第212話 幸福な婚約と崩壊の予兆
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復興暦一一一一年/共和国暦一○○五年 涼風の月(九月)一八日夜。
ローズマリー・ユーツとラーシュ・ルンドクヴィストは、オトライド川をくだる船上で、マルグリット・シェルクヴィスト男爵について語り始めた。
「まずなにから話しましょうか。そういえば、辺境伯……クロードは、ユーツ領の地理と産業について御存じかしら?」
「そうだね。僕たちが抑えた高山都市アクリアを中心とする領南西部が農業地帯、山を越えた炭鉱町エグネがある領北西部が工業地帯、領都ユテスや港町ツェアのような平野と都市に恵まれた領東部が商業地帯だと聞いている」
クロードが淀みなく答えたところ、ローズマリーはにんまりと微笑み、ラーシュは感嘆の息をもらした。
「さすがね。作戦の為に、予習は惜しまないってところかしら?」
「ユーツ領のことまで御存じだなんて。尊敬しますっ」
「知識は武器だから。人死にを減らせるなら、僕はなんだって使うさ」
クロードたちがユーツ領で親衛隊との戦いを優位に進められたのも、ドクター・ビーストとの戦いの後、ベナクレー丘から持ち帰った交戦情報や武器残骸を解析したことが大きかった。
緋色革命軍の親衛隊員にとっては天下無敵の新装備でも、レーベンヒェルム領からすれば本来の製作者から劣化した模造品に過ぎないのだ。
結果、クロードとチョーカー隊は、入念な対策戦術を準備した上で、親衛隊を鎧袖一触とばかりに討ち払うことが出来たのである。
「貴方が高山都市アクリアを最初の目標に定めたのも、それが理由なのね」
「うん」
交通の便こそ最悪に近いが、守るに易く攻めるに難しい天嶮の地。
更に豊富な食料生産が見込めるとなれば、山越えの無茶を強いても狙わない理由はなかった。
「……本題に戻りましょう。ラーシュが継いだルンドクヴィスト家は南西の農村を治める古くからの貴族。マルグリットが継いだシェルクヴィスト男爵家は、南東の漁村を治める新興貴族。だけど、両家は昔から仲が良かったの」
「仲が良かった、だって?」
クロードは、ローズマリーの予期せぬ言葉に驚いた。
「待ってくれ、古くからの貴族と新興貴族だろう? てっきり僕は、闇に隠れて血で血を洗う暗闘でもやっていたんじゃないかって思っていたよ」
「貴方、むちゃくちゃ言うわね」
クロードの失礼な反応に、ローズマリーは目を見開いて絶句した。
だが、先代のクローディアスが血族を皆殺しにしたレーベンヒェルム領といい、マグヌスが簒奪と粛清をやらかしたソーン領といい、トビアス侯爵と有力貴族間の争いが絶えなかったルクレ領といい、いずれの領も多かれ少なかれ抗争問題を抱えていたのだ。
「辺境伯様。オレの家、ルンドクヴィスト家は田舎貴族ですが、ユーツ侯爵家に武をもってお仕えしてきました。シェルクヴィスト家もまた、三代前に海賊を討って男爵に任じられた武門貴族です。だから、気風が合ったんです」
「なるほど、そうなんだ」
気風というのは大事だと、クロードも思う。
最初は対立の目立ったレーベンヒェルム領も、いつの間にやら仲良くなっていた。きっとウマがあったのだろう。
「ルンドクヴィスト家はこの川をくだって蕎麦や野菜、家畜を運び、シェルクヴィスト家が買い取って流通させる。逆にシェルクヴィスト家が川をさかのぼって魚や交易品を持って来た時は、ルングヴィスト家が仲介して販売する。二つの家は、そうやって一緒にやってきたんです」
ラーシュは続いて、マルグリットとの馴れ初めについて話し始めた。
両家の縁ゆえに顔を合わせることはあったものの、交際を意識したのは二年前の秋。彼が一三歳になって、初めて社交界に出た宴席だったという。
「右も左もわからなかったオレを、マル姉は優しく導いてくれた。いいえ、そうじゃない。信じられないかも知れませんが、オレはドレスを着たマルグリットに一目惚れしたんだ」
「……そういうこともあるさ」
クロードは、赤い髪の少女との出会いを胸中で思い返していた。
あの時、傷ついてなお、他の娘を庇った彼女の姿に彼の心は奪われた――そして。
「たぁぬぅ」
クロードの背中では、寝ぼけたアリスがぬいぐるみじみた格好で甘えている。
長い戦いを越えて、この子とレア、セイの存在が、心の内で多くを占めるのも事実だ。
自分はとても不実なことをしていると、胸に鈍い痛みを感じた。
「オレは、マルグリットと結ばれたいって父に申し出ました。最初はまだ若すぎるって怒られましたし、先代のバーツ・シェルクヴィスト男爵も、マル姉までが反対したけど、神官騎士のオットー・アルテアン様が骨を折ってくださって、無事婚約できたんです」
「ラーシュ、駆け落ち同然で押し掛けて婚約式をするのは、無事とは言わないわよ」
「愛しあっているからいいんです!」
クロードは、ラーシュの剣幕に冷や汗をかいた。どうやらこの少年も、結構な劇物らしい。
「神官騎士って、立場は宗教界だけど騎士の称号も持っている人って意味だっけ?」
「ええ。おおよそ、その解釈で構わないわ」
日本で言えば、いわゆる僧兵などが当たるだろうか。
平安時代末期に源義経の従者を務めたとされる武蔵坊弁慶や、戦国時代に石山本願寺軍の坊官であった下間一族が有名か。
特に雑賀孫一と並んで大阪の左右大将と謳われた下間頼廉は、軍事指揮官として織田軍と互角に戦い、内政や外交にも重きをなしたという。
「アルテアン卿は熱心なフレイ神の信徒で、兵法にも精通しているわ。遺跡から溢れ出たモンスターの群れをわずかな供回りと共に退治して、勲章を得たことだってあるの」
「そうか。フレイ神は豊穣を司る神だけど、アース神族との戦いで活躍したり、鹿の角で巨人を倒したりして、戦士としても有名だったね」
この世界の宗教は、北欧神話に相似している。ゆえに神々は、多かれ少なかれ軍神としての側面を兼ねることが多いのだ。
「オットー・アルテアン、か」
クロードは、ふと彼の名前にひっかかりを感じた。
「どこかで名前を聞いたような……」
「オットー? オットー・アルテアン教官だとぉっ?」
意外にもその名前に喰いついたのは、ミーナたちと談笑中のチョーカーだった。
「なんだ、チョーカー隊長。知っているのか?」
「アルテアン教官は、客人としてエングホルム領の士官学校に招かれたことがある。小生が図上演習で一度も勝てなかった男だ。奴の悪辣な待ち伏せに、何度苦渋をなめたことか」
「へえ珍しい。だったら是非一度会って解放軍に勧誘を……」
そこまで言いかけたクロードは、ようやく出兵前の事前調査を思い出した。
「そうだ。ヨアヒム、たしかユーツ領の地区委員長の名前は、オットー・アルテアンだった!」
「はい。公安情報部の調査では、オットー・アルテアン卿はヴァン神教の信徒たちを守るために緋色革命軍に降伏し、ゴルト・トイフェルによって地区委員長に抜擢されたそうです」
ヨアヒムはいたたまれなさそうに、資料で顔を伏せて告げた。
クロードもまた、気まずそうに言葉を濁す。
「ラーシュくん、その……」
「いいえ、アルテアン様は為すべきことをされただけです。オレは今でもあの方を信じています」
ラーシュは懐かしそうに、そして寂しそうに山間の夜空を見上げた。
「マル姉と婚約してからの半年間、オレたちは幸せでした。東の海辺で病人が出たと聞けば薬を手に走り、西の山で風車が壊れたと聞けば工具を持って走るような生活だったけど、マル姉と一緒だった。マル姉のお兄さんで、先代男爵のバーツ様も気さくで色々と世話を焼いてくださった。三人で浜辺でたき火を囲んで、食べた魚の味を今でも思い出せます」
今にも泣き出しそうなラーシュを慮ったのか、ローズマリーが話を引き継いだ。
「……クロード。ユーツ領は、他の領に比べたら安定していたの。良くも悪くも。だからこそ、マクシミリアンは壊そうとしたのだと思う。一年と半年前、いえ、こう言いかえましょうか。緋色革命軍が蜂起する半年前の春、マクシミリアンとマグヌス・ソーン侯爵がバーツ男爵にある商人を紹介したの。エカルト・ベック。今はユーツ領の経済委員長として、炭鉱町エグネを支配する男よ」
マクシミリアン・ローグは、ローズマリーにとってかつての婚約者であり、忌むべき裏切り者で両親の仇だ。
そして、マグヌス・ソーンことマグヌス・バンデッドは、対立するソーン侯爵家の血族を暗殺して爵位を奪った簒奪者だった。
「私はずっと知らなかった。でもきっとあの日から、ユーツ領は壊れ始めたの」





