蔵書005『幸せですか』
「お疲れ様でした」
バイト先の控室で着替えながら、私は隣のロッカーから聞こえてくる彼の声に耳を傾けていた。
大学二年の春から始めたカフェのバイト。そこで出会った一つ年上の先輩、康介さん。優しくて面白くて、いつも周りを笑顔にする人。私はすぐに恋に落ちた。
「今日も遅番?」
康介さんが話しかけてきた。
「はい、十時までです」
「俺もだ。じゃあ、また後でね」
その笑顔を見るためだけに、私はシフトを増やした。彼と同じ時間に入れるように、希望を出し続けた。
三ヶ月が経った頃、私たちは自然と一緒に帰るようになっていた。
「今日も星がきれいだね」
康介さんはいつも空を見上げながら歩く。私も釣られて見上げる。本当は星なんてよく見えないけど、2人で同じものを見ている時間が好きだった。
「真央ちゃんは、どんな音楽聴くの?」
ある日の帰り道、彼が聞いてきた。
「えっと、J-POPとか…」
「へー、今度おすすめ教えてよ」
そんな何気ない会話が嬉しくて、家に帰ってからプレイリストを作った。康介さんが好きそうな曲を選んで、順番も考えて。
翌日、勇気を出してURLを送った。
『作ってみました!』
すぐに返信が来た。
『ありがとう!帰りに聴くね』
その日の帰り道、康介さんはイヤホンを片方外して差し出してきた。
「一緒に聴こう」
並んで歩きながら、同じ音楽を聴いた。肩が触れそうな距離。心臓がうるさくて、音楽なんて頭に入らなかった。
「いい曲ばっかりだね。真央ちゃん、センスある」
褒められて、顔が熱くなった。
夏になって、バイト仲間でBBQをすることになった。康介さんも来るという。私は前日から何を着ていくか悩んだ。
当日、河原でみんなでワイワイ準備をしていると、声をかけてきてくれた。
「真央ちゃん、今日可愛いね」
「え?」
「その服、似合ってる」
初めて可愛いと言われた。舞い上がりそうだった。
BBQの後、花火をした。線香花火を二人で見つめていた時、康介さんが言った。
「真央ちゃんといると、楽しい」
「私もです」
「これからもよろしくね」
どういう意味だろう。期待していいのかな。
その日の夜、グループLINEに写真が投稿された。いっぱいある中に、康介さんと私が並んで笑っている写真があった。カップルみたいに見えて、こっそり保存した。
秋になって、学園祭の季節。康介さんの大学の学園祭に誘われた。
「良かったら来ない?友達も誘っていいよ」
友達も、という言葉に少しがっかりしたけど、行くことにした。結局友達は都合が悪く、二人になった。
これってデート?違う?分からないまま当日を迎えた。
「案内するよ」
康介さんは優しくエスコートしてくれた。模擬店を回って、ステージを見て、お化け屋敷にも入った。
怖がる私に、彼は「大丈夫、俺がいるから」と言ってくれた。
帰り道、夕焼けの中を歩きながら、康介さんが立ち止まった。
「真央ちゃん」
「はい」
「今日、楽しかった」
「私も楽しかったです」
「あのさ……」
告白?心臓が飛び出しそうだった。
「実は、相談があって」
相談?
「好きな人ができたんだ」
一瞬、私のこと?と思った。でも、康介さんの表情を見て、違うと分かった。
「そう…なんですか」
声が震えないように必死だった。
「同じゼミの子なんだけど、どうアプローチしたらいいか分からなくて」
ゼミ。私とは違う世界の人。
「私、そういうの詳しくないです」
「そっか…ごめん、変なこと聞いて」
ある日聞かれた。
「真央ちゃんは、恋人いないの?」
「いないです」
「え、意外。可愛いのに」
その言葉が嬉しくて、でも悲しかった。可愛いと思ってくれてるのに、恋愛対象じゃない。
クリスマスが近づいてきた。バイト先でもクリスマスシフトの話が出た。
「真央ちゃん、24日入れる?」
「入れます」
「俺も入るよ。一緒だね」
嬉しかった。クリスマスを康介さんと過ごせる。バイトだけど。
でも、一週間前になって彼はシフトを変更した。
「ごめん、24日入れなくなった」
「そうなんですか」
「実は…彼女ができて」
心臓が止まりそうだった。
「例のゼミの子」
「おめでとうございます」
笑顔を作るのに必死だった。
「ありがとう。真央ちゃんのアドバイスのおかげだよ」
私は何もアドバイスなんてしてない。ただ聞いていただけ。でも、それで康介さんが幸せになったなら…
いや、嘘。全然嬉しくない。
クリスマスイブ、私は一人でバイトをした。カップルで溢れる店内で、注文を取り続けた。
休憩中、康介さんのインスタを見てしまった。彼女との写真。イルミネーションをバックに、幸せそうな二人。
涙が止まらなくなって、トイレに駆け込んだ。
年が明けて、康介さんとのシフトが被ることが減った。彼女との時間を優先してるんだろう。
たまに会っても、以前のような親密さはなかった。一緒に帰ることもなくなった。
「最近、真央ちゃん元気ない?」
ある日、康介さんに言われた。
「そんなことないです」
「ならいいけど。真央ちゃんは大切な後輩だから」
後輩。その言葉が、私の立場を明確にした。
春、康介さんが就活で忙しくなり、バイトに来る回数が減った。
「内定もらったら、バイト辞めるかも」
寂しかった。でも、おめでとうと言った。
そして、康介さんが内定をもらった日。
「真央ちゃん、ちょっと話がある」
二人で店の外に出た。
「来月でバイト辞めることにした」
分かってた。でも、実際に聞くと胸が痛い。
「そうですか」
「一年間、ありがとう。真央ちゃんと働けて楽しかった」
「私も楽しかったです」
本当は、楽しいだけじゃなかった。苦しいことの方が多かった。
「真央ちゃん」
「はい」
「俺、気づいてた」
え?
「真央ちゃんの気持ち」
時間が止まった。
「ごめん。応えられなくて、本当にごめん」
謝らないで。謝られるのが一番辛い。
「気づいてたなら、なんで…」
「距離を置くべきだったよね。でも、真央ちゃんといる時間が心地よくて」
都合が良かったんだ。私の気持ちを知りながら、そばに置いていた。
「ひどいです」
初めて本音を言った。
「本当にごめん」
康介さんは深く頭を下げた。
それが、私たちの最後の会話だった。
康介さんが辞めた後も、私はバイトを続けた。でも、もう楽しくなかった。康介さんがいない店は、ただの職場でしかなかった。
ある日、偶然街で康介さんを見かけた。彼女と手を繋いで歩いていた。スーツ姿の康介さんは、大人っぽく見えた。
目が合った。康介さんは少し驚いた顔をして、小さく会釈をした。私も会釈を返した。それだけ。
彼女が「知り合い?」と聞いているのが見えた。康介さんが何と答えたかは分からない。
バイト仲間?後輩?妹みたいな存在?
どれも正解で、どれも違う。
私にとって康介さんは、初めて本気で好きになった人。毎日会えるだけで幸せだった人。声を聞くだけで笑顔になれた人。
でも、康介さんにとって私は、都合のいい後輩でしかなかった。
一年経った今でも、あの頃の自分を思い出すと泣けてくる。
純粋に人を好きになることが、こんなに苦しいなんて知らなかった。相手の幸せを願うことが、こんなに自分を傷つけるなんて思わなかった。
今もカフェでバイトしてる時、ふと康介さんの癖を思い出す。カップを片付ける時の手つき、レジでの声のかけ方、休憩中の座り方。
全部覚えてる。忘れられない。
でも、あの恋がなければ、人を好きになる喜びも、苦しみも知らなかった。
康介さん、今も幸せですか。
私はまだ、あなたを忘れられません。