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失恋図書館  作者: N.H
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蔵書004『契約違反』

 金曜の夜、いつものように彼のマンションに向かった。


 高級タワーマンションの32階。オートロックの暗証番号は半年前から変わっていない。エレベーターで上がりながら、今日も同じ会話をするんだろうなと思った。


 チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開く。


「遅かったね」


 藤原さん(私は下の名前を知らない)がワイングラスを片手に立っていた。スーツのネクタイは緩められ、シャツの袖はまくられている。この姿を見られるのは、金曜の夜だけ。


 関係が始まったのは八ヶ月前。


 私が働くバーに、彼が客として来たのがきっかけだった。


「君、何歳?」

「23です」

「若いね。俺の半分以下だ」


 56歳。私の父より年上。でも、その大人の余裕と、危険な香りに惹かれた。


 三回目に来た時、彼は言った。


「金曜の夜だけ、会わない?」


 意味は分かっていた。


 左手の薬指には、プラチナの指輪。


 既婚者。


 断るべきだった。でも、月30万の生活費と、ブランド物のプレゼントに目がくらんだ。


 いや、それは言い訳。


 本当は、彼の孤独な目に惹かれた。


「金曜だけなら」


 そうして始まった、週一回の逢瀬。


 ルールは簡単。

 金曜の夜だけ。

 外では会わない。

 個人的な話はしない。

 未来の話はしない。


 最初は守れていた。


 でも、人の心はそんなに都合よくできていない。


 ベッドの中で、彼はぽつりぽつりと話し始めた。


 仕事のストレス。部下への不満。そして、家庭のこと。


「妻とは15年前から会話がない」

「子供も独立した」

「家に帰っても、誰も待っていない」


 可哀想、なんて思ってはいけない。


 彼には帰る場所がある。私は金曜だけの女。


 でも、気づけば彼の好きな料理を覚え、好みの下着を選び、彼が喜ぶ会話を心がけていた。


 ある金曜、彼が言った。


「来週、出張なんだ」


 そう、と答えながら、寂しさを感じている自分に気づいた。


 たった一週間会えないだけなのに。


「再来週を楽しみにしてて」


 彼はティファニーの箱を渡してきた。


 ネックレス。


「綺麗だ」


 鏡の前で、彼がネックレスをつけてくれる。


 でも、金曜の夜しかつけられないアクセサリーに、何の意味があるんだろう。


 半年が過ぎた頃、私は間違いを犯した。


 土曜の昼、彼を街で見かけてしまった。


 隣には、上品な女性。奥さんだ。


 二人は仲良さそうに、デパートで買い物をしていた。


「15年会話がない」は嘘だった。


 普通に、夫婦をしていた。


 その夜、泣いた。


 何を期待していたんだろう。


 彼が本当に不幸で、いつか私を選んでくれるとでも?


 バカだ。


 次の金曜、彼に聞いた。


「奥さんとは本当に上手くいってないの?」


 彼の顔が曇った。


「その話はしない約束だろう」

「でも」

「君とは楽しい時間を過ごしたいんだ。面倒な話は無しで」


 面倒な話。


 私の気持ちは、面倒な話。


 分かっていたはずなのに、傷ついた。


 それから、少しずつ関係がぎくしゃくし始めた。


 私が未来の話をしようとすると、彼は話題を変える。


 私が「好き」と言うと、彼は笑ってごまかす。


 私が泣くと、彼はため息をつく。


「君は若いんだから、もっと良い男を見つけなさい」


 突き放すような言葉。


 でも、金曜になると連絡してくる。


 都合がいい。


 私は彼にとって、都合のいい女。


 分かっているのに、離れられない。


 ある金曜、彼はいつものホテルに来なかった。


 連絡もない。


 土曜の朝、ニュースを見て理由が分かった。


 彼の会社で大きなトラブルがあり、役員として対応に追われているらしい。


 心配になって、思わずLINEを送った。


『大丈夫ですか?』


 既読はついたが、返信はない。


 一週間後、やっと彼から連絡が来た。


『今日は行けない。来月まで難しい』


 仕事が理由なのは分かる。


 でも、一言の温かい言葉もない。


 ただの連絡事項。


 私は何なんだろう。


 一ヶ月後、久しぶりに会った彼は疲れ切っていた。


「大変だったね」


 労いの言葉をかけても、彼は曖昧に頷くだけ。


 ベッドでも、彼は上の空だった。


 終わった後、彼は天井を見つめながら言った。


「もう、これで最後にしよう」


 心臓が止まりそうになった。


「なんで?」

「疲れた」

「私といると疲れるの?」

「そうじゃない。この関係に」


 彼は起き上がって、財布から札束を取り出した。


「これで終わりにしよう」


 100万円。


 手切れ金。


「お金じゃない」

「じゃあ何だ」

「私は、藤原さんが――」

「好きだと?それは困る」


 冷たい声だった。


「最初に言っただろう。これはそういう関係じゃない」

「でも、八ヶ月も」

「契約違反だ」


 契約。


 そうか、これは契約だったんだ。


 金曜の夜を提供する契約。


 心は含まれていない。


「君はまだ若い。やり直せる」

「藤原さんは?」

「俺は家族の元に戻る」


 やっぱり、奥さんを選ぶんだ。


 当たり前だ。


 23歳の小娘より、30年連れ添った妻。


「今までありがとう」


 彼はそう言って、背を向けた。


「待って」

「もう来ないでくれ」


 ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。


 部屋に一人残された私は、床に散らばった札束を見つめた。


 八ヶ月の値段。


 私の気持ちの値段。


 拾い集めて、バッグに詰めた。


 プライド?そんなもの、最初から無かった。


 マンションを出て、夜の街を歩いた。


 カップルたちが楽しそうに歩いている。


 堂々と手を繋いで、人前でキスをして。


 私には、それが許されなかった。


 金曜の夜だけの関係。


 影の女。


 不倫相手。


 最低な女。


 分かってる。


 でも、あの八ヶ月は本物だった。


 少なくとも、私にとっては。


 スマホを取り出して、彼との写真を見る。


 一枚もない。


 写真を撮ることも、契約違反だったから。


 思い出さえ、形に残せない。


 バーに辞表を出した。


 彼と出会った場所には、もういたくない。


 手切れ金で、小さな部屋を借りた。


 新しい仕事も見つけた。


 でも、金曜の夜になると、彼を思い出す。


 今頃、奥さんと夕食を食べているのかな。


 それとも、新しい金曜の女を見つけたのかな。


 どちらでもいい。


 私には関係ない。


 契約は終わった。


 でも、心は契約通りにはいかない。


 今でも、彼を待っている。


 金曜の夜が来るたびに。


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