「星降りの儀の裏方など、誰にでもできる」と婚約破棄されましたが、夏至の湖に星屑を降らせていたのは十二年間わたくしでしたので、どうぞそのままお続けくださいませ ~元社畜令嬢の導星官辞任届~
「セレスティア。君との婚約を破棄する」
夏至前夜の大広間。水晶灯の下で、王太子アルヴィス・ヴェルネリアは高らかにそう宣言なさいました。
「星降りの儀を導くのは、真に星に愛された聖女リーリャだ。君のやっていた裏方仕事など――計測と杭打ちだろう? 誰にでもできる」
(……ああ。この時間、明日の落下予測を検算する予定でしたのに)
わたくし、セレスティア・ミラルダは胸の内でそう呟きました。
前世で十四年、日本の建設会社で現場監督兼積算担当をやっておりました。工期遅延の尻拭いで連続残業し、三十六歳で心臓を止めた身です。
理不尽な宣告には慣れております。むしろ、前世の元請け担当よりは論理的でいらっしゃる。少なくとも「明日までに」とはおっしゃいません。
広間がどよめきました。
無理もありません。わたくしは伯爵令嬢でありながら、今夜も紺のワンピースに革のエプロン、膝まである泥だらけの長靴です。髪は後頭部で無造作に結っただけ。
貴婦人たちの扇の陰から、いつもの囁きが漏れます。
「まあ、湖の杭番ですって」
「あの格好で前夜祭に……」
殿下の隣で、聖女リーリャ・オルフェンが無邪気に微笑みました。白い聖衣、淡い金の巻き毛、大きな緑の瞳。十七歳の彼女が両手を胸の前で組むと、指先から光の粒子がふわりと舞います。
美しい。確かに、美しい。
「大丈夫です、殿下。星はわたしが祈れば降りますもの」
歓声が上がりました。
(なるほど。祈れば降る)
わたくしは十二年分の観測記録を思い出しました。
星屑の落下開始時刻は、毎年ずれます。平均で二十三分。去年は四十一分。落下軌道は湖底の魔力層の沈下に引きずられ、年ごとに北へ流れます。
祈りは一度も、その数字を動かしたことがありません。
「セレスティア」
殿下がわたくしを見下ろしました。碧い瞳に、微かな期待があります。
――泣くと思っていらっしゃる。
縋るか、喚くか、崩れ落ちるか。そのどれかを見て、ご自分の決断が正しかったと確認なさりたいのでしょう。
残念ですが。
わたくしは前世で、無事故無災害記録を継続した現場にしかおりませんでした。
泣くのは、引き継ぎを終えてからですわ。
「かしこまりました、殿下」
わたくしは膝を折り、完璧な礼をいたしました。
「――では、引き継ぎをさせていただきます」
背後で、侍女頭のマルテが息を呑む音がしました。
◇
「引き継ぎ、だと?」
殿下が眉を寄せました。
「わたくしは本日をもって、星降りの儀の現場から離れます。後任は聖女様でいらっしゃいますね。であれば、資料をお渡しするのが筋かと」
「そんなものは要らん。祈るだけだ」
「では、お聞きになるだけでも。三点ございます」
わたくしは鞄を開きました。
革の鞄です。令嬢の持ち物としては大きすぎますが、中身は図面と帳面と木槌ですので、この大きさが必要でした。
一枚目を取り出します。
「一件目。観測記録でございます」
広間の空気が、わずかに変わりました。
書類というものは、それだけで場を静かにさせる力があります。前世で学んだことです。
「過去十二年、星屑の落下開始時刻は毎年ずれております。平均で二十三分。去年は四十一分」
「……なに?」
「明日の儀式次第では、祈りの開始は日没後一刻ちょうどと定められております。固定でよろしいのでしょうか」
「誤差だ」
殿下が即答なさいました。
(誤差)
わたくしは、その言葉をゆっくり噛みました。
前世でも、よく聞いた言葉です。図面と現場が合わないとき、現場を知らない人ほどこう言うのです。誤差だ、と。
「殿下。四十一分の誤差というのは、二刻の儀式のうち三分の一でございます。もし祈りが終わってから星が降り始めたら、誰が湖面に光を灯すのでしょう」
「星は聖女に応える。時刻など後からついてくるに決まっている」
「それは仮説ですわね」
わたくしは書類を一枚めくりました。
「わたくしのほうは十二年分の実測でございます。仮説と実測を並べたとき、現場では実測を採ります。――ですが、これは一件目にすぎません」
ざわ、と広間が鳴りました。
リーリャ様が小首を傾げました。悪気のない仕草です。だからこそ、たちが悪い。
「あの……セレスティア様。星は、祈る人の心を見るんです。数字じゃなくて」
「ええ。そうかもしれません」
わたくしは頷きました。
「では、二件目を」
◇
二枚目は、大判の図面でした。
広げると、羊皮紙がばさりと音を立てて、ミラルダ湖の全景が現れます。
湖の輪郭に沿って、細かい点が並んでおりました。
「導星杭でございます。七十二本」
「……七十二?」
殿下が初めて、声の調子を落としました。
「星屑は空から真下に落ちるのではございません。湖底の魔力層に引かれて曲がります。杭は、その曲がり方を補正するために打つものです。一本ごとに深さと角度が違います」
わたくしは図面の北側を指しました。
「昨年、湖北の地盤が沈下いたしました。そのため十一番から十七番の位置を、三歩ずつ東へ動かしております」
「動かさなければ、どうなる」
静かな声で、そう問うた方がいらっしゃいました。
広間の隅。柱の影に、大きな影が立っておりました。
二メートル近い長身。首筋から腕にかけて、黒曜石のような濃紺の鱗。縦に裂けた金の瞳。
北方辺境伯、竜人将軍ヴァルド・レンハイム様。戦場で『冷血竜』と呼ばれる方です。
わたくしは、その問いに答えました。
「星屑が湖に落ちません。北の麦畑に落ちます。星屑は熱を持ったまま落下いたしますので、麦は一夜で焦げますわ」
「そ、そんな話、聞いたこともありません!」
リーリャ様が声を上げました。頬が赤くなっております。
「三年前、隣国スヴァルで導星に失敗し、湖畔の森が一夜で枯れました。記録は王立文書館の第三書庫にございます」
「知らない……わたし、誰からも、そんなこと……」
「ええ。存じております」
わたくしは彼女を見ました。
十七歳。教会に見出されて三年。誰も彼女に、湖底のことも、地盤のことも、隣国のことも教えなかった。それは彼女の罪であり、同時に、彼女に押しつけられた役割でもあります。
(新人を現場に放り込んで、安全教育をしていない。――これ、上が悪いやつですわ)
「殿下」
わたくしは鞄から、次の束を取り出しました。
分厚い束です。紐で括ってあります。
「この件は、毎年ご報告申し上げております。夏至の一月前、観測報告書として殿下の執務机へ」
「……報告書だと?」
「はい。十二通」
わたくしは束を、テーブルの上に置きました。
かたん、と重い音がしました。
一番上の封筒に、赤い封蝋が光っております。ミラルダ伯爵家の紋章。
――切られておりません。
「秘書官殿を通じて、毎年返却されておりました。『裏方の事務連絡』として。おかげさまで、封蝋が十二個たまりましたわ」
広間が、水を打ったように静まりました。
次の瞬間、ざわめきが波のように広がります。
「未開封……?」
「十二年分ですって?」
「殿下は一度も……」
背後で、マルテが低く言いました。
「……十二年でございます。わたくしが毎年、お嬢様のお手の豆に軟膏を塗って、封をしてお出しした分です」
殿下の顔から、色が失せていきました。
口を開き、閉じ、また開かれます。
「それは……私の机に届くのは日に百通だ。秘書官が選別を……」
「ええ。組織とはそういうものでございますね」
わたくしは微笑みました。
「ですから責めてはおりません。ただ、事実として、この現場の申し送りは十二年間、一度も上に届いておりません。――これが二件目でございます」
柱の影で、竜人将軍の尻尾が、ゆっくりと床を叩きました。
◇
「三件目」
わたくしは最後の一枚を取り出しました。
罫線の引かれた、味気ない紙です。上部に冒険者ギルド王都支部の判が押してあります。
「冒険者ギルドの統計でございます」
「ギルドだと? 神事に商人の帳面を持ち込むのか」
「持ち込みます。結界の実効値を測る、唯一の客観指標でございますので」
わたくしは紙を掲げました。
「星降りの翌月、湖畔三村における魔物討伐依頼の件数は、平年比で平均百十二件減少いたします。過去十二年、例外なく」
「……百十二」
「討伐報酬の平均単価から逆算いたしますと、年間およそ千四百万ゴルド相当。加えて、負傷者の治癒費用と農地の被害額は含んでおりません」
広間の後方で、誰かが息を呑みました。
貴族の皆様は、神事の話には飽きても、金額の話には耳を傾けられます。これも前世で学んだことです。人は理念では動きませんが、見積書では動きます。
「殿下。これが『誰にでもできる裏方仕事』の実効値でございます」
わたくしは紙を置きました。
「祈りが生んだ数字ではございません。杭の座標が生んだ数字です」
「黙れ!」
殿下が叫ばれました。声が、上ずっておりました。
「星は――星は神の御業だ! 数字などで測れるものか! 君は、君は神事を帳簿に貶めている!」
(ああ。来ましたわね)
前世でも、この台詞は聞きました。
「職人の腕は数字じゃない」と怒鳴った現場代理人が、翌週に足場を落としました。数字を嫌う人は、たいてい数字に負けたことのある人です。
「殿下」
わたくしは声を落としました。
低く、静かに。広間の全員が、耳を澄ませるくらいの音量で。
「わたくしは、神を貶めてなどおりません。神が降らせてくださる星屑を、一粒残らず湖に落とすために、十二年間、地面を測っておりました」
「……」
「祈りは尊いものです。ですが祈りは、杭の深さを決めません」
殿下は何も言えず、ただ拳を握っておられました。
その横で、リーリャ様が小さく震えていらっしゃいました。
初めて、彼女の目に「わからない」という色が浮かんでおりました。それは、悪くない色でした。
◇
わたくしは鞄の底から、最後の二枚を取り出しました。
既に署名済みです。昨夜のうちに書いておきました。
(こういうものは、先に用意しておくのが現場の礼儀ですわ)
一枚目を、殿下の前に置きます。
「婚約解消同意書でございます。わたくしの署名は済んでおります」
二枚目。
「そしてこちらが『星降りの儀・導星官辞任届』。本日付でございます」
殿下が、紙を見下ろされました。
喉が、上下いたしました。
「……セレスティア」
「杭打ちは誰にでもできるそうですので」
わたくしは膝を折りました。
「――どうぞ、そのままお続けくださいませ」
広間は静かでした。
誰も喝采いたしません。先ほど、あれほど手を叩いていた方々が、今は目を伏せておいでです。
殿下には、引き返す機会が三度ございました。
誤差だと切り捨てたとき。封蝋を見たとき。統計を突きつけられたとき。
三度とも、殿下は同じものをお選びになりました。
幼い頃から繰り返し聞かされた建国神話。『聖女に導かれし王』。ご自分は選ばれる側の人間であると、そう信じて育ってこられた。優秀な弟君と比べられ続けた劣等感を、その一点で埋めてこられた。
ここで頷けば、ご自分は「誰かの数字の上に立っていた飾り」になってしまう。
だから殿下は、震える手で羽根ペンを取り、辞任届に署名なさいました。
「――受理する」
「ありがとうございます」
わたくしは書類を畳み、鞄にしまいました。
鞄の中で、木槌の柄が指に触れました。
古い木槌です。柄に、小さな刻み傷が十二本。一年打ち切るごとに、一本ずつ刻んでまいりました。
(十二年。無事故無災害。労災も下りない現場でしたわね)
振り返ると、マルテが唇を噛んで立っておりました。
四十六歳。わたくしが六歳の頃から仕えてくれている侍女頭です。
彼女の目が、真っ赤でした。
「お嬢様」
「泣かないで、マルテ」
「泣いておりません。――お怒りにならないのでしたら、わたくしが代わりに怒ります」
マルテはそう言って、わたくしの鞄を奪うように持ちました。
「十二年間、わたくしはあなた様が儀式の夜にドレスを着たところを、一度も見ておりません」
「必要がありませんでしたもの」
「必要はございました。誰も、それを用意しなかっただけです」
わたくしは、何も答えられませんでした。
広間を出ようとしたとき、柱の影から声がかかりました。
「ミラルダ嬢」
濃紺の鱗。金の縦瞳。竜人将軍が、わたくしを見下ろしておりました。
「――打つ場所を言え」
「……え」
「うちの湖だ。北岸。七十二本、既に材は揃えてある」
わたくしは、瞬きをいたしました。
「レンハイム卿。星降りの儀は、王家の聖湖で行うものでございます」
「星がそう決めたのか」
「……いいえ」
「なら決めたのは人間だ。人間の決めたことは、間違う」
将軍は短くそう言って、背を向けました。
「馬車を出す。明日の日没までに着く」
背後で、長い尻尾が、ばさりと揺れました。
◇
馬車は夜通し北へ走りました。
向かいの席で、ヴァルド・レンハイム卿は黙々と書類をめくっておいででした。
揺れる車内で、細かい数字の列を追っていらっしゃいます。表情筋がほとんど動かない方ですが、時折、わずかに目を細められました。
「ヴァルド様。……何をお読みですの、その書類は」
「あんたの報告書だ」
「……は?」
卿は紙束を持ち上げました。
見覚えのある図です。わたくしの筆跡。湖北の地盤沈下補正案。三年前のもの。
「写本だ。伯爵家に正式に請願して、十二年分すべて取り寄せた」
「十二年分……全部、ですか」
「読んだ。検算もした。誤りは一つもない」
馬車の車輪が、石を踏みました。
わたくしは、膝の上の手をじっと見ておりました。
豆だらけの手です。右手の親指の付け根に、木槌のタコがございます。令嬢の手ではありません。
(読んでいた方が、いらしたのですわね)
十二年。誰にも褒められず、儀式の場で名を呼ばれたこともありませんでした。
それでも続けたのは、現場を止めたら被害が出るからです。愛されたかったからではありません。
――そのはずでした。
なのに、なぜでしょう。胸のあたりが、妙に熱うございます。
「三年前の湖北の補正は、正しい」
卿が、写本の余白を指で叩かれました。
「あれがなければ、麦畑が焦げていた。王都の穀倉三村分だ。俺の領の備蓄で賄えば、冬に千二百人が死なずに済む計算だった」
「……そこまで、計算なさったのですか」
「する」
卿は当然のように頷かれました。
「褒めるというのは、相手の仕事を正確に把握していると示すことだ。それ以外は、ただの世辞だ」
わたくしは、しばらく言葉が出ませんでした。
三年前のことを思い出しておりました。
夏至前の湖畔。泥だらけで四十二番の杭を数えていたわたくしに、案内役の文官が言いました。「ああ、あれは地味な雑用係でして」と。
そのとき、この方だけが、こうお尋ねになったのです。
「君は何ができる?」
「星屑の落ちる場所が、数字で見えますわ」
「……ならやってみろ。俺の領で」
たった三往復でした。
それが、十二年で唯一、わたくしの仕事を仕事として扱ってくださった会話でした。
「ヴァルド様。ひとつ申し上げておかねばならないことがございます」
わたくしは、窓の外の暗い空を見上げました。
「わたくしのギフトは《星屑感応》。鑑定板の記載は『観測系・下位』でございます。できることは、夏至の夜に限り、星屑の落下地点と落下量と魔力純度を数値で視ること。それだけです。星を降らせることはできません」
「知っている」
「ですが、十二年の実測でわかったことがございます」
わたくしは、声を落としました。
「星屑の総量は、毎年一定なのです。地上に降る総量は変わらない。変わるのは、どこに降るかだけ」
ヴァルド様の金の瞳が、わずかに広がりました。
「つまり」
「正しく導星杭の立てられた湖が、星屑を引きます。杭のない湖は、引けません。――引けなかった分は、引ける場所へ流れますわ」
沈黙が落ちました。
馬車が、揺れました。
「……つまり明日の夜。王都の湖が受け損ねた星屑は」
「ええ」
わたくしは頷きました。
「――正しい杭のある方へ、参りますわ」
馬車の床を、長い尻尾が、ばさり、と叩きました。
◇
夏至の夜。
ミラルダ湖畔は、かつてないほどの人出でございました。
白い聖衣のリーリャ・オルフェンが、湖に張り出した祭壇に立っております。
両手を組み、目を閉じ、祈りを捧げる。
指先から光の粒子が舞い上がり、夜気に溶けていきます。金の巻き毛が淡く光り、聖衣の裾が風に揺れる。
絵画のような光景でした。
「聖女様だ!」
「なんて美しい……」
祭壇の脇で、アルヴィス殿下が剣を掲げておいででした。白と金の儀礼服。映える姿。
日没後一刻。祈りが始まりました。
――半刻。星は降りません。
――一刻。夜空は澄んでおります。星屑の兆しである、あの薄い銀の帯が、どこにも見えません。
観衆の声が、少しずつ小さくなってまいりました。
「……まだか」
「例年なら、もう」
二刻。
リーリャ様の腕が震え始めました。光の粒子が弱まり、ちらつき、また強まります。
「星よ……星よ、どうか。どうか、降りてきてください……」
三時間。
声が、掠れておりました。
そのとき。
空の北の端が、白く光りました。
「降りました! ほら、北の空が――」
歓声が爆発しかけ、そして、止まりました。
「……違う」
殿下が呟かれました。
「湖の上じゃない。あれは、湖を外れて――北へ流れている」
銀の光の帯は、湖を大きく外れ、北へ、北へと流れていったのです。
星屑が、落ちました。
湖ではなく、北の麦畑へ。
熱を持ったまま。
じゅ、と音がしました。
一粒。二粒。無数。
麦の穂が、燃えました。
「――火事だ!」
「麦畑が! 麦畑が焦げてる!」
悲鳴が上がり、人々が走り出します。
そして湖面には。
何も、灯りませんでした。
毎年、夏至の夜が明けるとき、ミラルダ湖の水面は銀色に光るはずでした。魔物避けの結界が張られた証。湖畔三村の一年を守る光。
今年、湖は真っ黒でした。
ただの、夜の水でした。
「……どうして」
リーリャ様が、祭壇に膝をつきました。
「祈ったのに……ちゃんと、三時間祈ったのに……星が言うことを聞かないんです!」
泣き声が、湖畔に響きました。
アルヴィス殿下は、剣を掲げたまま動けずにおられました。
腕が下がりません。下げてしまえば、終わってしまうからです。
そのとき、彼の視界の隅に、北の空が映りました。
星屑の帯は、麦畑で終わってはおりませんでした。
それはさらに北へ、夜空を割るように、一筋の川となって流れていたのです。
辺境の方角へ。
「……あれは」
殿下の唇が、震えました。
「あの北へ流れる光の川は、どこへ――」
◇
同じ刻。
北方辺境レンハイム領、リンデ湖の湖畔。
わたくしは、泥だらけの長靴で岸辺に立っておりました。
風が冷たく、湖の匂いがいたします。水と苔と、夜の草の匂い。十二年間、毎年この季節に嗅いできた匂いと同じでした。
目の前に、杭が立っております。
七十二本。
一本の狂いもなく。
「……見事ですわ」
わたくしは声を漏らしました。
「十一番から十七番は東へ三歩。三十番台の深さも図面の通り。五十八番の角度は、こちらの湖の魔力層に合わせて王都より二度浅く。――全て、合っております」
「三日かかった」
背後で、低い声がいたしました。
ヴァルド様が、腕を組んで立っておいででした。濃紺の鱗が、月明かりに鈍く光っております。
「あんたの指示書の通りに打たせた。深さは俺が一本ずつ検めた」
「……全部、ですか」
「七十二本だ。数えた」
わたくしは、何も言えませんでした。
十二年間、わたくしは一人で打ってまいりました。夏至の一月前から湖畔の小屋に泊まり込み、朝から晩まで木槌を振り、豆を潰し、また振り。
誰も検めに来ませんでした。誰も数えませんでした。
(現場に、もう一人いるというのは――こんなに、軽いものなのですわね)
「お嬢様」
マルテが、毛布を持って歩いてまいりました。
わたくしの肩にかけてくれます。
「お嬢様。今年は、ちゃんと見ている者がおりますね」
「……ええ」
空を、見上げました。
わたくしの目には、数字が視えます。
《星屑感応》――観測系・下位。
落下予測点、湖心より東へ十二歩。落下量、推定値超過。魔力純度、九十七。
「ヴァルド様。落下量、推定値超過。魔力純度、九十七。――十二年で、初めての数値ですわ」
「どこだ」
「湖の、真ん中です。――全部」
夜空が、裂けました。
北へ流れていた銀の川が、リンデ湖の真上で渦を巻いたのです。
星屑が、降り始めました。
七十二本の杭が、いっせいに淡い光を帯びます。一番から順に、湖を一周するように。
光の線が、湖面に円を描きました。
降る星屑は、杭の描いた円に吸い寄せられ、湖の中心へ、中心へと集まっていきます。
熱は、ありませんでした。
正しく導かれた星屑は、冷えてから水に触れるのです。十二年かけて、わたくしはそれを知りました。
湖面が、銀色に光りました。
岸辺で、領民たちが声を上げます。
「光った! 湖が光ってる!」
「こんなの、初めて見た……」
結界の光は、湖を満たし、岸を越え、麦畑を、森を、村を、順に照らしていきました。
光は、朝まで消えませんでした。
星屑が、わたくしの肩に降りました。
髪に落ちて、溶けます。
冷たいのに、温かい。雪みたいな感触でした。
わたくしは、掌を上に向けました。
豆だらけの、泥だらけの掌に、銀の粒がひとつ落ちて、消えました。
(――ああ)
十二年、わたくしはこれを、一度も掌で受けたことがありませんでした。
降る頃には、いつも、次の杭を数えておりましたので。
◇
夏至から、一月が過ぎました。
冒険者ギルド王都支部。
受付嬢のネル・ハーヴィックは、分厚い帳簿をカウンターに叩きつけました。
ばん、と音がして、待機していた冒険者たちが一斉に振り返ります。
「湖畔三村の討伐依頼、先月だけで百四十件増です」
「ネルさん、落ち着いて」
「前年同月比、プラス百十二件。誤差じゃありません。ぴったり、統計値の通りです」
彼女は茶色い髪を揺らして、帳簿のページをめくりました。
「ゴブリン群十九件、ワイルドボア三十一件、赤角鹿の暴走が四件。――赤角鹿ですよ。あれが人里に下りてくるのは、結界が完全に切れてる証拠なんです」
「……そんなに違うもんかね」
「違います。十二年間、違わなかったんです」
ネルは、帳簿を指で叩きました。
「過去十二年、七月の依頼数は平年比マイナス百十二件。例外ゼロ。私、この照会を三年前から受けてました。――誰にだと思います?」
冒険者たちが、顔を見合わせました。
「ミラルダ伯爵令嬢です。あの方、自分の仕事の効果を、うちの統計で毎年検証してたんですよ。泥だらけの、あの方が」
ネルは帳簿を閉じました。
「今月の討伐報酬支出は約百三十万ゴルド増。負傷者の治癒費が四十万。農地被害の補償申請が六十二件」
彼女は、ため息をつきました。
「――で、この数字、誰が作ってると思います?」
誰も答えませんでした。
ネルは、カウンターの向こうの王城の方角を、じろりと睨みました。
「……誰ですか。あの伯爵令嬢を、追い出したのは」
◇
同じ頃、北方辺境レンハイム領。
麦は、豊作でした。例年の一・四倍。穂が重すぎて倒れる株が出たほどで、領の農務官が嬉しい悲鳴を上げております。
魔物の目撃報告は、三分の一に減りました。
結界の光は、いまだ湖面に淡く残っております。
人が、集まり始めました。痩せた土地だと言われていた辺境に、商人が来て、職人が来て、家族連れが来ました。
冒険者ギルドは、レンハイム支部の増員を決定いたしました。
異動志願の第一号は、王都支部の受付嬢でございました。
「統計が正しい場所で働きたいんです」と、志願書にはそう書かれていたそうです。
◇
王城、王太子執務室。
アルヴィス・ヴェルネリアは、引き出しを開けました。
束が、入っておりました。紐で括られた、十二通の封筒。赤い封蝋。ミラルダ伯爵家の紋章。
儀式の失敗から、彼は毎日この引き出しを開け、閉じてきました。開ける勇気がなかったからです。
その夜、彼はようやく紐を解きました。
一通目。十二年前。
封蝋を割ると、拙い字が出てきました。七歳の子どもの字です。
『ほしくずが おちるばしょが かずで みえます。ことし、くいを 二十本 うちました。まだ たりないと おもいます』
図が、描いてありました。歪んだ円。その周りに、点。点の横に、小さな数字。
「……七歳の字だ」
彼は、二通目を開きました。
字が、少し整っておりました。杭が三十四本に増えております。
三通目。図面に方位が加わりました。
四通目。深さの欄ができました。
五通目。湖底の魔力層という言葉が、初めて出てまいります。
六通目、七通目、八通目。
図が精緻になります。数字が増えます。年ごとの比較表が加わり、誤差の傾向分析が付き、隣国の失敗事例の引用が挟まれます。
九通目。
『本年、杭の本数を七十二本と確定いたしました。これ以上は増やす必要がございません。以降、位置の補正のみで運用可能です』
十通目。
『湖北の地盤沈下を確認。十一番から十七番を東へ三歩移動。移動しない場合、星屑は北の麦畑に落下し、熱害が生じます。至急、湖北の護岸工事のご検討をお願い申し上げます』
「……至急に、二重線」
十一通目。同じ要請。下線は、三重になっておりました。
「十二年、この現場は、ずっと悲鳴を上げていたのか」
十二通目。今年の分です。
中身は、いつも通りの観測記録と図面でした。数字の並び。杭の座標。予測時刻。
最後の頁。
余白に、小さく、一行だけ。
彼女の筆跡で。
『来年の杭は、あなたが打てますように』
アルヴィスは、動けませんでした。
長いこと、その一行を見ておりました。
そして、初めて理解しました。
「……君は。愛してほしかったのではないのか。褒めてほしかったのでもなく」
彼女は、十二年間、彼を待っていたのです。
ただ、あの湖に、もう一人来てほしかった。一緒に杭を打ってくれる人間が、ひとり。
それだけだったのです。
「……セレスティア」
窓の外は、夜でした。遠く、ミラルダ湖の方角は真っ暗です。
彼を罰する者は、誰もおりませんでした。
誰も断罪せず、誰も剣を向けず、誰も声を荒げません。
ただ、彼は取り残されました。
報告書十二通と、開かれてしまった封蝋の屑と一緒に。
◇
秋。
レンハイム領、リンデ湖の岸辺に、小柄な影が立っておりました。
白い聖衣ではありません。
粗い麻の作業着に、革のエプロン。慣れない長靴が、大きすぎて歩きづらそうです。
リーリャ・オルフェンは、教会の決定により、辺境へ研修生として送られてまいりました。
「……あの。わたし、何も知らなくて」
彼女は、俯いたまま言いました。
「ええ」
わたくしは頷きました。
「それは、あなたの罪でもありますし、あなたに押しつけられた役割でもありますわ」
リーリャ様の肩が、震えました。
「麦畑……三十七ヘクタール、焼けたって聞きました。三村で、けが人が二百人。わたしが、祈ったせいで」
「いいえ」
わたくしは、はっきりと申し上げました。
「あなたが祈ったせいではありません。誰も杭を打たなかったせいです」
「でも……」
「祈りは、何も壊しません。ですが、何も打ちません」
わたくしは鞄を開けました。
中から、古い木槌を取り出します。
柄に、小さな刻み傷が十二本。一年打ち切るごとに、一本ずつ刻んでまいりました。前世で工事が竣工するたび、工程表に赤線を引いていた癖が、そのまま出たものです。
それを、彼女に差し出しました。
「差し上げますわ。少し重うございますが、慣れます」
「え……セレスティア様の、大事なものじゃ」
「道具でございます。使われなければ、ただの木ですわ」
リーリャ様は、震える両手で木槌を受け取りました。
思ったより重かったのでしょう。腕が、がくんと下がりました。
「……重い」
「ええ。重いのです」
わたくしは、湖を指しました。
「十一番の杭が、ひと冬で二指ぶん沈みました。打ち直しが必要です。――まず、地面を測りなさい」
「地面を……」
「祈る前に、地面を見なさいな」
リーリャ様は、木槌を抱えたまま、しばらく立っておいででした。
それから、こくりと頷いて、湖のほうへ歩いていきました。
長靴が泥に沈み、一度こけて、麻の服を真っ黒にして、また立ち上がりました。
マルテが、わたくしの横で小さく息をつきました。
「……お優しいこと」
「優しくはありませんわ。人手が足りないだけです」
わたくしは、帳面を開きました。
「来年の杭は、九十六本に増やします。湖の東岸まで伸ばして、麦畑を結界内に入れますの。――一人では、無理ですもの」
◇
翌年の、夏至の夜。
リンデ湖の湖畔に、人が集まっておりました。
領民、商人、冒険者、ギルドの受付嬢、泥だらけの研修生、そして侍女頭。
九十六本の杭が、湖を囲んで淡く光っております。
「落下開始まで、あと十七分ですわ」
わたくしは告げました。
「予測点、湖心より東へ八歩。純度九十九。――今年は、東岸まで届きます」
「麦畑も入るか」
隣で、ヴァルド様が尋ねられました。
「入りますわ。あなたが八十一番から九十番を、二度浅く打ってくださいましたので」
「指示書通りだ」
「指示書の通りに打てる方は、そう多くございません」
空が、光りました。
銀の帯が、夜を割って降りてまいります。
歓声が上がりました。
星屑が、降ります。
わたくしの肩に、髪に、睫毛に。
冷たいのに、温かい。雪みたいな感触です。
髪に落ちた一粒が溶けて、首筋を伝いました。
「……寒くないか」
「少し」
ばさ、と音がして、肩に上着がかけられました。
大きすぎて、裾が草に届いております。
ヴァルド様が、鱗に覆われた手を差し出しました。
わたくしは、自分の手を見下ろしました。
豆だらけです。右手の親指の付け根に、木槌のタコ。爪の間に、まだ今日の泥が残っております。
令嬢の手ではありません。
それでも、わたくしはその手を重ねました。
大きな手が、包みました。鱗は硬くて、けれど温かうございました。
「……冠は要らないのか」
低い声で、そう問われました。
「王太子妃の冠だ。あんたは、あれを十二年かけて手放した」
わたくしは、笑いました。
前世を含めて五十年近く生きて、たぶん初めて、心から笑ったような気がいたします。
「冠は、頭に載せるだけのものですわ」
「……」
「わたくしが欲しいのは――」
わたくしは、繋いだ手を少しだけ握り返しました。
「正しく数えてくださる方ですわ」
沈黙が、落ちました。
それから。
ばさり、と。
長い尻尾が、大きく揺れました。
背後で、ネル・ハーヴィックが帳面から顔を上げて「三回です。将軍の尻尾、今年最高記録」と呟き、マルテが「お黙りなさい」と小声で叱りました。
湖面が、銀色に満ちていきます。
光は岸を越え、麦畑を渡り、森を抜け、村々を順に照らしていきました。
わたくしは、空を見上げました。
星屑が、降ってまいります。
祈りに応えて降るのではありません。
神は、毎年同じだけ、等しく星を落としてくださいます。
ただ、それがどこに落ちるかは――地面を測った者が、決めるのです。
「ヴァルド様」
「なんだ」
「来年は、百二十本にいたしましょう。隣領まで伸ばしますの。あちらの湖にも結界が要りますでしょう」
将軍は、しばらく黙っておいででした。
それから、短く。
「……増やすのか。――わかった。打つ場所を言え」
わたくしは、頷きました。
――星は、祈りでは降りません。ちゃんと、迎えに行くものですの。




