蔵書047『幸せの値段』
彼が夢を追い、私がそれを支える。
そんなありふれた、でも私たちにとっては、かけがえのない日々。
六畳一間の古いアパート。ミュージシャンになるという、途方もない彼の夢。
それを信じ、私は朝から晩までパン屋で働いた。仕事帰りに、スーパーで見切り品になった食材を買い集め、二人分の夕食を作る。
食卓に並ぶのは、決して豪華とは言えない、ささやかな料理。でも向かいの席で「うまい」と頬張る将暉の笑顔を見れば、それだけで私の心は満たされた。
食事が終わると、彼は部屋の隅に立てかけてある古いギターを手に取る。次のオーディションで歌うんだ、と、彼が作ったばかりの歌を私だけのために聞かせてくれる。
少しだけ音の外れた、不器用なメロディ。でもその歌声には、彼の魂が、未来への希望が、溢れていた。
私は貧しくても、夢を語るあなたの、そのきらきらした瞳が好きだった。
そんなきらめきが陰り始めたのは、いつからだったろう。
ある夜、将暉は私に深々と頭を下げた。
「……ごめん、朱里。俺、お前にこんな生活ばっかりさせて」
「ううん、私は平気だよ。将暉の夢が叶うなら」
「でも、俺がもう限界なんだ」
彼はそう言って、一枚の名刺をテーブルに置いた。そこに書かれていたのは、きらびやかな店の名前だった。
「ここで働くことにした。夜の仕事だ。ちゃんとすれば、かなり稼げるらしい」
「……でも、それって」
「大丈夫。お前に楽をさせてやりたいだけなんだ。夢を諦めるわけじゃない。夢を叶えるために、少しだけ、遠回りするだけだよ」
彼のあまりにも真剣な瞳に、私は何も言えなくなってしまった。
彼の言う通り、生活は驚くほど変わった。
初めてもらった給料で、彼は値札も見ずに綺麗なワンピースを買ってくれた。家賃二倍の、日当たりのいいマンションに引っ越した。みすぼらしい食卓は、お洒落なダイニングテーブルに変わった。
最初は素直に嬉しかった。
でも生活が潤っていくのに反比例して、私の心は急速に渇いていった。
彼が帰ってくるのは、いつも明け方だった。
高級なスーツの襟元から、私のじゃない甘い香水の匂いがする。スマートフォンには、ひっきりなしに知らない女から楽しそうなメッセージが届く。
「お客さんだよ」
彼はそう言って、悪びれもなく笑う。
部屋の隅に置かれたギターは、少しずつ白い埃が積もっていった。
「ねぇ、最近、ギター弾いてないね」
私がそう言うと、彼は「ああ、疲れててさ」と、面倒くさそうに言うだけだった。
彼の口から語られるのは、新しい歌の話ではなく、いかに客から高いシャンパンを注文させたかという武勇伝ばかりになった。
そして、昨日の夜。
彼は腕に、見たこともない高級な腕時計を巻いて帰ってきた。
「どうだ、これ。馴染みのお客さんがプレゼントしてくれたんだ」
得意げに笑う彼の顔は、私の知っている将暉ではなかった。
夢を語っていたあのきらめきは、どこにもない。そこにあるのは、金と、欲望に濁った、知らない男の瞳だけだった。
私は、もう限界だった。
「……ねぇ、将暉」
私は積もりに積もった想いを、静かに口にした。
「私、もうこんな生活いらない」
「……は? 何言ってんだよ」
「前の暮らしの方が、ずっと幸せだった。お金がなくたって、あなたがギターを弾いて、夢の話をしてくれれば、それでよかったの」
私の声は、震えていた。
「私は貧しくても、夢を目指すあなたが好きだった」
言い終えた瞬間だった。
彼の顔から、表情が消えた。
そして、テーブルを思い切り拳で叩きつけた。
「ふざけんじゃねえぞ!」
聞いたこともない彼の怒声が、部屋に響き渡る。
「誰のために、俺がこんな仕事してると思ってんだ! お前のためだろうが! 貧乏暮らしが幸せだっただ? よくそんな綺麗事が言えるな!」
彼は獣のように荒い息をつきながら、私を睨みつけた。
そしてクローゼットをめちゃくちゃに開けると、私の服を、バッグを、床に叩きつけるように投げ捨て始めた。
「出てけ!」
「……将暉っ」
「そんなに昔の暮らしがいいなら、一人で勝手にやってろ! 二度と俺の前に顔見せんじゃねえぞ!」
私は腕を掴まれ、無理やり玄関の外へと突き飛ばされた。
そして背後で、乱暴にドアが閉められる。鍵がガチャリと、冷たい音を立てた。
散らばった荷物の中に、彼が付き合いたての時に買ってくれた安物のマフラーが無残に転がっていた。
涙も出なかった。
ただドアの向こう側で、彼が何事もなかったかのようにテレビをつけた音だけが、虚しく響いていた。
私の好きだった将暉は、もういない。
私が殺してしまったのかもしれない。
いや、彼は彼自身の手で、自分の夢を、心を、殺してしまったのだ。
冷たい廊下で私はただ一人、立ち尽くすことしかできなかった。
もう二度と、彼のギターの音色を聞くことはできない。




