのこと、先輩のこと、何もかもひっくるめた上で、あいつは僕の敵だ」
高城部長ですら討ち損ねた。そんなファヴニルを倒す者がいるならば、それは、演劇部で最弱だった自分だけなのだと、根拠もなく信じている。
「棟梁殿。そう言ってのける貴方だから、悔いのない道を走る貴方だから、私は貴方が羨ましくて、妬ましくて、憧れているんだ。もしも、あの時、棟梁殿が隣にいたら、変わったのかな?」
「期待されても困る。僕は見た通りによわっちい。何も出来なかったさ」
彼女の従兄弟は、捕らえたセイを逃がそうとしたらしい。自身の家族の仇とも言える少女をだ。彼はきっと憎しみに勝る、何かの信念を抱いて戦っていたのだろう。
(僕は凡人だ、どこまでも)
「……狭量な私では、きっと貴方の意見も聞き入れなかっただろう。でも、私は、夢をみたいんだ。こんな私でも、棟梁殿の傍で戦って、役に立てるって。だってほら、今夜はこんなにも、月が綺麗だから」
気がつけば、いつの間にか昇った細い三日月と、星々の輝きが夜を彩っていた。
涙にぬれたセイの横顔は吸い込まれるように綺麗で、クロードは一瞬見蕩れて、沸いたヤカンのように赤面した。
「どうした、棟梁殿? そんなに冷や汗をかいて」
(な、ナツメソーセキ)
”月が綺麗ですね”という言葉は、めったなことでは、口に出せないのだ。日本人的に!
「セイ。僕は君を、信じている。力になりたいと思うよ。……と、友達だから」
「ありがとう。頼みがあるんだ。……新兵器の件だが、こんな兵器が恵葉の月(六月)の末日に砦へ補給されると、できるだけ大仰に噂を流してくれ。山賊を釣りあげたい」
「馬鹿を言うな! そんな危険を冒す必要はない。半年もすれば領兵が機能して」
「隠し事はなしだよ、棟梁殿。それでは遅すぎる。ファヴニルを討つといった先ほどの言葉は偽りか?」
クロードは言葉に詰まった。
酷い勘違いをしていたのかもしれない。戦略面だけで見れば、セイはそこまで長じていない。
長期にわたっていかに領地を運営して行くか、いかなるカタチで民を豊かにするか、どのようにして優位な条件を勝ち取るか――そういった大局的見地、全体を俯瞰することを、当人も「うまくやれない」と言っていた通り、苦手としている。
が、眼前にある盤面において如何に戦術的勝利を勝ち取るか、という一点に絞れば、その冴えは当然クロードでは及びもつかず、ひょっとしたら痴女こと紫崎先輩すら凌駕するのではないか?
(セイは、ひょっとしたら、一度も全力を尽くせなかったんじゃないか?)
彼女と争っていたという従兄弟からすれば、全力を出されたら即死するから、常に出し抜いて正面衝突を避けたとしても、当然の選択だろう。
(最適解じゃないか。隠蔽と迷彩を得意とする敵がいるなら、見えるところへおびき出せばいい。時間はこちらの味方じゃない。税収停滞による予算執行への弊害。治安悪化による経済失墜。それだけじゃない。最速で駆け抜けなければ、ファヴニルが動き出す!)
農業復興において、輪栽式農法による地道な改善から、植物工場まですっ飛ばしたのも――。
銃火器開発において、戦国時代の火縄銃から試作して、幕末期の小銃水準までかっ飛ばしたのも――。
(最速で、迎撃態勢を整えなければ、どれだけの人が死ぬかわからないからだ!)
セイと兵の命をかけて、彼女の思いを汲むのか、セイの魂を踏みつけても、安全な手段を模索するのか。クロードが選ぶ選択肢は、最初からひとつしかなかった。
「セイ、君の思うがままに。僕は君の友達だ。君を信じている」
「ありがとう。棟梁殿が、クロードで良かった」
セイの葡萄色の瞳から、一雫、真珠のような涙がこぼれた。
「私は今、選ばれた。死んでいった部下たちに誇れるよ。お前たちが救ってくれた私の命を、こんなにも燃やすことができたのだと、そう伝えることが叶うよう戦ってみせる」
「死ぬのは無しだぞ」
「わかってる。やりたいことが、できたからな」
それから詳細を詰めて、クロードは転移魔法で帰っていった。
セイは一人になると、暗闇の中、化粧台の鏡に近づいて、泣いている白髪の少女に手を差し出した。
幻だ。夢だ。それでも、そうせずにはいられなかった。
「一緒に行こう。もう一人の私」
鏡に手を触れる。泣き跡がついた顔。けれど、鏡の中のセイは、はにかむように笑っていた。
「期待に応えるためじゃない。私が棟梁殿の為に戦うと決めたんだ」
孤独も逡巡も消えた。だって、彼の心は共にある。
しばらくして、もこもこしたぬいぐるみの格好に戻ったアリスが帰ってきた。
「セイちゃん、首尾はどうだったぬ?」
「ああ、月が綺麗って言ってみたんだけど、棟梁殿はまごまごしていて、伝わっていなかった気がする」
「おかしいたぬ。イスカちゃんは確かに、”お月様が綺麗”という言葉は、好きだって告白だから注意して。そう言ったぬ」
「方言というか、地方によって違うのかなあ」
クロードの真っ赤になった表情で感づかなかったあたり、セイも相当に緊張していたのだろう。
「でも、いいんだ。もう、迷わない」
「元気が出たなら良かったぬ。さあ、晩御飯にするたぬよ♪」
セイとアリスは、守備隊員たちの待つ、丘陵へと降りていった。
復興歴一一一〇年/共和国歴一〇〇四年 恵葉の月(六月)三〇日。
レーベンヒェルム領南部都市オーニータウンの歴史に刻まれる、一大作戦が始まろうとしていた。
応援や励ましのコメントなど、お気軽にいただけると幸いです(⌒▽⌒)