蔵書031『勘違い』
秋の長雨が続く、月曜日の放課後。
図書室のカウンター席で、私は返却された本に黙々とフィルムを貼っていた。雨音が、静かなこの場所に優しく響いている。
この、本の匂いと雨の匂いが混じり合う空間が、私は好きだった。
そして、もう一つ。
毎週月曜日の、この時間にだけ訪れるささやかな奇跡。
カラン、とドアベルが鳴る。来た。心臓が、きゅっと小さく音を立てるのを、私は誰にも気づかれないように必死に平静を装った。
入ってきたのは、別のクラスの高木くんだった。
彼はいつも一人で、のんびり歴史小説の棚へ向かう。長身で、少し猫背気味。あまり笑わないけれど、本を選ぶその横顔はとても知的で、綺麗だと思った。
高木くんがカウンターに本を差し出すほんの数十秒だけが、私にとって、一週間分のエネルギーをくれる大切な時間だった。
「お願いします」
「……はい」
クラスも違う、接点もない。交わす言葉は、いつも二言だけ。
でも私にとっては、それで十分だった。
小さな奇跡にほんの少しの変化が訪れたのは、先週の月曜日のことだった。
雨が降っていた。図書室の仕事を終え、昇降口に向かうと、私は自分が傘を持ってきていないことに気づいた。天気予報を見ていたはずなのに、すっかり忘れていた。どうしようか、と途方に暮れて、私は下駄箱の前で立ち尽くしていた。
そんな時だった。
「……これ」
不意に、背後から声がした。振り返ると、そこにいたのは高木くんだった。彼は無言で、自分の持っていた黒い折りたたみ傘を私にすっと差し出した。
「え……?」
「俺、家、近いから」
それだけ言って、彼は私の返事を待たずに、制服の鞄を頭の上に掲げて雨の中へと走り去ってしまった。
一人、昇降口に残された私は、手の中にあるまだ彼の温もりが残る傘を握りしめ、その場から動けなかった。
その日から、私の世界は色を変えた。
彼が私に傘を貸してくれた。それは、ただの親切なんかじゃない。きっと彼も、毎週会う私のことを少しは意識してくれていたんだ。そうに違いない。
廊下ですれ違う時、目が合ったような気がした。体育の授業で、グラウンドの向こうに彼の姿を見つけると、胸が高鳴った。彼の些細な行動すべてが、私への特別な好意のサインだと、信じて疑わなかった。
返却期限が過ぎた黒い折りたたみ傘は、私の部屋の机の上で宝物のように鎮座していた。これを返してしまったら、彼との唯一の繋がりが消えてしまう。そんな気がして、返すのが少しだけ、怖かった。
そして今日。
私は意を決して、彼の傘を持って学校に来た。いつまでもこのままじゃいけない。この傘を返す時にちゃんとお礼を言って、「ありがとう」って、初めて笑顔を見せるんだ。それが私たちの物語の、本当の始まりになる。
放課後の図書室。
いつものように、彼は来た。でも、今日の私はカウンターの向こうで待っているだけじゃいけない。
彼が本を選んでいる隙に、私はこっそりカウンターを出て、彼の元へ向かった。心臓が、今にも口から飛び出しそうだった。
「……あの、高木くん」
私の声に、彼の肩がびくりと揺れる。ゆっくりと振り返った彼の顔は、少しだけ驚いているようだった。
「先週は、ありがとう。傘……」
鞄から折りたたみ傘を取り出して差し出した、その時だった。
「あ、高木くーん! やっぱりここにいた!」
図書室の入り口から、明るい声が響いた。
声の主は、私と同じクラスの佐藤さんだった。いつも友達に囲まれている、人気者の女の子。彼女が、どうしてここに?
佐藤さんは私たちの元へ駆け寄ると、手に持っていた可愛らしい花柄の袋を高木くんに手渡した。
「この間は傘、ありがとね! おかげで濡れずに済んだよ。これ、お礼のクッキー!」
高木くんは少しだけ照れたように「あ、うん」と、それを受け取った。
その光景を、私はただ、呆然と見つめていた。
私の手の中にある、黒い傘。
佐藤さんの手から彼に渡された、クッキーの袋。
……そうだよね。
そういうことだったのか。
彼は、私だけが特別だったわけじゃなかったんだ。
困っている人を放っておけない、誰にでも優しいだけの人だったんだ。
雨の日に、傘を忘れた子に自分の傘を貸してあげる。それは彼にとって、当たり前の、何でもない親切の一つに過ぎなかった。
私が勝手に舞い上がって、勘違いして、一人で物語を作り上げていただけ。
「……ごめん、私も、これ……」
私はほとんど無意識に、持っていた黒い傘を彼に押し付けるように渡した。
「……ありがとう」
高木くんは、私の顔を見て小さくそう言った。いつもと同じ、図書委員と利用者の、事務的な響き。
後の記憶は、あまりない。
どうやって自分の教室に戻ったのか、どうやって家に帰ったのか。
気づけば私は、自分の部屋のベッドの上で制服のまま横たわっていた。
窓の外は、もう真っ暗だった。
静かな部屋に、ぽつり、ぽつりと、雨音が響き始める。
また、雨が降ってきた。
でももう、雨の日の図書室を、特別な場所だなんて思えないだろう。
私の、たった一人で作り上げた脆い恋物語は、誰にも知られることなく、静かな雨音の中に、溶けて消えていった。




