第6話 ご令嬢は冒険者志望です!
朝日が、古い屋敷のステンドグラスを淡く照らし出す頃。
私は家族にも、メイドのミレイユにも気づかれぬよう、フードを被って、息を殺して屋敷を抜け出した。
冷たい朝の空気が肺を満たし、寝ぼけ眼だった頭を強制的に覚醒させる。
これから向かうのは、冒険者ギルド。
貴族の令嬢、それも八歳の子供が一人で行くような場所ではない。
だけど、私にはもう、この道しか残されていなかった。
私たちの住むアステル王国の王都ラピスフォード。
白亜の王城と、それを取り巻く華やかな貴族街。
私たちの「夕暮れの屋敷」は、その貴族街のはずれ、もはや平民街との境界線も曖昧な旧市街に追いやられている。
そこから商業区までは、子供の足で歩いて一時間ほど。
石畳の道を歩きながら、私は脳内の知識を整理していた。
このアステル王国は、中央大陸の西側に位置する、比較的温和な国だ。
政治体制は王政だけど、その実態はアルバ公爵を筆頭とする大貴族たちが牛耳る貴族院が強く、王権はやや形骸化している。
お父様を陥れたアルバ公爵が、事実上この国のトップと言っても過言ではない。
国の産業は多岐にわたる。
王都の東には、広大な「ささやきの森」に隣接する林業都市グランツホルツ。
西には、外海に面した唯一の港町ポルト・マーレ。
南には、温暖な気候を活かした王国最大の穀倉地帯、農業都市テラ・ソレイユ。
そして北には、険しい「竜の背骨山脈」の麓に、豊富な鉱物資源を産出する鉱山都市アイゼンブルクが栄えている。
多様な風土と産業が、この国を豊かにしているのだ。
だけど、その豊かさは、私たちのような「持たざる者」には縁のない話だ。
そんなことを考えているうちに、目の前の景色は、貴族街の静謐な雰囲気から、活気に満ちた商業区の喧騒へと変わっていた。
パンを焼く香ばしい匂い。
露店の商人たちの威勢の良い呼び声。
行き交う人々の熱気。
前世の商店街を思い出させるその光景に、少しだけ心が和む。
だけど、私が目指す場所は、そんな明るい大通りから一本脇に入った、薄暗い路地裏にあった。
目的地の看板には、交差した剣と盾の紋章が錆びついた姿で描かれている。
ここが、王都の冒険者ギルド。
ゴクリと、乾いた喉が鳴る。
重く、分厚い樫の木の扉。
そこから漏れ聞こえてくるのは、野蛮な怒声と、朝から飲み交わしているであろうエールの匂い。
前世のしがない大学生だった私なら、間違いなく踵を返していただろう。
でも、今の私は違う。
守るべきものが、そして、取り戻すべきものがある。
私は小さな拳を固く握りしめ、意を決してその扉を押し開けた。
「――うっせぇぞ、テメェ!」
「んだとゴラァ! もう一杯注げや!」
扉を開けた瞬間、むわりとした熱気と、汗と酒と鉄の匂いが混じり合った、むせ返るような空気が私を襲った。
広いホールの中では、屈強な体つきをした、いかにも「荒くれ者」といった風体の男女が、朝から酒を酌み交わし、大声で罵り合っている。
壁には、様々な魔物の討伐依頼や、素材採集の依頼書が所狭しと貼られていた。
私の登場に、その場の誰もが気づいていない。
それもそうだろう。
八歳の、しかもひらひらした服を着た女の子が一人で入ってくるなんて、誰も想像していないのだから。
私はフードを外し、人の波をかき分けるようにして、ホールの奥にある受付カウンターへと向かった。
カウンターの中には、一人の女性が座っている。
艶やかな黒髪をサイドテールにし、猫のようにしなやかな体つきの、美しい女性。
ピンと立った三角の耳と、ゆらゆらと揺れる尻尾から、彼女が獣人族であることが分かった。
彼女は、山積みになった書類を片付けながら、私の存在に気づくと、面倒くさそうに片眉を上げる。
「……あら? お嬢ちゃん、ここはあなたみたいな可愛い子が来るところじゃないわよ。迷子かしら?」
その声は、見た目の美しさに反して、ひどく気だるげで、どこか皮肉めいていた。
周囲の冒険者たちも、ようやく私の存在に気づいたらしい。
「なんだ、あのガキは?」
「迷子かな? お母ちゃんのところへ帰りな、お嬢ちゃん。ひっひっひ」
下品な笑い声が、ホールに響き渡る。
全身に突き刺さる、好奇と嘲笑の視線。
足がすくみそうになるのを、奥歯を噛み締めて耐える。
ここで怯んだら、終わりだ。
私は受付嬢の目をまっすぐに見つめ、精一杯はっきりとした声で言った。
「冒険者登録を、お願いします」
しん、とホールが静まり返る。
誰もが、自分の耳を疑っているようだった。
やがて、誰かが「ぶはっ」と吹き出し、それを皮切りに、ホールは爆笑の渦に包まれた。
「マジかよ、このチビ! 冒険者になるだと!」
「おいおい、おままごとは他所でやれってお嬢ちゃん!」
受付嬢は、こめかみを押さえながら、深々とため息をついた。
「……聞いてた? ここは遊び場じゃないの。あなたみたいな子供が、命を賭ける場所じゃない。分かったら、お家に帰りなさい」
「帰るわけにはいきません。私には、どうしてもお金が必要なんです」
「お金なら、お父様にでもねだりなさいな。その服、貴族様なんでしょ?」
彼女の黄色い瞳が、私の服装を値踏みするように細められる。
確かに、私が着ているのは、お母様が繕ってくれた古いながらも上質な深紅の仕立て服だ。
平民の子供とは、一目で違うと分かるだろう。
「……事情があって、それができないんです。お願いします。私は、本気です」
私がなおも食い下がると、受付嬢は呆れたように首を振った。
「本気、ねぇ……」
ぽつりと呟かれ、胸の奥が冷える。
万事休すか。
私が諦めかけた、その時だった。
「――面白い」
カウンターの奥から、地響きのような、腹の底に響く低い声がした。
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