第13話 最初の壁に挑みます!
「ただいま戻りました」
屋敷の裏口からこっそりと帰宅し、ミレイユにだけ小さな声で挨拶をする。
彼女は「おかえりなさいませ」と優しく微笑んで、私の泥だらけの服を見て、少しだけ困ったように眉を下げた。
冒険者稼業を始めてから、彼女の洗濯物を増やしてしまっているのは、少しだけ申し訳ない。
「エリス様、そちらは?」
「本よ! お勉強のための!」
私が胸を張って宝物を見せると、ミレイユは「まあ」と小さく声を上げた。
彼女は、私が知識に対して強い渇望を持っていることを、よく知ってくれている。
「素晴らしいです。ですが、あまり根を詰めすぎては、お体に障りますよ」
「うん、分かってる。ありがとう、ミレイユ」
彼女との短い会話を終え、私は自分の部屋へと駆け込んだ。
早く、この宝物の封印を解きたくて、たまらなかったのだ。
部屋に戻った私は、さっそく机の上に、今日の戦利品を並べた。
まずは、この前冒険者ギルドの依頼でおまけに採取した、まだ土の匂いが残る薬草たち。
リリ草、ノギク草、それから、これは……なんだっけ。
後で図鑑で調べよう。
そして、その隣に、今日手に入れたばかりの二冊の本を、そっと置く。
私は、まず薬草図鑑『森の恵み入門』を開いてみた。
うん、やっぱり内容は薄い。
私が知らない薬草は、ほんの数種類しか載っていなかった。
まあ、銅貨十枚だもの。仕方ないわね。
それでも、今まで曖昧だった知識が、正確なものに変わっていく感覚は、とても心地よかった。
リリ草の本当の効能、ノギク草との違い、そして、それぞれがどんな土壌を好むのか。
一つ一つの情報が、これからの私の武器になる。
そして、いよいよ本命だ。
私は、ごくりと喉を鳴らし、『初めての錬金術』の、分厚い革の表紙に、そっと指を滑らせた。
「錬金術……」
ページをめくる。
インクの少し酸っぱい匂いと、古い紙の甘い匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
『序論:錬金術とは、万物の理を識り、世界の根源に触れる試みである。それは、単なる物質の変化に非ず。術者の魂を触媒とし、無から有を生み出すに等しい、神への挑戦である――』
「うっ……」
最初の、たった一行で、私は眩暈を覚えた。
なにこれ、いきなり難しすぎない?
哲学書か何か?
前世で読んだ、化学の教科書の方が、よっぽど分かりやすかったわ。
流石、努力だけではほぼ習得不可能と言われている、専門技術。
ページをめくっても、めくっても、「イデア」「四大元素」「セフィロトの樹」といった、聞いたこともないような専門用語のオンパレード。
これは、思った以上に、前途多難かもしれない……。
私がうんうんと唸りながら、難解な文章と格闘していると、ふと、あることに気づいた。
文章の横に、たくさんの図やイラストが、手書きで描き込まれているのだ。
円や三角形を組み合わせた、魔法陣のような複雑な図形。
その中を、矢印がまるで川の流れのように、巡っている。
「これは……魔力の流れ、かな?」
文字だけでは、ちんぷんかんぷん。
だけど、この図を見ていると、なぜだか、頭の中にイメージがすっと入ってくる。
そういえば、前世でも、難しい論文を読むときは、よく図やグラフを参考にしたっけ。
どうやら、この本の著者は、私と同じで、文字よりも図で理解するタイプだったらしい。
急に、会ったこともない著者に、親近感が湧いてきた。
私は、図解を頼りに、読み進めていく。
そして、錬金術師になるための、最初の関門についての記述に、たどり着いた。
『第一章:触媒としての魔力の練成』
本によれば、錬金術の第一歩は、魔法のように現象を起こすことではないらしい。
まず、自分の中にある魔力を、ただのエネルギーではなく、物質に干渉するための「触媒」としての性質を持つ、特殊な魔力に変換しなければならない、と書かれている。
これが、非常に難しいのだとか。
普通の魔術師がこれを試みると、魔力が暴走し、攻撃魔法の粒子――つまり、火花や氷の欠片が、辺り一面に飛び散ってしまうのが関の山。
多くの初学者が、この最初の壁を越えられずに、挫折していくのだという。
「なるほど……。まずは、この錬金術用の魔力を出せなくちゃ、話にならないってことね」
私は、本に書かれている通り、まずは魔力を練り上げる練習から始めることにした。
ベッドの上で、小さくあぐらをかく。
ゆっくりと呼吸を整え、体の奥にある、温かい魔力の源泉に意識を集中させる。
そして、その魔力を、本に描かれていた図のイメージ――複雑な魔法陣の中を巡る、あの流れに乗せて、体外へと放出する。
だが――
「……うーん」
何度やっても、指先から出てくるのは、いつもの、淡い光の粒子だけ。
魔法の練習の時と、何も変わらない。
「やっぱり、そんなに簡単じゃない、か」
私は、もう一度、本の図解に目を凝らした。
魔法陣の中心部。
そこから、螺旋を描くように、魔力が外側へと広がっていくイメージ。
そうだ。ただ魔力を出すんじゃない。
もっと、こう……渦を巻くような、練り上げるような……。
私は、床に降りると、指先で、空中にその魔法陣を描き始めた。
もちろん、物理的に描けるわけじゃない。
魔力で、光の線として、イメージを固定していくのだ。
これも、魔力コントロールの、高度な訓練になる。
指先から紡ぎ出される光の糸が、少しずつ、複雑な幾何学模様を形成していく。
円を描き、三角形を重ね、古代文字のようなルーンを配置する。
だけど、集中力が続かない。
あと少し、というところで、魔法陣はぱっと光の粒子に変わって、霧散してしまう。
「むっ……! もう一回!」
汗が、額を伝う。
心臓の音が、うるさいくらいに響く。
何度も、何度も、失敗を繰り返した。
諦めかけた、その時だった。
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