第2話 貧乏貴族!?
ぷにぷにと柔らかな、マシュマロみたいな手足。
混乱する頭で、のろのろとベッドを降りる。
部屋の隅に置かれた、豪奢な装飾の姿見。
そこに映っていたのは、見知らぬ……愛らしい少女だった。
絹糸のように滑らかな黄金の長髪が、月光を浴びて輝きながら背中に流れている。
ぱっちりとした大きな瞳は、紅玉のように鮮やかで、覗き込む者の心を射抜くような深い赤色。
年は、八歳くらいの少女だろうか。
「……だれ、この子……」
私が呟くと、鏡の中の少女も同じように小さな唇を動かす。
間違いない。これが、今の私の姿だった。
その瞬間、頭の中に奔流のような情報が流れ込んでくる。
知らないはずの記憶、感情。
この少女の名前は、エリス・フォン・アーベント。
アステル王国に名を連ねる、アーベント伯爵家の末娘。
そして――。
没落寸前の、貧乏貴族……!?
脳内に流れ込んできた記憶が、残酷な現実を突きつける。
またなの? また貧乏生活なの?
前世と何も変わらないじゃない!
アーベント家は、かつては王国の東部を治め、民からの信頼も厚い名門貴族だった。
だが、それはもう過去の話。
五年前に起きた、王位継承を巡る政争。
当時、騎士団長であった父ライド・フォン・アーベントは、その実直すぎる正義感ゆえに、権力者の罠にはまった。
現宰相、アルバ公爵。彼が対立派閥を陥れるために企てた非人道的な計画。
その証拠を掴んだ父は、国王に告発しようとした。
だが、機先を制したのはアルバ公爵だった。
父は逆に「王位簒奪を企てた反逆者」という、根も葉もない濡れ衣を着せられたのだ。
結果、アーベント家は死罪こそ免れたものの、伯爵という爵位以外のすべてを剥奪された。
残されたのは、「アーベント伯爵家」という名前だけ。
実態の伴わない、空っぽの称号。
人々が侮蔑と嘲笑を込めて呼ぶ、「名ばかり伯爵」の誕生だった。
現在の住まいは、王都ラピスフォードの旧市街のはずれにある、かつての小さな別邸。
領地にあった壮麗な本邸はとうに没収され、この屋敷だけが、アルバ公爵の「温情」という名の見せしめとして残された。
だが、その小さな屋敷の維持費すら、今のアーベント家には重くのしかかっている。
私――エリスの記憶を辿る。
豪華に見えるこの部屋の家具も、よく見れば壁際には不自然な空白が目立つ。
金目のものは、ほとんど売り払ってしまった後なのだろう。
着ているネグリジェも、肌触りは良いが、レースの裾がわずかにほつれていた。
そして、この体の前の持ち主である「エリス」は……。
そんな過酷な現実に絶望し、日に日に生きる気力をなくし、ついには自ら魂を手放してしまったらしい。
女神が言っていた「魂が抜けたばかりの“空き”」というのは、そういうことか。
「ふざけないでよ……」
前世も、今世も、金と権力に人生をめちゃくちゃにされる。
女神の理不尽な采配と、この世界の腐った貴族社会。
腸が煮え繰り返るような怒りが、体の奥底から湧き上がってきた。
だが、同時にこうも思う。
前のエリスちゃんは、諦めた。
生きることを、手放した。
だったら、私が代わりに生きてあげる。
こんなクソみたいな運命、諦めてたまるもんですか。
見てなさいよ、性悪女神、それからアルバ公爵!
素材を集めて、金を稼ぐ。
この世界の法則を学び、利用し尽くす。
「私は、絶対に生き抜いてみせるんだから……!」
鏡の中の美少女――私は、獰猛な笑みを浮かべていた。
コン、コン。
静かなノックの音が、私を現実へと引き戻す。
「エリス様、朝食のご準備ができました。ミレイユです」
ドアの向こうから、先ほど私を起こしたのと同じ、穏やかな声が聞こえる。
ミレイユ。
この屋敷に仕える、数少ないメイドの一人だ。
「……うん、今行く」
私は短く答え、鏡に映る自分から視線を外した。
これから会う、新しい家族。
待っているのは、温かい団欒か、それとも冷え切った絶望か。
どちらにせよ、私の二度目の人生は、もう始まってしまったのだ。




