第412話 ソフィと迎える朝
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「…くん」
クロードは、微睡みの中で自分を呼ぶ声を聞いた。
春の日射しに照らされて、草花が咲く野原で寝転ぶような、安心感にひたりながらうとうとと舟をこぐ。
眠ること、目覚めることに怯えなくなったのは、いったいいつからだろうか?
『ようこそ、来訪者。歓迎するよ。新しいボクのオモチャ』
天使のように美しく、悪魔のように呪わしい、一〇〇〇年を生きる少年。
邪竜ファヴニルとの出会いから、ずっと追い立てられるようにして生きてきた。
(あの馬鹿と共に死ぬことが、僕が求める唯一の結末だ。そう、諦めていた)
クロードと、要塞を死に場所と定めたイザボーは、確かに似ていたのだろう。
レアが阻もうと、ショーコが止めようと、他の誰かが諌めようと、自ら選んだ運命を変える気はなかった。
(けれど、今は)
イザボーが戦友達と生きることを受け入れたように、クロードもまた変わりつつあった。
きっかけをくれたのはきっと――。
「クロードくん、起きて」
一瞬、クロードの鼻孔を甘い匂いがくすぐった。
「ン?」
唇に熱を感じた。
まぶたを開けると、赤いおかっぱ髪の下で、濡れた黒い瞳が彼を見つめている。手が豊かな胸に触れそうになって、慌てて肩へと伸ばす。
クロードは胸の高鳴りに押されるようにして、愛らしい女執事の柔らかい身体を抱き寄せた。
「ソフィ、おはよう」
「おはよう、クロードくん」
クロードは顔を洗って歯を磨き、大同盟キャンプの周辺を軽く走り込んだ後、水をかぶって汗を流した。
朝食は焼き魚と山菜の煮付けに、落花生入りの味噌汁だ。
ぷりぷりした白身魚の歯応えを楽しみ、香り高い山菜の味わいにうっとりし、奇抜な味噌汁と落花生の組み合わせにも舌鼓をうった。
(和食そのままだけじゃなくて、マラヤディヴァ風のアレンジも美味しいよね)
レアは疑いもなく料理の達人だが、枠にはまった完成度を高めようとする癖がある。
ソフィの場合、毎日ちょっとずつ味の変わる鍋やカレーのように、どれだけ食べても食べ飽きない、気取らない家庭料理がうまいのだ。
クロードは朝食をペロリと平らげ、熱い茶を飲み干して、満足そうに遠くを見つめた。
(アリスとセイの二人は、まず師匠を探さないと。僕も一緒に料理を覚えるんだ……)
料理下手の二人は、ライバルと見込んだ相手から教わるのに抵抗があるようだ。
しかし、クロード、アリス、セイの三人だけで料理を訓練したとしても、毒々しい大釜を前に気絶する未来しか見えない。
そんな想像が、顔に出てしまったのだろうか?
「……クロードくん。やっぱり二人きりだと寂しい?」
ソフィが柔らかな目線で、いたわるように尋ねてきた。
「まさか。ここにはソフィがいるじゃないか。それにきっと、レア達が騒がしい日々を取り戻してくれるさ」
クロードはお茶の入ったカップを見つめながら、ネオジェネシスとの和平交渉に出発した、青髪の侍女のことを思い出した。
『僕だ。ネオジェネシスとの和平交渉には、僕が行く』
若き辺境伯は当初、ネオジェネシスの首魁の元へ自ら乗り込もうとした。
彼はブロル・ハリアンの義侠心を信じていたものの、同じくらいファヴニルの悪逆無道を熟知していたからだ。
『『馬鹿野郎。さては一騎討ちでもする気だな!』』
実は、図星だったのは内緒である。
クロードは、国主を含む首脳陣全員に反対され、部下達の手で簀巻きにされてしまった。
その後、すったもんだと揉めた結果――。
国主の縁戚ということになっているドゥーエが特使となり、道案内をシュテンがかって出て、護衛をミズキが務め、助手としてレアが同行することになった。
クロードは、レアまで行くことはないと引き留めようとしたのだが……。
『私は行かなければなりません。ミズキ様は素晴らしい方ですが、おひとりではドゥーエ様とシュテン様の暴走を止められません』
侍女の、あまりある説得力に沈黙した。
『私の望みは御主人さまが、幸せになることです。ソフィ、留守をよろしく願いします』
クロードも、ソフィも、面と向かって言われてレアの真意に気がついた。二人の関係を、彼女なりに後押ししてくれたのだろう。
『私は御主人さまと共に、必ず邪竜を討ち果たします。ええ、絶対に許しません』
馬鹿兄貴が嫉妬にかられるがあまり、恋敵たる妹分を領都もろとも葬ろうとした経験に遭って、思うところがあったのかも知れない。
(い、いざ関係を一歩前に進めようと思うと、気恥ずかしいな)
クロードは空になったカップを置いて、ソフィの白く細い手を握った。
「ソフィ、今日はどこに行こうか? イザボーさんやエコー君から聞いたんだけど、古い教会とか、景色のいい湖とか、大きな市場とか、領都エンガには見所がたくさんありそうだよ」
クロードは、なんとかリードしようと勇気を振り絞ったものの。
「クロードくん、先に図書館へ行こう。テルさんが待ってるよ」
ソフィにはまだ、かないそうになかった。
かくして二人は、いの一番に図書館へ向かい、レアとファヴニルの兄貴分たる第三位級契約神器オッテルと面会した。
「クロオド、ソフィ。すまなかったナ。デートの邪魔ヲする気ハ無かっタんだ。ともカク、これヲ見て欲シイ」
灰色のチャーミングなカワウソに化けたオッテルは、漢字とひらがなの交じる日本語が書かれた封筒を差し出した。
それはソフィの師匠たる異世界人、シンジロウ・ササクラが弟子に遺した――不可思議な書簡だった。
「これはルンダールの時と同じ、謎解きか?」





