第333話 喪失
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ネオジェネシスによって、不可解な吹雪が引き起こされた後――。
クロードは、奥歯を噛みしめて薄れる意識を繋ぎ止め、うつ伏せに倒れまま周囲を見渡した。
(いったい、何が起こった? どんな攻撃を受けたんだ?)
叩きつけるような強い風も、切り裂くような冷たい雪も止まっていた。
しかし、クロードの目に映るネオジェネシスのウジ達は溶け崩れ、人間も見渡す限り地に倒れ伏していた。
遠目から見る限り、辛うじて息はあるようだが、このままでは死を待つばかりだろう。
(全滅、だって。馬鹿な!)
クロードは身を起こそうとするも、力が入らない。
彼の肉体は冷え切っていて、気力もごっそりと失われている。
それでも、クロードは指先を必死で動かして、時間を巻き戻そうとした。
ファヴニルは、決して力を貸さないだろう。けれど、今の彼はレアと契約している。
「ごめんなさい。クロードさま。にげてください」
クロードの耳元で、愛しい侍女の声が聞こえた。
瞬間、心臓が熱を送り出し、どうにか身体を仰向けにすることが出来た。
レアは盟約者たる主人を庇って、雪を身体で受け止めていた。
「ぶじでよかった。このゆきは、ふれただけでいのちをうばうもの。にいさまのちからでしょう……」
レアの言葉は不明瞭で、よく聞き取れない。
けれど、彼女が命の危機に瀕していることはわかった。
だから、クロードは死に物狂いで立ちあがり、レアを抱き留めて……。
彼女の背後に迫る、首に赤いスカーフを巻いた男に気がついた。
「お前は、エカルド・ベックか?」
柿色の髪を短く刈って、顎髭を丁寧に整え、小洒落た軍服を着こなす男。
クロード達がユーツ領のヘルバル砦で交戦し、ラーシュとマルグリッドが仇と憎む、元〝赤い導家士〟の工作員だ。
「お久しぶりです。クローディアス・レーベンヒェルム。そして妹御殿。あの方から伝言ですよ。泥棒猫め、決して許さない、とね」
「ベック。お前、何をわからないことを言っている?」
クロードの問いかけを無視して、ベックはまるで挨拶でもするように片手をあげた。
「秘儀――魂魄奪取」
ベックは抜き手を繰り出して、レアの心臓を背後から貫いた。
クロードが、長い時を共に過ごした侍女の赤い瞳から、真珠のような涙がこぼれ落ちる。
「クロードさま。おつかえできて、しあわせでした」
主人の身体に赤い鮮血を残して、侍女の身体が崩れ落ちた。
活動を停止した肉体は、光の粒子となって消える。
残されたのは、クロードがレアに贈った桜貝の髪留めだけだ。
「ファヴニル様からの主命は果たしました。私はレギンの力を得て、より強い役を組み上げることができる」
残された遺品すらも、薄ら笑いを浮かべたベックによって掴みとられ、口の中へと放り込まれた。ゴクリと飲み干す音が聞こえる。
「れ、あ?」
クロードには、意味が理解できなかった。
目の前でなにが起こったか、わからない。
ただ滂沱とばかりに涙を流していた。
「ああ、辺境伯様。なんという悲劇でしょう。でも、どうか嘆かないでください」
ベックは、笑う。狂気に満ちた顔で、堂々と宣言する。
「私達は、貴方たちが流す涙をぬぐい、笑顔をもたらすために、革命を遂行するのですから」
「殺す」
クロードは、腰からナイフを引き抜いた。
彼がこの世界に落ちてきた時、初めて得た武器であり、ファヴニルの犠牲者を介錯した罪の証だ。
肉体に力は入らず、魔法も使えない。
しかし、そんなもの知ったことか。目の前の男だけは、命に換えても殺してやる。
「レアを返せっ!」
「ふむ。貴方が抵抗するようなら殺して遺体を持って来いと、命じられています」
クロードが突き出した刃は、ベックが手のひらから生み出した、氷の刃によって阻まれた。
「ブロルは最後まで反対していましたが、これもファヴニル様からいただいた使命。輝く未来をもたらすために、ここでトドメをさしましょう!」
エカルド・ベックの背後から、獣のような、幽鬼のような、凍える雹の翼が立ち昇った。
「クロード、にげろお」
辛うじて無事だったのだろう。
エリック達の、喉も枯れよとばかりの叫びが聞こえた。
彼の投げた契約神器の盾が一瞬だけ雪と風を防ぐも、ヒビが入って吹き飛ばされる。
(ありがとう。そして、すまない)
クロードは僅かな隙を突いて氷の刃を払い避け、ベックの懐へと飛び込んだ。
両の手足が凍てついてゆく。それでも四肢が動かなくなる直前、クロードが振るったナイフは、仇の喉元を深々と切り裂いていた。
だが――| 切り裂かれたベックの傷が埋まる。頭部が一瞬だけウジのように変化して、致命傷を修復してしまう。
「素晴らしい。その一念、古き人間の意地と受け止めましょう。喜びなさい。苦痛の日々はここで終わる。我が一撃が、光輝に満ちた新世界を切り開く!」
クロードは、諦めなかった。
最後に残された口を開き、歯でもって噛みつこうとした。
けれど、そんなものは、蟷螂の斧に過ぎない。
悲鳴があがる。誰かが「助けて」と祈る。
応える者などいるはずもない。
この地に翼を嗣いだ勇者はおらず、龍神は邪竜へと堕天したのだから。しかし。
「任された」
凍り付いた街路樹を蹴り飛ばし、空中より落下する逃亡者が振り下ろす刀が、ネオジェネシスとなったベックの右腕を切り落とし、返す刀で左腕を飛ばした。
「……なにが涙をぬぐうだ? なにが笑顔をもたらすだ? 輝く未来? 新世界? マッチポンプ野郎がデタラメを吹いてるんじゃねえぞ。エカルド・ベック、この赤い導家士の面汚しがあ!」
ドゥーエの足裏が、ベックの顔面を踏みつけた。





