第9話 初めてのお小遣いは銅貨五枚
夕暮れの空が、王都ラピスフォードを茜色と藍色のグラデーションで染め上げていく。
仕事を終えた人々が家路につき、商業区の喧騒も次第に落ち着きを取り戻し始めていた。
私は、冒険者ギルドの重い扉を背に、高鳴る心臓を抑えながら家路を急ぐ。
懐にある、古びた革の巾巾着袋。
その中には、今日、私が生まれて初めて、自分の力だけで稼いだ銅貨が五枚入っている。
チャリ、という硬貨が擦れ合う微かな音が、まるで勝利を告げるファンファーレのように、心地よく響いた。
やった……!
何度も、懐に手を入れては、その存在を確かめる。
ひんやりとした金属の感触。
ずしりとした、確かな重み。
たかが銅貨五枚。貴族の子供が持つお小遣いとしては、はした金にもならないだろう。
だけど、今の私にとって、それはどんな宝石よりも、どんな金塊よりも、価値のある宝物だった。
「でも、ちょっと疲れちゃったな……」
今日は、新しいことがあまりにも多すぎた。
冒険者ギルドへの登録。
ギルドマスターとの出会いと、初めての依頼。
そして、モンスターとの戦闘。
地道にお金を稼いで、いつか必ず、学園に行ってみせる。
そして、錬金術を学ぶんだ。
そのためにも、まずは、本が欲しいな。
あのお部屋にある古びた本だけでは、いずれ限界が来るだろう。
もっと体系的な、錬金術に関する専門書が必要だ。
だけど、この世界では書物はひどく貴重で、高価なもの。
そんな貴重な本を、今の私が手に入れるのは、容易なことではない。
もっと、効率よく稼がないと。
私はそんなことを考えながら、活気のある商業区を抜け、次第に人通りの少なくなる旧市街へと入っていく。
きらびやかな店の灯りは消え、代わりに、ガス灯の頼りない光が、私の小さな影を石畳の上に長く落としていた。
この光景の対比が、今の私の境遇そのものだ。
貴族という、光の当たる場所に生まれながら、その実態は、日陰を歩くしかない貧乏暮らし。
やがて、見慣れた我が家が見えてきた。
大きな屋敷だけど、明かりが灯っている窓は、ほんの数えるほどしかない。
まるで、巨大な生き物が、ひっそりと息を潜めているかのようだ。
さて、問題はここからね。
私の家には、騎士団のようなものも、屈強な門番もいない。
お父様もお母様も、おそらくそれぞれの部屋で、貴族としての体面を保つための内職に追われている時間だろう。
お父様は、古い武具の手入れや修復。
お母様は、貴婦人たちから請け負った、細やかな刺繍。
どちらも、かつての伯爵夫妻がするような仕事ではない。
だけど、そうしなければ私たちはパンの一切れすら、口にすることができないのだ。
問題は、ただ一人。
この屋敷のすべてを取り仕切る、メイドのミレイユだ。
彼女の目は、誤魔化せない。
私は、屋敷の裏口に回った。
使用人用の、小さくて軋む扉。
息を殺し、慎重に扉を開ける。
油の切れた蝶番が、ぎぃ、と嫌な音を立てた。
心臓が、跳ね上がる。
だけど、幸い、誰にも気づかれた様子はない。
私は、靴についた泥を丁寧に落とすと、音を立てないよう、抜き足差し足で廊下を進んだ。
目指すは、二階の自室。
厨房からは、夕食の準備をしているであろう、質素なスープの匂いが漂ってくる。
その匂いを嗅いだ途端、私のお腹が、きゅぅ、と情けない音を立てた。
スライムとの戦闘は、思った以上に体力を消耗したらしい。
長い廊下を、壁伝いに進む。
ミレイユの気配はない。
よし、あと少し。
自分の部屋の扉が見えてきた、その時だった。
「――おかえりなさいませ、エリス様」
背後からかけられた、穏やかな、しかしどこか芯の通った声。
びくり、と私の肩が大きく跳ねた。
ゆっくりと振り返ると、そこには、腕に洗濯物の入った籠を抱えたミレイユが、静かに佇んでいた。
その表情は、いつものような柔らかなものではない。
心配と、そして、わずかな疑念の色が浮かんでいた。
「……た、ただいま、ミレイユ」
「随分と、お帰りが遅かったようで。どちらかへ、お出かけでしたの?」
「う、うん。ちょっと、お散歩に……」
口から出まかせを言う。
だけど、ミレイユは、その言葉を信じた様子はなかった。
彼女の茶色い瞳が、私の全身を、ゆっくりと、そして注意深く観察する。
「お散歩、ですか。……その汚れは、お散歩でついたものでしょうか?」
ミレイユの視線が、私のドレスの裾についた、乾いた泥を捉える。
しまった。
裏口で払ったつもりだったけど、完全には落ちていなかったみたい。
「そ、それは、その……転んじゃって」
「まあ、大変。お怪我はございませんでしたか?」
「だ、大丈夫。大したことじゃないわ」
「左様でございますか。ですが……」
ミレイユは、一歩、私に近づいた。
そして、ふわりと、私の体から漂う匂いを、くん、と嗅ぐ。
「この、微かに漂う鉄の匂いは……一体、どこでつけてこられたのでしょう?」
ぞくり、と背筋が凍った。
彼女の嗅覚は、人間離れしている。
もしかしたら、彼女の祖先に、獣人の血でも混じっているのかもしれない。
ギルドに充満していた鉄臭さが、服に染み付いてしまっていたのだ。
もはや、言い逃れはできない。
私は、観念した。
「……お部屋で、話すわ。だから、今は」
私がそう言うと、ミレイユは、こくりと静かに頷いた。
その瞳の奥に、何か、悲しい色が浮かんだのを、私は見逃さなかった。
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