蔵書006『いい子』
「今夜空いてる?」
夜中の一時、彼からのLINE。また始まった。
私は、西野里奈。大学三年生。そして、どうしようもない男に都合よく使われている女。分かってる。
でも、止められない。どうしようもないのは、私自身だ。
「空いてるよ」
即レスしてしまう自分が情けない。
三十分後、彼が私のアパートに来た。酒臭い。
「また飲み会?」
「うん。つまんなくて抜け出してきた」
嘘だって分かる。きっと女の子に振られたか、持ち帰り損ねたか。私は彼の保険。第二候補。いや、第三か第四かもしれない。
それでも、部屋に入れてしまう。
「里奈といると落ち着く」
そう言いながらソファに寝転ぶ彼。名前は橋本蒼太。同じサークルの一個上の先輩。顔は良い。それだけが取り柄のクズ男。
初めて会った時から、こいつはダメだと思った。ダメだと分かっていても、優しく微笑まれると弱い。
「今日もかわいいね」
お決まりの台詞。でも、その言葉に救われている自分がいる。
朝起きると、彼はもういない。メモもない。LINEもない。いつものこと。
次に連絡が来るのは、また彼が寂しい時。私はそれを待っている。
友達には言えない。軽蔑されるのが分かってるから。
「里奈、最近誰かと付き合ってる?」
親友の美波に聞かれて、「ううん」と答える。
付き合ってない。それは事実。でも、月に数回、彼が来る。それって何?
セフレ?都合のいい女?分からない。分かりたくない。
ある日、サークルの飲み会で、蒼太が他の女の子といちゃついているのを見た。
「お前、まじかわいい」
私に言うのと同じ言葉。同じ笑顔。
胸が痛い。でも、文句を言う権利なんてない。私たちは付き合ってないから。
その夜、案の定LINEが来た。
「今日の飲み会つまんなかった。里奈に会いたい」
行かない、と決めてたのに、結局部屋で待っていた。
「里奈は特別だよ」
ベッドの中でそう囁かれる。信じたい。でも、信じちゃいけない。
こんな関係が半年続いた。
彼の都合で会って、彼の都合で終わる。デートなんてしたことない。外で手を繋いだこともない。
でも、たまに優しい時がある。
風邪を引いた時、薬を買ってきてくれた。試験前に差し入れをくれた。そんな小さな優しさにすがって、いつか付き合えるかもって期待してた。
バカだよね。
年末、蒼太からクリスマスの予定を聞かれた。
「24日、空いてる?」
ドキッとした。ついに?クリスマスデート?
「空いてるよ」
「良かった。実は頼みがあって」
嫌な予感。
「バイト先の子をクリスマスパーティーに誘いたいんだけど、人数合わせで女の子が必要で。来てくれない?」
は?
人数合わせ。他の女の子を口説くための、人数合わせ。
「…分かった」
断れなかった。断ったら、もう会えなくなるかもしれない。
クリスマスイブ、私は精一杯おしゃれをして行った。もしかしたら、という淡い期待を持って。
でも、蒼太の目は最初からバイト先の子に釘付けだった。
「紹介するよ。こっちが里奈。すごく気が利くいい子なんだ」
いい子。彼女候補じゃなくて、いい子。
パーティーの間中、蒼太はその子にべったりだった。私?私は他の男たちの相手をさせられた。
「里奈ちゃん、彼氏いるの?」
「いません」
「じゃあ、今度デート」
「すみません」
断り続けて、疲れ果てた。
帰り際、蒼太が寄ってきた。
「今日はありがとう。おかげで彼女といい感じになれた」
「良かったね」
「里奈は最高の友達だよ」
友達。そうか、友達か。
その夜、家に帰って泣いた。みじめで、情けなくて、悔しくて。
でも、年明けにまた蒼太から連絡が来た時、会ってしまった。
「実は、クリスマスの子に振られた」
だから私のところに来たんだ。
「里奈は俺のこと、受け入れてくれるから好き」
都合がいいってことでしょ。分かってる。
でも、「好き」という言葉に、また期待してしまう。
二月、バレンタイン。
勇気を出して、手作りチョコを用意した。告白しようと思った。この関係をはっきりさせたかった。
「蒼太さん、話があるんだけど」
「俺も話がある」
え?
「実は、付き合うことになった子がいて」
時間が止まった。
「マジで可愛くて、性格も最高で。運命感じる」
蒼太は嬉しそうに彼女の話を始めた。どこで出会って、どんなデートをして、どんなに素敵か。
私は手に持っていたチョコを、カバンに押し込んだ。
「里奈も早く彼氏作れよ。いい子なんだから」
いい子。また言われた。
「そうだ、今度ダブルデートしない?里奈も誰か連れてきて」
何それ。私を何だと思ってるの。
でも、言えなかった。笑顔で「考えとく」と答えた。
家に帰って、鏡を見た。
疲れた顔。ストレスでできた口内炎が痛い。蒼太を待ち続けて、期待して、裏切られて。この半年で、どれだけ自分を安売りしてきたか。
友達にも会わなくなった。バイトも減らした。全部蒼太の都合に合わせるため。
バカだ。本当にバカだ。
次の日、美容院に行った。
「どうされますか?」
「バッサリ切ってください」
腰まであった髪を、肩につかない長さまで切った。
蒼太が「長い髪が好き」と言ってたから伸ばしてた髪。
切り落とされていく髪を見ながら、涙が出た。
「お客様、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。すっきりしたくて」
本当にすっきりした。
鏡に映る自分は、別人みたいだった。でも、前より好き。
蒼太のLINEをブロックした。電話番号も消した。サークルも辞めた。
きっと彼は気づきもしない。都合のいい女が一人消えただけ。
三日後、知らない番号から着信。出てしまった。
「里奈?なんでブロックしたの?」
蒼太だった。
「もう会わないから」
「は?意味分かんない。彼女と喧嘩したから会いたいんだけど」
やっぱり。いつものパターン。
電話を切った。
その夜、アパートのインターホンが鳴り続けた。
「里奈、開けて」
無視したけど、近所迷惑になりそうで仕方なくドアを開けた。
蒼太は私の髪を見て眉をひそめた。
「なにそれ。似合わない」
「帰って」
「俺、長い髪が好きって言ったじゃん」
「関係ない」
押し問答の末、結局部屋に入れてしまった。弱い自分が嫌になる。
「で、彼女とは?」
「だから喧嘩して…慰めてほしくて」
「他当たって」
「冷たいな。前の里奈なら」
前の私なら、慰めてた。抱きしめてた。期待してた。
「もう無理」
近づいてきた。いつもの手。
「後悔するよ」
私を抱こうとする腕を振り払った。
「誰が髪も切ってブスになった里奈なんか相手にすると思ってんの?俺以外いないよ」
心臓をえぐられた。
でも、言い返せなかった。
蒼太は舌打ちして帰った。
翌日から地獄が始まった。
違う番号で何度も着信。共通の友達からの「仲直りしなよ」メッセージ。サークルでの「髪、失恋?」という視線。
みんな蒼太の味方。私は「振られて髪切った惨めな女」。
大学に行けなくなった。
部屋で泣いてばかり。
「誰が里奈なんか相手にすると思ってんの?」
あの言葉がリフレインする。
本当だ。誰もいない。
クズでも、私を必要としてくれる人がいた時は、孤独じゃなかった。
今は本当に一人。
髪を切っても、ブロックしても、何も変わらなかった。
むしろ失うものの方が多かった。
スマホが鳴る。また知らない番号。
恐る恐る出ると、蒼太だった。
「彼女と別れた。やっぱ里奈がいい」
分かってた。こうなるって。
「今から行く」
「来ないで」
でも、声が震えてる自分に気づく。
一人は、寂しい。
切った髪を触る。
みっともない。カッコつけて切ったけど、結局私は弱い女。
インターホンが鳴った。
ドアの前で、立ち尽くす。
開けたら、また元に戻る。都合のいい女に。
でも、一人よりはマシかもしれない。
手が、ドアノブに伸びた。