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「え……えっと?」
「どうぞお飲みください」
茫然とするフィレアの前には大きなテーブルがある。そこに置かれているのは、テーブルを敷き詰めるほど並べられたティーカップ。
事前にお茶が入っており、しかも全部種類が違うのだ。
鼻腔をくすぐる香りを漂わせていくつもの波紋を広がせているお茶を見、フィレアは隣でにこやかに笑うカイに視線を移した。
「どういうこと?」
「フィレア様が好まれていたお茶を用意しました。これを飲めばもしかすると、記憶が戻るのではと思いまして」
フィレアは顔を引きつらせた。
飲めというのか。
このいくつあるのか数えるのも嫌になるほどあるカップに、たっぷりと入れられたお茶をすべて。
「それと、同じお茶とそれをアレンジしたものもあります。どれも気に入らしていたものばかりです」
「いや、あの」
味を変えればいいという問題ではない。
だが、隣で微笑みながらわずかな期待を寄せているカイを見て飲まないわけにはいかない。
カイやヴェントたちと出会って、実際には記憶がないだけなのだが、カイは時々突拍子もないことをする。それは彼女のことを思ってなのだが、当のフィレアはおかしな人だと認識されていた。
そうとも知らない彼は、フィレアがお茶を飲むのをそわそわと見ている。
フィレアは目の前に置かれたアンティーク調のティーカップを持ち、そっと口をつけた。
ふんわりとした優しい香りが口に広がり、甘さ控えめに作られたのかわからないが、それも丁度よく合っている。
フィレアは思わず顔をほころばせた。
「おいしい」
「それはよかった。そのお茶はカルー産なんです。誰からも好まれる味を目指して、とその茶葉を作った本人が自ら売り込んできて」
へえ、とフィレアは息をもらした。
妙に詳しいところを見ると、このお茶は全部カイが入れたものなのだろう。
次々と口をつけていくフィレアはちいさく頷いていた。
それぞれの葉にあわせ、入れ方や微妙に違う温度がきちんとあっている。以前の彼女がこのお茶たちを好んでいたのも頷けた。
もっとも、カイが入れたお茶だからなのだが。
「どうですか?」
「うーん……ごめん。だめみたい」
「そうですか……」
カイが僅かに顔を曇らせる。
いくら飲んでも、これといって変化はなかった。そう安々と思い出すはずもないのだけれど。
ハーブティーを口に含み、フィレアは何か言おうと口を開け、
「フィレア?」
聞こえてきた声に口を閉ざした。
伺うような口調に続いて扉を開けて入ってくるのは、白髪を揺らすヴェントだった。
「なにを……」
している、と続けようとしたヴェントの目に、以上というほどのカップが映った。殆どが入れたままの状態と変わらないが、フィレアの周辺のカップだけは残りが僅かになったものと、すこし減ったものがあった。
ヴェントは驚いたように目を見開かせる。
「これ、全部お茶か?」
「うん。カイが入れてくれて」
「入れてって……全部飲むのは無理じゃないのか?」
「うるさいぞヴェント。ほっといてくれ」
カイはちいさくヴェントを睨む。
「フィレアはカイの入れるお茶が好きだったからな。記憶が戻るかもしれないと思ったのか」
「ヴェン。黙ってろ」
鋭くつくヴェントにカイは再び睨みつける。
そんな二人のやり取りに、フィレアはちいさく笑った。
ヴェントは時間が経ち少し冷めてしまったお茶を手に取り、飲もうとしてふと手を止めた。
「フィレア。何か聞きたいこととかないか?」
「え?」
突然の言葉にきょとんとするフィレアに、ヴェントは続ける。
「知りたいこととかあるか?」
気遣うような声色に、フィレアは数秒置いて、
「私の……家族……」
目覚めてからフィレアの部屋にはたくさんの人が訪ねてきた。けれど、自分の家族と思われる人は一人もいなかったのだ。
もしかすれば自分には家族が、親がいないのではないのかと思い、フィレアは不安げな声でそう答えた。
そんな彼女の気持ちを読み取ったのか、カイが優しげな声で答えた。
「フィレア様のお父様、国王がいらっしゃいます」
「お父さん?」
いると分かったのか、僅かに頬が緩む。
「あの、他は」
二人を見上げるフィレアに、カイとヴェントは顔を見合わせて、ヴェントが口を開いた。
「前神様であるアリア様が――フィレアの母親がいる。……でも、アリア様はフィレアを生んですぐに亡くなった」
「ですから今いるのはお父様である、ダヴィン様だけです」
二人の言葉にフィレアは瞳を伏せ、
「……そうなんだ」
と、ぽつりと言った。
「ねぇ、お父さんはどこに?」
父親がいるのであれば、娘であるフィレアの顔を見にはこないのだろうか。
長い間行方をくらまし、やっとの思いで見つければ、記憶を失っていた娘。そんなフィレアを、心配ではないのか。
そんな疑問と、何も分からないところで一人、頼れる相手がいるのならと。
そして、自分の父親の顔を見たいとも思う。
「ダヴィン様は部屋に引きこもってます。会うのは無理だと思いますよ」
高く澄んだ声に顔を上げ――見上げた先に、拗ねた様子のエレナがいた。
「おい、エレナ」
「カイ様。本当のことを言っただけです」
慌ててエレナの言葉をとめさせようとするが、それはあっさりとかわされてしまった。
「だってあの方、長い間部屋にこもりっぱなしですよ? 部屋から出たことなんて、一年に一回あるかどうか……それに私、顔も見たことありませんもの」
早口にまくし立て、嫌味を含んだ物言いは、エレナがダヴィンをあまり好いていないことが分かる。
「そ、そうなの……?」
「そうですよ、フィレア様。フィレア様のお父様である国王を悪く言うつもりはありませんが、私はあの方はあまりよろしくありません。こうしてやっと帰ってきた娘を一度も見ることもなく、部屋にいるんですよ? きっと全身カビだらけです!!」
拳を握って高々と宣言するエレナをフィレアはぽかんと見上げた。
会ったこともない相手のことをここまで言えるのは一種の才能ではないのだろうか。
「とにかく! 会わないほうが身のためです」
「でもエレナ。フィレアが会いたいといっている」
会いたいというのなら、会わせてやるべきではないか。
彼女にすれば、今一番頼れる者である親が、父親しかいないのだ。
そんな気持ちを含めていった言葉だが、エレナは軽く鼻を鳴らした。
「なんでです。そういうのは親から来るべきでしょう? なのに一目ですら見に来ようともしないなんて、最低です」
国の象徴である国王に対して随分な口の利き方だな、と今の発言を聞いた人々は思うだろう。
だが当の本人は気にする様子はない。
「エレナ、お前仕事は? こんなところで喋ってていいのか?」
このままでは一時間は軽く続いてしまうだろうエレナの話に、カイは話をそらす。
あぁ、とエレナはちいさく頷き、
「終わりましたよ。あ、でもあと洗濯を三回ほど残ってますけど。すぐに終わります。私洗濯は得意なんですよ!」
にっこりと微笑んだ。
「カイ様とヴェント様は? 今日はやけに城内が騒がしく感じましたけど……なにか慌てているような?」
「今日はな……。警備のために、少し人数を増やしたんだ。休憩に入っている人も警備にあたらせた」
「もともと少ないからな、そうでもしないと無理らしい。門番も含めて十五人というところだ」
平和を保ってきたこの国は、城に直接襲い掛かる輩はいないため、警備の者たちは少数しかいない。
もしものことがあった場合や下町での暴徒が暴れた場合、カイとヴェントが出ることになっている。
「あ、あの……」
ふと、フィレアが口を開いた。
「私も何か、手伝うことある……?」
毎日忙しなくエレナたちが働いていることを知っている。
その様子が脳裏に浮かんだ。
いつまでも休んでいるわけにはいかないし、自分だけ何もしないというのも申し訳ない。
「フィレア様はだめです! なにも心配なさらなくて大丈夫ですよ」
「で、でも」
「大丈夫だ。それに、お前はこの国の神様なんだからな」
エレナとヴェントにやんわりと断られ、フィレアは俯いた。
何もしなくていいといわれても、それではい、わかりましたと思えるわけがない。
少し思案し――そして不意に、
「神、様」
ヴェントから言われた言葉がよみがえる。
それは前にローマスから言われたのと同じもの。
その酷く聞きなれないその単語に、ざわりと胸が騒いだ。