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老医者は包帯を箱に戻してわずかに眉を寄せた。
「治療はしましたが……当分の間は安静にしていないと」
この城唯一の医者はベッドに横たわり、苦しそうに息をしているカイを見つめる。
体には真新しい包帯が巻かれていて、微かに消毒液の臭いが鼻につく。
フィレアは俯いてきゅっと服を握り締めた。
目蓋を閉じれば、瞬時に浮かんでくる鮮明な映像。
うめき声に続いて目の前が血に染まり、悲鳴が喉に絡み付く。手を伸ばせば視界いっぱいに顔を歪めたカイがいた。
「フィレア様」
その声にはっと我に返り、フィレアは青ざめた顔をローマスに向ける。
怪我を負ったカイを治療室へと運び込んでから数時間。驚いた顔をしたローマスによって一命を取り留めたカイはまっさらなベッドに寝かせられた。
「もう大丈夫ですから、少しお休みになられないと」
フィレアはずっとカイの傍に寄り添っている。肉体的にも、そしてなにより精神的に疲れているだろう。
少し休ませなければならない。
「私は、大丈夫です」
首を横に振るフィレアに苦笑して、ローマスは困ったような笑みを浮かべた。
「私がカイ様の傍にいます。フィレア様は休んでください」
「大丈夫」
何を言っても首を縦には振らない。
彼女の気持ちは痛いほど分かる。けれど、このままではフィレアまで倒れかねない。
「……わかりました。ですが、辛くなったらすぐお休みになられるように」
ローマスはフィレアにそう声をかけ、医務室から出て行った。
それを見はかったように、今まで口をつぐんでいたヴェントが口を開く。
「フィレア」
呼びかけ、もたれていた壁から体を離してそっと近づく。
「こういうことは前からあったんだ」
「前、から……?」
ヴェントの言葉にフィレアは驚いたように見上げる。
瞳の奥に僅かな動揺を見せる彼女にヴェントは頷いた。
「あぁ。戦争はもうないが、時折こうして暴徒が攻め込んでくる」
国王や国に対して、何らかの不満がある者を集めて攻撃してくる。それは昔も今も、変わらないものだった。
「毎回今のように退けていた。……カイのように大怪我する者もなかにはいたんだ」
びくりとフィレアの肩が揺れた。
「だから――」
ヴェントの続ける言葉がフィレアにはわかった。
だから、大丈夫だと。
同じような出来事が前にもあったから、自分が気に病むことはないと。
「違うの」
ヴェントの言葉を遮り、ぽつりと呟く。
「違う……前はそうだったかもしれないけど、今回は違う」
「どういうことだ?」
訝しげに小首をかしげた。
ヴェントは知らない。あの庭で起こった事の原因を。
怪我をすることが当たり前だったからではない。
「私が……。私の、せいだから」
「フィレア?」
「ごめんなさい。今は、一人にして」
さらに口を開こうとしたヴェントは震える彼女の声を聞いて踵を返した。
部屋を出る際、何か言いたげな顔をしていたが結局何も言わず、部屋から出て行った。
静かに閉まる扉の音が背後から聞こえて、
「カイ」
フィレアはちいさく口を開く。
まだ苦しそうに顔を歪ませて眠っているカイを見て、何とも言えない気持ちがこみ上がる。
とっさに呼んだ名前。
それでカイは気をとられ、重度の怪我を負ったのだ。
普段なら確実に避けきれるであろう斬撃。
いや、そもそもあの場所に行かなければ――ヴェント達の言うことを聞いて、部屋に戻っていればカイは怪我を負わずに、こうして苦しまずにすんだのだ。
すべては自分のせい。
駆けつけたところで何も出来ないとわかっていながら、フィレアはそこへ行った。
そして、結果的にカイをこんな目にあわせてしまった。
「カイ」
じわりと視界がにじむ。
溢れた涙は頬を伝い、次第に嗚咽が混じる。
フィレアは両手で顔を覆い、泣くまいと唇を噛んだ。
無力な自分。
いつも気に掛けてくれ、優しくしてくれたカイの顔が脳裏に浮かぶ。
医務室にはフィレアの泣く声が響き渡った。
そして――フィレアは初めて、無力な自分を呪った。
「カルサ! 早くこっち持ってきて!!」
「は、はいっ……!!」
怒鳴るエレナに慌ててカルサは言われた物を差し出す。
清潔な衣類。
それをエレナは手際よくカイに着せた。
「よし、出来た。……カルサ、あとでそこの包帯ローマス先生のところに運んでおいて」
「はい。わかりました」
頷くカルサに視線をやり、エレナはカイへと視線を戻した。
きっちりと真新しい包帯を巻かれて、変わらず浅い呼吸をしている。
治療はしたとはいえ、すぐに治るものではなかった。ローマスの言うとおり、しばらくは安静にしておかなければならない。
「……フィレア様、最近来ていらっしゃらないよね」
「そう、ですね」
ぽつりと呟いた言葉にカルサがちいさく頷いた。
何よりも一番心配をしていたフィレアの姿が、ここ最近見当たらないのだ。
部屋にはいるし、城内を歩いているのも見かける。
けれど、カイのいるここ――医療室には来ていなかった。