第10話 メイドの過去
私とミレイユは部屋に入り、席についた。
目の前には湯気の立つハーブティーと、数枚のクッキーが置かれている。
彼女は、私の向かい側の椅子に腰を下ろしているようだ。
メイドが主人の前で椅子に座るなんて、本来であれば、ありえないこと。
でも、今の彼女は“メイド”じゃなかった。
私と向き合おうとする、強い意志をその瞳に宿している。
「さて、エリス様。改めて、お聞かせいただけますか。今日一日、どこで、何をなさっていたのかを」
ミレイユの目は、真剣だ。
その瞳から、私は逃げることを許されない。
「……お散歩をしていたというのは、嘘よ」
「存じております」
私は、観念して、すべてを話した。
学園に行きたいこと。
そのために、莫大な金が必要なこと。
そして、その金を稼ぐために、冒険者になったこと。
今日の依頼内容と、スライムとの戦闘のことも、正直に打ち明けた。
私の話を、ミレイユは、一度も遮ることなく、静かに聞いていた。
その表情は、変わらない。
だけど、彼女がひざの上で握りしめた拳が、かすかに震えているのが見えた。
私がすべてを話し終えると、彼女は、ぽつり、と呟いた。
「……やはり、そうでしたか」
その声は、ひどく、悲しげだった。
「え、気づいていたの?」
「はい。エリス様が、お変わりになったからです」
ミレイユは、私の目をまっすぐに見つめた。
「数週間前までのエリス様は、ずっと、お部屋にこもっておられました。その瞳には、光がありませんでした。ですが、最近のエリス様は、まるで別人のようです。その瞳には、強い意志の光が宿っています。そして、今日……エリス様のお体からは、今まで感じたことのない、血と、鉄と、そして、魔物の匂いがいたしました」
私は、言葉を失った。
彼女は、私の変化を、誰よりも敏感に感じ取っていたのだ。
「危険です。あまりにも、危険すぎます」
ミレイユの声が、震える。
「冒険者というお仕事が、どれほど過酷なものか、エリス様はご存じないのです。どうか、おやめください。エリス様のお身に何かあれば、奥様も、旦那様も、そしてリア様も……!」
「分かってる!」
私は、思わず声を荒らげた。
「危険なことくらい、分かってる! でも、こうでもしないと、私たちはずっとこのままじゃない! お父様が頭を下げて、お母様が苦労して、リアが我慢する生活が、ずっと続くのよ! 私は、それが嫌なの!」
私は、懐から今日稼いだ、なけなしの銅貨をすべて取り出し、テーブルの上に叩きつけた。
チャリン、という、虚しい音が響く。
「これが、私が今日、命懸けで稼いできたお金よ。たった、これだけ。でも、ゼロじゃない! 私は、この手で、未来を掴みたいの!」
私の目から、涙が溢れそうになるのを、必死にこらえる。
ミレイユは、テーブルの上の銅貨を、じっと見つめていた。
その瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちる。
「そう、でしたか。エリス様は、それほどの覚悟を……」
彼女は、震える指で、銅貨の一枚を、そっと拾い上げた。
その重みを、確かめるように。
「分かりました。エリス様の覚悟、しかと受け止めました」
ミレイユは涙を拭うと、顔を上げた。
その表情には、もう、迷いの色はなかった。
「ですが、旦那様と奥様には……?」
「言わないで」
私は、彼女の言葉を遮った。
「言えば、絶対に止められるわ。お父様は、私以上に、ご自分を責めるでしょう。そんな顔、もう見たくないの」
「……ですが」
「お願い、ミレイユ。私と、あなただけの秘密にしてほしいの」
私が頭を下げると、ミレイユはしばらくの間、何かを考えるように、目を伏せていた。
長い、長い沈黙。
やがて、彼女は、静かに口を開いた。
「……承知、いたしました。この件、私の一存で、胸の内に秘めておきます。その代わり」
ミレイユの目が、私を鋭く射抜く。
「三つ、お約束してください」
「約束?」
「はい。一つ、ご自分の実力以上の、危険な依頼は、絶対に受けないこと。一つ、毎日、必ず、陽のあるうちに、このお屋敷に帰ってくること。そして、一つ。もし、何か困ったことがあれば、誰よりも先に、この私に相談すること。この三つを、お守りいただけますか?」
「……ええ。約束するわ」
私がそう答えると、ミレイユは、ようやくふっと息を吐いて、表情を和らげた。
「よろしゅうございます。では、この話は、ここまでといたしましょう」
彼女は立ち上がると、いつものように、優雅な仕草で一礼した。
だけど、部屋を出て行こうとした彼女を、私は呼び止める。
「待って、ミレイユ。どうして、あなたはそんなに、冒険者の世界のことを知っているの?」
私の問いに、ミレイユの肩が、ぴくりと震えた。
彼女は、振り返らない。
窓の外を見つめたまま、ぽつり、ぽつりと、語り始めた。
「……私には、昔、弟がおりました」
その声は、ひどく、か細かった。
「私と、二つ違いの、やんちゃな弟でした。あの子も、冒険者に憧れて……いつか、Sランクの英雄になって、貧しい暮らしの私たちを、楽にさせてくれるのだと、そう言って、十六の歳に、家を飛び出していきました」
彼女の過去。
私は息を飲んで、その言葉の続きを待った。
「最初は、手紙をくれていました。Fランクになった、Eランクになった、と。ゴブリンを初めて倒した日は、興奮した様子で、三枚も手紙を送ってきたんですよ」
ミレイユは、少しだけ、笑った。
でも、その声は、泣いているようにも聞こえた。
「ですが、ある日を境に、手紙は、ぷっつりと途絶えました。心配した私が、ギルドに問い合わせて、ようやく分かったのです。あの子が……ダンジョンの探索依頼中に、ゴブリンの群れに襲われ、帰らぬ人となった、と」
彼女の肩が、小さく震えている。
「冒険者の世界は、夢や希望だけではありません。むしろ、その何倍もの、絶望と、死が、すぐ隣にある世界です。多くの若者が、一攫千金を夢見て、そして、その夢の半ばで、命を落としていく。私の弟のように」
ミレイユは、ゆっくりと、こちらを振り返った。
その瞳は、涙で赤く潤んでいた。
「ですから、エリス様。どうか、どうか、ご無理だけはなさらないで。あなた様は、私にとっても……もう、大切な、ご家族の一員なのですから」
彼女はそう言うと、今度こそ、静かに部屋を出て行った。
一人残された部屋で、私はしばらくの間、動くことができなかった。
ミレイユの言葉の重みが、ずしりと、胸にのしかかってくる。
私は、冒険者の世界の、ほんの上辺しか、見ていなかったのかもしれない。
スライム一匹を倒したくらいで、浮かれていた自分が、ひどく、恥ずかしくなった。
改めて、気を引き締めなければ。
これは、遊びじゃないのだと。
私は、テーブルの上に置かれた五枚の銅貨を、再び握りしめた。
ミレイユの涙の分まで、この銅貨は、重くなっているような気がする。
もっと、賢くならなくちゃ。
ミレイユを、そして家族を、本当に守るためには。
危険を冒さず、確実に、大きなお金を稼ぐためには。
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