第226話 邪竜と赤い導家士
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マラヤ半島を見下ろす空の上に、小さな宮殿が浮かんでいた。
ゴシック調をベースに、槍のような尖頭アーチと双頭の竜を模した飛び梁が特徴的な、壮麗かつ重厚な外見は見る者の目を奪わずにいられない。
内部もまた、大理石の床が金剛石のように磨き抜かれ、柱は薔薇を連想させる繊細な模様が彫り込まれ、無造作に置かれた調度品の数々とステンドグラスから射し込む光が、得も言われぬ幻想的な雰囲気を醸し出している。
しかし、この城で最も美しいものは何かと問われれば、エカルド・ベックはこう答えるだろう。
宮殿の玉座に座る少年、すなわち邪竜ファヴニルに他ならないと。
「仰せの通り、クローディアス・レーベンヒェルムと接触しました」
「ああ、見ていたよ。素晴らしい催し物だった。良い芝居を見せた役者には褒美を与えないとね」
ベックは敗北を叱責されるのではないかと、内心恐れおののいていたが、いつになく上機嫌そうなファヴニルを見てほっと胸をなで下ろした。
「金貨の入った袋はいつもの場所に置いてある。脱出用の巻物と、他に必要なものがあれば宝物庫から何でも持って行くといい。気兼ねはいらないよ、なにせこの城はキミたちのものだったんだからね」
「ご冗談を。ここは貴方様の城です」
ベックの返答を聞いて、金と銀の糸で織られたシャツを着た少年は物憂げな視線を送った。
「イオーシフ達の末路は、もう耳に届いたかい?」
ベックは無意識のうちに、首に巻いた赤いスカーフに手を伸ばしていた。
この年、ひとつのテロリスト団体が壊滅した。
支部長イオーシフ・ヴォローニン率いる"赤い導家士"の残党は、イシディア国に大きな惨劇をもたらして、コーネ・カリヤスクと呼ばれる異世界から来た剣士に討たれた。
「同志たちのことは残念です。しかし、我々の夢は終わりません。私がいる。貴方様の力を借りて、必ずや赤い導家士を再建しましょう。だって、この世に金で買えないものはないのですから」
「ボクはキミの夢を応援するよ」
「はい、私の活躍をどうかご期待ください」
ベックは一礼し、玉座の間を出た。
邪竜の視線を遮るように扉を閉めた後、彼は深い息を吐く。
身体が生きることを思い出したかのように、汗がとめどなく噴き出した。
「私には事情はわからないが、あの方に挑もうというのだ。辺境伯は正気ではない。あるいは、私と同じように見果てぬ夢を追っているのか」
エカルド・ベックは古い記憶を思い出す。
もう一〇年以上昔のことだ。西部連邦人民共和国の辺境に、一人の少女がいた。
彼女は"巫女"と呼ばれる異能の持ち主で、水面を見ることで未来を予言できた。
そして、ある日、少女は見てしまう。村の湖面を覆い尽くす終末、雪と氷に閉ざされた世界の終焉を……。
来たるべき未来の破滅を防ぐため、世界を革命すべく生まれた組織。
それが、赤い導家士だった。
「私は止まらない。何者が立ちはだかろうと構わない。何物を失っても構わない。金で買えないものはないのだから。新しい同志を集め、新しい組織を作り、必ず我らの悲願を成就しよう。私の夢は、決して終わらない」
ベックはハンカチで額を拭い、身体に香水を振りかけて、洒落た足取りで歩き出す。
夢に向かって真っ直ぐに。たとえ夢が変貌し、狂気に変わり果てたとしても、彼は夢を追い続ける。
その後ろ姿を、玉座のファヴニルは満面の笑顔で見送った。
「金で買えないものはない、か。矛盾しているよ、エカルド・ベック。何物にも代え難い夢だったからこそ、キミはそこまで狂い果てたのだろうに。だからこそ、素晴らしい!」
ファヴニルにとっては、人間の苦悩なんて、観るための劇の題材に過ぎないのだから。
「多すぎる正義が騒乱を呼ぶ。だからさ、クローディアス、ただしいものはひとつきりでいい。そうは思わないかい?」





