第211話 悪徳貴族の川下り
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復興暦一一一一年/共和国暦一○○五年 涼風の月(九月)一八日夕刻。
クロードたちユーツ領解放軍は、断崖からの逆落としによって緋色革命軍を撃ち破り、オトライド渓谷関所を制圧することに成功する。
この勝利によって、侯爵令嬢ローズマリー・ユーツは、天嶮の地であるユーツ領南西部一帯に確固たる勢力基盤を成立させた。
これまで滅亡の危機に瀕していたユーツ家の遺臣団は、人目も憚らず涙を流して喜びあった。
「ふはは。やった、やったぞ、我々の勝利だ」
「ユーホルト伯爵、おめでとうございます!」
ヴィルマル・ユーホルト伯爵は、拷問でねじ折られた足にも構わず兵士たちと抱擁を交わし、ラーシュ・ルンドクヴィスト男爵もまた、婚約者への未練を胸に秘めて笑顔を浮かべた。
しかし、いまや解放軍の主力となったクロードと、参謀長ヨアヒム、特殊部隊を預かるチョーカーは、弾んだ空気を気にも留めずに追撃の準備を整えていた。
「うん、ちゃんと関所に舟が残っている。ざっと三〇隻か。一隻あたり、七、八人として、二〇〇人は乗せられる」
「リーダーが奇襲を成功させたおかげっすね。でも、八m程度の木造船じゃあ、馬を乗せるのは無理そうっす」
「次の戦場は砦だろう? 連れていく必要もあるまいよ」
そんな三人の様子を見た侯爵令嬢たちもまた、すぐさま出立支度を始めた。
ローズマリー・ユーツは旗を丸めてヨアヒムの隣に立ち、ミーナも気つけに葡萄酒を飲んでチョーカーの手を握りしめる。
そしてアリスは酔いと疲れのせいか、猫にもたぬきにも似たぬいぐるみ姿で、クロードに背負われていた。
「コトリアソビ、本当にお前たちはしまらぬなあ」
「ほっとけ!」
クロードとしては、そんなアリスだからこそ愛おしいのだ。
彼は寝息を立てる少女をあやすように撫でさすると、歓喜に沸く遺臣団の中央に進み出た。
「ユーホルト伯爵。我々はこれより川を東に進み、ヘルバル砦を攻めます」
クロードの発言に、ユーホルト伯爵は唖然とした。
「たった戦いを終えたばかりですぞ。兵士たちには休養と報償が必要だ」
「はい、ユーツ領を取り戻した暁には、ありったけの休暇と賞与を用意します」
クロードの指示は無茶とも言えるものだったが、意外にも大同盟から来た兵士たちは積極的に従っていた。
ユーホルト伯爵は知らぬことだが、これまでレーベンヒェルム領が、ひいては大同盟が経験してきた戦いは、絶望と隣り合わせのものばかりだった。
そんな不可能作戦と比較すれば、街や関所、砦を攻略するなんて、実に常識的で平凡な作戦ではないか。そう兵士たちは感じていたのである。
――言うまでもないことだが、無補給の山越えも断崖落下騎兵突撃も、ユーホルト伯爵たちユーツ家遺臣団にとっては、前代未聞の奇策に他ならない。
「敵もまさか連戦は想定していないでしょう。今こそ好機です。ユーホルト伯爵は、関所の確保と負傷兵の治療をお願いします」
「無理だったら戻ってくるっす。強行偵察だと思って大目に見てくださいや」
クロードたちが先陣を切って乗舟すると、ローズマリーら二〇〇人の兵も続いた。
「いけません。ローズマリー様、どうかアクリアへお戻りください」
「ユーホルトのおじさま、ごめんなさい。ここは退けないの」
「お、オレも行きます」
「ラーシュ。お前までっ」
栗色髪の少年男爵が跳ねるようにしてクロードたちが乗る舟の最後尾に飛び乗ると、ちょうど夕陽が落ちた。
山合いから仰ぎ見る空はうっすらと紫色に染まり、明星の輝く群青に変わる。霧も濃さを増して、じきに周囲は黒の帳が落ちるだろう。
「山の日没って早いっ」
クロードは船先で迷彩用の魔術文字を刻みながら、事前に調べておいた地形を思い浮かべた。
オトライド川は、高山都市アクリア付近の山岳地帯を源流とする重要河川である。このまま東へ下れば、やがて領都ユテスを潤す北の本流と、港町ツェアから海に流れ込む南の支流に分岐する。
ヘルバル砦は、まさにその分岐点に近い扇状地に築かれているという。
「あれ? この魔術文字って自動航行の術式じゃないか」
クロードが新しく書きこんだ術式の隣には、すでに複数の魔術文字と魔除けの文様が刻まれていた。
「他には、防火と耐衝撃の術式か。ひょっとしてシェルクヴィスト卿の手配か」
おそらくは関所を守る女男爵が、万が一の際に仲間たちを脱出させるため、事前に講じていた善後策だろう。
もしもクロードたちが後方から騎馬突撃を仕掛けなければ、関所の守備隊ごと脱出されていたかもしれない。
「手強いな……」
クロードは、通信用の魔術貝を用いて他の船へと事情を伝えた。
川は下りであり、舟はオートパイロットで進んでゆく。
速度こそ遅いもの、兵士たちが疲れた体に鞭打って櫂を漕ぐ必要もなくなった。
「アリス?」
クロードが振り返ると、アリスは彼の背に抱きついたまま寝入っていた。
ヨアヒムは暗視の魔術を自らにかけて、次の作戦を確認しているようだ。
チョーカーとミーナ、ミズキはなにやら雑談に興じている。
そして、ローズマリーとラーシュは所在なさそうに、黒々とした川の水面を見つめていた。
「ローズマリーさん、ラーシュ君……」
クロードは、今日戦った敵将について踏み込むことを決意した。
今、舟に乗っているのは見知った八人だけだ。切りだすには悪くないタイミングだった。
「マルグリット・シェルクヴィスト男爵について教えて欲しい」
かの女男爵は強敵だった。
重さを自由自在に操る第六位級契約神器ルーンブレスレット”月想”の危険性は言うに及ばず、マルグリット自身もまた断崖からの奇襲を見抜く聡明さと、関所守備隊が命をかけて守るほどのカリスマ性を兼ね備えている。
そして、脱出艇の準備等を鑑みるに――、彼女はおよそ緋色革命軍には似つかわしくないのだ。
「そうね。貴方には話しておくべきね」
「ローズマリー様。ではっ」
「ええ、ラーシュ。すべてを打ち明けましょう。私もマルグリットの力になりたいから」
舟がわずかに揺れた。霧がほんの少し晴れて、月の光が射した。
そして二人は、事の発端を話し始めた。





