第175話 悪徳貴族とソフィの祈り
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復興歴一一一一年/共和国歴一○○五年 恵葉の月(六月)二六日。
穏やかな闇に抱かれた夜が過ぎ、日の昇る朝がやってくる。
海の底ゆえか。
テントの中は南国らしくもない寒さで、クロードとソフィは身を寄せ合うようにして眠っていた。
繋いだ手に温もりを感じる。治療用の香木を焚いて、ソフィの匂いと入り混じった花の香りがクロードを安心させた。
ずっとこうしていたかった。戦いとは無縁の世界で、彼女と共に人間として当たり前の生活を送る。それはきっとどうしようもなく、幸せなことだろう。
だけど有り得ない。……クローディアス・レーベンヒェルムに、そんな日だまりは許されない。
昨日の休息で傷も半ば癒えた。再び戦いを始めなければならない。
クロードが決意と共に目を見開くと、ソフィがじっと見つめていた。
彼女の黒い瞳が緩み、涙がにじむ。花弁のような唇が咲いて、言の葉をつむいだ。
「クロードくん。貴方がこの世界に来てから、色んなことがあったよね」
ソフィと初めて出会ったのは、ファヴニルに案内されたこの世の地獄めいた地下室だった。
彼女は傷つき、掌に穴を穿たれて、瞳すら奪われていた。
ソフィはそれでも同胞を守ろうと、悪徳領主と邪竜の前に立ちはだかった。
クロードは、彼女の姿とその心に打ちのめされた。思い返せば、魂を奪われていたのかもしれない。
ああ。だからこそあの海岸で、似つかわしくもない勇気が湧いてきたのだろうか?
クロードは、レーベンヒェルム領を復興してファヴニルを祓うと決めた。
「皆がクロードくんに助けられた。飢えて死ぬひとはいなくなった。理不尽に殺される人も、奴隷のように虐げられる人もいなくなった。牢獄の中みたいな日々が終わって、お日さまの下で生きて笑えるようになったよ」
ソフィが、繋いだ手を強く強く握りしめた。
「それでも、クロードくんは――今も死ぬつもりなの?」
クロードは、手を振り放そうとした。
しかし、動かない。彼の手は、彼の心に逆らった。
「ソフィ。クローディアス・レーベンヒェルムは、死ぬべき咎人だ」
「でも、彼はもういないよ。あの人の罪が、冥府で許されたのかはわからない。ここにいるのはクロードくんだよ。マルクさんが貴方を英雄だって憧れるのもわかる。だって貴方はずっと先頭に立って、皆の為に走り続けたんだから」
ソフィと繋いだ手から、血潮の音が伝わってくる。
クロードの心臓は、今にも爆発しそうだ。
まるで血が交わるように、言葉が心に入ってくる。
許されない、とクロードは奥歯を噛んだ。
彼女の吐息が、命の熱が、固めたはずの覚悟を溶かしてゆく。
あの悪党とは違っても、それでも同じ咎人なのに。
滅ぼされるべき邪悪は、決して許されてはならない。
クロードは、いっそ自暴自棄にすらなっていたのかもしれない。
「やめてくれソフィ。僕は英雄なんかじゃない。だって僕は、僕はあいつに、ファヴニルに勝てるなんて信じちゃいないんだ」
言ってしまった。
ずっと秘めていた罪を、明かしてはいけない真実を、よりにもよって彼女の前で口にした。
「ソフィが、皆が力を貸してくれたお陰だ。レーベンヒェルム領は立ち直りつつある。”血の湖との戦いも、奇跡的に上手くいった。だからわかってしまった」
アルフォンス・ラインマイヤーは、本人が意図せぬ形で教訓を残した。あるいは、ファヴニルによって予行演習のように誘導された。
「軍をより精強にしよう。怪物災害に準じた避難対策も整えよう。緋色革命軍を倒し、第三位級契約神器レギンを見つけよう。そして僕は、ファヴニルに挑む」
万全の準備を整えれば、戦いにはなるだろう。ファヴニルが利用する軍勢やモンスター、それらを分断して各個撃破することも叶うだろう。
「どれだけ優位な条件を揃えても、僕は勝利する自分を想像できない」
「それは、ファヴニルがグリタヘイズの龍神だから?」
クロードは頷いた。
彼がグリタヘイズの村で思い至ったように、ソフィもまた気づいていたのだ。
「あいつは、ある意味でセンパイだった。ファヴニルは、かつて神として人々に恵みをもたらして導こうとした。どうして今のような邪竜に成り果てたのかはわからないけれど……」
何かがあったのだろう。ファヴニルを変貌させる決定的な何かが。
彼は人間を憎みながら愛し、嘲笑いながら賞賛する。
玩具や家畜と断じて弄びながらも、人間がもつ可能性と強さを甘く見てはいない。
そして弱さを知っているからこそ、クロードを誘惑し、ダヴィッドやアルフォンスを籠絡し、脆い弱点に突けこんでくるのだ。
「確かなことは、あいつは一千年かけて強くなった。あいつの努力と執念に、僕はきっと及ばない。相討ちを狙うのさえ困難だ。僕は身勝手な都合と生存欲求で、勝ち目のない戦にレーベンヒェルム領を巻き込んでる。これは、許されない罪だ」
最初は茫洋としていた彼我の戦力差が、強くなったからこそ明確に理解できてしまう。
震えるクロードを抱きしめるように、ソフィが身を寄せる。
「だったら、やめる? クロードくんの先輩を頼る? アメリア合衆国や西部連邦人民共和国にもきっと強い人はいるよ?」
「それは出来ない。部長たちだって自由なわけじゃない。何の代償もなしに他国は動かない。マラヤディヴァ国は海路の要衝だ。ファヴニル討伐を名目に、どんな無理を飲まされることか。外国がファヴニルにとって代わりましたじゃ意味がない」
クロードは、自身に止まれと念じた。
格好をつけるのだ。平気のへっちゃらだと演技をするのだ。
しかし、身体の震えは止まらない。決してソフィに伝えてはならないのに。
「僕がやると決めた。きっと僕だけがあいつを終わらせてやれる。だけど、僕はそんな我儘で皆の命を失った!」
領役所防衛戦で、ベナクレーの丘で、ルクレ領とソーン領の解放で、少なくない血が流された。
「もしも僕が有能だったら、死んだ人たちは無事だったかもしれない。僕じゃなかったら、もっと上手くやれていたかもしれない。僕がもっともっと頑張っていれば、僕が英雄だったら、皆を守ることができたのに!」
クロードの心に刻み込まれた、古く深い傷が開いて血を流す。
だって規模は違っても、実例を知っているのだ。
部長は、演劇部最大の危機において全部員を守りきった。
だからきっと龍神/邪竜ならば、何もかもを失うことがない。
「クロードくん。神話のシグルズさんは、奥さん二人を守れてないよ」
「あ、いや、それは、そうだけど」
息が触れそうな距離、互いの顔を瞳に映しながら。
そうソフィに囁かれて、クロードは言葉を失った。
「あとニーダルさんも、ファヴニルを倒してないよね」
「ちゃ、ちゃんと時間を稼いでくれたよ」
ソフィの指摘は、辛らつに過ぎる。
部長の助力がなければ、三年の休戦はなかっただろう。
しかし、もしもニーダルが何事もなくファヴニルを退治していれば、その後の歴史は変わっていただろう。
だから彼を責めるのか? お前が力及ばなかったから、僕達は救われなかった?
そんな恥知らずな台詞を吐く輩がいるならば、クロードはきっとハリセンで殴り飛ばすだろう。
(あ、れ? おかしいぞ)
クロードは、ようやく自己の矛盾に気がついた。
英雄ならば誰も彼をも救える? そんなこと、いったいどこの誰が保障してくれるのだ?
最初のきっかけは、ファヴニルに力を与えられた際の万能めいた酩酊感だろう。
あの夜、クロードはまるで自分が天下無比の存在になったかのように誤認した。
(やられた、毒だ。あの邪竜、最初から仕込んでた!)
毒も何も、ファヴニルにとっては特別なことではなかったのだろう。
身に余る強大な力を与えて、人間を狂わせる。
先代のクローディアス・レーベンヒェルムも、ダヴィッド・リードホルムも、アルフォンス・ラインマイヤーも、力という毒に狂って自らの人間性を投げ捨てた。
クロードはファヴニルの力を拒絶して、しかし無意識下に刻んだのだ。
竜に対抗する為には、同等の力が必要だと。
自らにはないことを自覚しながら、只人の力を集めながら――。
それでも、もしももしもと万能の可能性を、英雄というカタチで求めていた。
「クロードくんだけじゃ、ファヴニルに勝てない。そんなの当たり前だよ」
人間は弱いからこそ、その手に掴めるものが小さいからこそ協力する。
家族を営み、友人となり、寄りそって村や町を作って、国家を形成する。
「アンセルたちも言っていたでしょう。これは、わたしたちの戦いなの。怖いけど、逃げ出したいけど、それでも生きるためにわたしたちは皆で抗うの。だから、クロードくんも力を貸して。クロードくんが一番うまく皆を率いることができるから。きっとクロードくんだけが、龍神様を鎮められるから。わたしがあなたを守るから。絶対に助けてみせるから」
まるでひとつになろうとするかのように、クロードとソフィは強く強く抱きしめあった。
口づけを交わす。接吻は、互いの涙の味がして、心に甘く苦かった。
「ソフィ、もしもファヴニルかいなかったら……」
クロードの独白を、ソフィは唇を重ねて止めた。
「――ん。決めたんだ、クロードくん。わたしはレアちゃんの、アリスちゃんの、セイちゃんの願いを踏みにじっても、貴方を幸せにするよ」
「めちゃくちゃを言うなあ」
クロードは、いまさらになって気がついた。どうやら自分の目は節穴だったらしい。
ふたりぼっちを望んだレア。
人間と寄り添うことを願ったアリス。
静寂な世界を夢見たセイ。
「うん。わたしは一番悪い子だよ。だから、彼女たちを大切にして。そして最後に、私もこうやって抱きしめて」
ソフィが祈る、幸せにしたいという想いもまた、三人の信念に並びたつものだった。





