第94話 嚆矢
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開戦から一週間が経った。
セイが指揮するレーベンヒェルム領軍の波状攻撃によって、マグヌス率いるソーン領軍は目に見えて疲弊していた。
まず、食糧補給の問題があった。
重労働に従事する成人男性の場合、一日に必要な摂取カロリーはおよそ三〇〇〇kcal。米に換算すると一キログラム、約六合分だ。
この要領で計算すると、ソーン領軍五万人の兵士が一日に消費する米はなんと五〇トン。一ヶ月で一五〇〇トンにものぼる。六トントラック相当の大型荷馬車で運んでなお、二五〇台が必要になる。
大量の食糧を軍隊に随伴して運ぶのは困難で、ソーン領から荷馬車を使ってピストン輸送をするのだが、これを各地に潜むレーベンヒェルム領軍が見逃さなかった。
食糧や武器を積んだ補給部隊は、山道や細道から中隊による奇襲を受けて、片端から焼き払われた。
そうなってしまえば、ソーン領軍が打てる手はたったひとつだ。古今東西の軍隊がとる常套手段、現地調達、すなわち略奪である。
しかし、赤茶けた死の大地が広がるレーベンヒェルム領辺境では、満足な食べ物を奪うことができなかった。
折しもマラヤディヴァ国は、乾季から雨季に入ったばかり。乾いた畑が潤沢な雨を浴びて糧を実らせるには、もう少しの時間が必要になる。
末端の兵士すら気づいていた。自分たちの食料が、次の収穫を待たずに尽きることを。
次に、士気の低下が著しかった。
食糧の不足は、ソーン領軍兵士たちの不安や不満を増加させる。
それに留まらず、レーベンヒェルム領軍は、夜討ち朝駆け当たり前と昼夜を問わず襲撃をしかけた。
矢を射合った後、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。罠や狙撃もあったが、損害は微少だ。時には姿を見せるだけで逃亡する敵さえいた。
けれど、戦うたびに、少しずつ着実に、ソーン領軍は見えない傷をつけられてゆく。
最初こそ「勝利! 勝利! 大勝利!!」と悦に入っていたマグヌス・ソーン侯爵も、気の休まる暇もなく攻撃を受け続ければ、やがて無言になった。
ましてや、常に命の危険にさらされる兵士たちの負った重圧と恐怖は、尋常なものではない。
外国人傭兵たちは、民兵たちを痛めつけることで憂さをはらし、勝っているはずなのに怪我人ばかりが増えてゆく。
ソーン領軍参謀を務める宿将アーロン・ヴェンナシュは、騎馬隊を率いて追撃を試みたものの、マグヌス・ソーンの叱責を受けて取りやめた。
土地勘のないソーン領軍では、追撃後の合流に失敗するか、あるいは、おびきだされて各個撃破される可能性もあったからである。
レーベンヒェルム領に侵攻して五日が経ったころ、ついにアーロンは主君に撤退するべきだと申し出た。これだけ勝利を重ねたのだから、交渉して有利な条件で和平を引き出すべきだと。
しかし、マグヌスは進軍を続けた。彼は、侵攻作戦の為に、多くの借金を重ね、多くの権益を手放していた。具体的な報酬をなにも得られなかったでは、侵攻した意味がなかった。
そして、もしも明確な戦果をあげずに撤退すれば、用済みと判断されて、西部連邦人民共和国や緋色革命軍に処断されるのではないか、そんな恐怖が彼を駆り立てていた。
復興暦一一〇九年/共和国暦一〇〇三年 木枯の月(一一月)一九日。マグヌス・ソーンの、運命を決める日がやってきた。
正午から降り始めた雨が上がり、午後の太陽光が雲の切れ間から射す。ソーン領軍は、ドーネ河近郊で、ついに探し求めたレーベンヒェルム領軍総司令官セイを見つけた。
薄墨色の髪と葡萄色の瞳が目立つ少女は、千騎ほどの騎兵大隊を率いて待ち受けていた。
「マグヌス・ソーン侯爵とお見受けする。我が名はセイ。レーベンヒェルム辺境伯より兵権を預かる者だ。いざ尋常に勝負しよう」
「うひゃ、あひゃ、あひひひ。お前たち、あの女を私の元まで引きずってこい。褒美は思いのままだぞっ。突撃――!」
これまでの鬱屈を晴らすかのように、五万の兵士は地を踏みならして突撃した。
美しい獲物を狩ろうと、第五位級契約神器が操る巨人の軍勢が咆哮をあげ、騎兵や武装馬車が畜生の群れが如く追いすがり、槍や剣を手にした雑兵たちが餓鬼のように後に続く。
「やれやれ、まるで百鬼夜行だ。でも、夜は必ず日の出と共に明けるんだ。そして、星は見えずとも――あのひとに寄り添い続ける」
「我が無敵の軍団よ。永遠に語り継がれる悠久の勝利をここに!」
☆
一千対五万では、さすがに衆寡敵せず、セイ率いる大隊はレ式魔銃を斉射したのち、馬に飛び乗って逃げ出した。
セイが肝いりで訓練を施しているが、騎馬鉄砲隊は未だ編成されていない。安定した馬上射撃が可能な人員は、指揮官に内定しているイヌヴェを含めてわずか十数人。取り回しを鑑みて銃身を切り詰め、複数回の射撃を可能にした騎銃に至っては、試作品が数丁できたばかりである。
ともあれ、セイとイヌヴェが率いる騎兵大隊は街道を外れ、河原を踏みしだいて、筏を繋げて魔法で固定した簡易橋を使ってドーネ河を渡った。
マグヌスに叱咤されたソーン領軍は、まるで鼻先にニンジンをぶら下げられた馬のように、土煙をあげて彼女を追っていた。
魔法が解かれて筏に戻り、簡易橋は下流へと流された。
ソーン領軍は、”雨季だというのに水かさが低い”泥の混じったドーネ河を、膝まで濡らしながら一丸となって渡ってゆく。
川沿いの森に潜んだアンセル・リードホルムは、視覚を代行する数珠で敵軍を監視しながら、クロスボウ型の第六位級契約神器”光芒”を構えた。
(作戦通りに追って来たのか。街道を外れずに正規の橋を渡るなら、ロロン提督が指揮する別働隊から、大砲の集中砲火を浴びただろうけど……)
ソーン領軍は、行軍の足並みは乱れ、部隊も装備も混在してまるでまとまりがなかった。
あれでは軍隊の体を成していない、と、アンセルは敵軍を憐れんだ。
もっとも、半年前のレーベンヒェルム領軍だって同水準だったのだ。
違ったのは、ただ二つ。
セイという指揮官と、クロードという領主だ。
アンセルは、ソーン領の現状をハサネ・イスマイール公安情報部長から聞いていたが、惨いものだった。
「別に外国人に頼るなと言ってるわけじゃないし、ましてや帰化人をどうこう言うつもりは全くない」
純血主義が云々などといった価値観を言い出すと、そもそも司令官のセイが異世界人だ、とか。
元妖精大陸出身の傭兵サムエルは? 共和国から帰化したパウル・カーンは? 協力してくれるガートランド王国のウェスタン建設は? そして、今のクローディアス・レーベンヒェルムはいったい何者だ? と、領が根幹から揺らぐことになる。
アンセルは、クロードが領都レーフォン攻防戦の際、相対した兄ダヴィッドに対し、『ひとはひととの繋がりで生きている』と啖呵を切ったと、農園の作業員たちから聞いていた。
「国や地方だって、繋がりの中で成り立っている。良きにつけ、悪しきにつけ、影響を受けず、影響を与えずに有り続けることなんてできない」
アンセルは、クロードと出会う以前、邪竜と契約を交わした悪徳貴族さえ排除すれば、すべてが上手く回るなどと考えていた時期がある。
それが有り得ないことだと、もはや彼は知っている。国もまた、人と同様に、良き隣人にもなれるし、安全を脅かす悪しき敵にもなり得るのだ。――そして、この大陸は、現在ひとつの流れの途上にある。
「西部連邦人民共和国が、力による拡大を望み続ける限り、状況は変わらない。戦争なんて望まない。だけど、ぼくたちは故郷を守り続けると決めた」
アンセルは、クロスボウの引き金に指をかけ、渡河したソーン領軍を睨みつけた。
「マグヌス・ソーン。そして、ダヴィッド・リードホルム。私欲のために、国家と国民の主権を踏みつける、お前たちの様な為政者はいらない!」
アンセルは引き金を引いた。第六位級契約神器”光芒”は魔力消費が激しく、連射が効かない。しかし、一撃の破壊力は第五位級神器の魔術障壁を容易く貫通する。
マラヤ半島では見せることが叶わなかった、天から落下する光弾が、敵軍先頭にそびえ立つ第五位級契約神器の巨人をまとめて数機消し飛ばした。
「出納長殿がやったぞ。対神器弾頭用意。撃てェッ!」
サムエルの叫びが河原に木霊し、クロードが空間断裂魔法をこめた弾丸が、ソーン領軍の盟約者たちと契約神器を引き裂いた。
先制の一撃を皮切りに、総勢一万のレーベンヒェルム領軍勢が、ドーネ河を背にした五万のソーン領軍を半包囲するように森から飛び出し、両軍は遂に激突した。