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失恋図書館  作者: N.H
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蔵書003『晴れますように』

 夕暮れのグラウンドに吹く風は、まだ夏の匂いを残しているのに、私の胸の奥だけが早くも秋のように冷えていた。


 放課後のチャイムが鳴り終わるのと入れ替わるように、私は校舎裏の自転車置き場へ駆け込む。そこは、誰もが帰り支度に忙しくて、ふとした影に気づかない場所。私の涙の逃げ場だった。


 ハンドルに額を押し当てると、金属の冷たさが頬にじんわり広がる。まるで「ほら、落ち着いて」と言われているみたいにひやりとして、でも余計に涙がこぼれた。


 好きになったのは、ふいに差し出された日傘だった。二年の五月、強い日差しの下で部活紹介のビラを配っていた私に、運動部のジャージ姿の彼——篠原悠斗が「顔、真っ赤だよ」と傘を貸してくれた。汗で前髪が額に貼りついて、情けないと思ったその瞬間に、私は救われてしまったのだ。


 風でビラが飛んだときも、彼は笑いながら一緒に拾ってくれた。体育会系なのに指がとても丁寧で、紙を折り目ひとつつけずに渡してくれた。


 たったそれだけで嬉しかった私は、きっと最初から単純だったのだと思う。


 それから毎朝、昇降口で顔を合わせるたびに「おはよう」と言い合った。放課後の部活帰り、校門までの短い距離を並んで歩くときは、互いの鞄が何度もぶつかった。それだけで胸が波打って、眠れなくなる夜が増えていった。


 夏休み前、私は誕生日に小さなキーホルダーをもらった。雲形のアクリルに、青いインクで「晴れますように」と印字されたもの。


「試合の日、雨が降ると大変だからさ。お守りみたいなもん」


 さらりと言われ、声が震えそうになるのを抑えてお礼を言った。あとで包装を開けたら、雲の裏に小さな字で「朝霧さんも晴れますように」と書いてあった。私の苗字を添えて。世界でいちばん綺麗な文字に見えた。


 だけど、どこかで薄々感じていた。彼が廊下で話すときに向ける本物の笑顔は、いつも別の誰かに向いていることを。


 三者面談の帰り道、ガラス窓に映った彼の視線の先には、軽音部のギターケースを抱えた女子——神崎紗世先輩がいた。先輩が弦の話をするときのきらきらした横顔を、彼は知らないうちに追っていた。私はそれを、一歩後ろから黙って見ていただけだった。


 秋祭りのポスターが張り出された九月のある日、風が強くて、私のスカートの裾が翻った。ポスターのテープが剥がれてはためく音にまぎれて、悠斗がぽつりとこぼした。


「オレ、文化祭で告白しようと思ってる人がいる」


 指先が一瞬で冷えた。ポスターの赤い文字が歪んで見えた。「誰に?」と聞けなかった。聞いてしまったら、取り返しがつかなくなる気がした。代わりに「そうなんだ」とだけ言った。声は裏返って、笑ってごまかした。彼は気づかなかった。


 文化祭当日。


 軽音部のライブで最後に歌われたのは、先輩が作ったバラードだった。伴奏の終わりと同時にステージ袖から走り出た悠斗が、マイクを掴んで先輩の名前を呼ぶ光景を、私は人垣のいちばん後ろから見ていた。


 観客の歓声で胸の鼓動がかき消える。先輩が泣きながら頷き、体育館のライトが二人を包む。


 割れんばかりの拍手とスマホのフラッシュの中、私はポケットで丸めていた自分のメッセージカードを握りつぶした。


 そこには「好きです。あなたの晴れの日に、隣にいたい」とだけ書いてあった。インクが指ににじんで青く染まる。


 翌日から、私は悠斗を避けるようになった。昇降口の「おはよう」は別の友達に譲った。昼休みは図書室にこもり、帰りは裏門を使った。


 彼は何度もLINEをくれた。「話せる?」とか「心配だよ」とか。でも私は既読もつけなかった。音が鳴るたび、心臓が暴れて、既に割れた欠片がさらに細かく砕ける気がしたから。


 一週間後の放課後、裏門で彼に腕を掴まれた。


「朝霧、ずっと避けてるだろ」


 顔を上げられず、「用事あるから」と振り払った。


「オレ、何かした?」


 その言葉に喉がひゅっと詰まった。知らないままでいてほしかった。けれど、涙が勝手に溢れてしまった。


「何でもない。早く帰って」

「泣いてるじゃん。言ってくれなきゃ分からないよ」


 分からないほうがよかった。私は背を向けて走った。彼が追いかけなかったのは、足音で分かった。


 夜、ベランダで空を見上げた。プレゼントの雲形キーホルダーを握り締める。灯りのない中で、青いインクの文字が見えるはずもないのに、心のどこかでまだ願っていた。「晴れますように」を自分に向けてもらえる奇跡を。


 体育祭が終わった頃、教室に先輩が花束を抱えて挨拶に来た。「来年からは遠距離になっちゃうけど、篠原君が支えてくれるって言うので」拍手が巻き起こり、私は机の下で拳を握った。掌が爪で痛いほどだった。


 その日の帰り道、川沿いの土手で風に吹かれながら、私はスマホに長いメッセージを書いた。


 途中で涙で滲み、言葉が消えた。送信を押せず、画面を閉じた。そのままポケットにしまい、足元の小石を蹴った。


 跳ねた石が水面に輪を描く。その波紋がやがて消えるように、私の気持ちも消えてくれたらいいのに。


 冬が来る前に私は体重を四キロ落とした。頬骨が浮き、制服の袖口が余る。先生は「無理なダイエットはだめ」と言ったけれど、これは拒食じゃない。ただ朝が怖くて食べられないだけ。


 家で母が差し出す温かい雑炊の湯気が、遠い景色のように揺れて見える。スプーンを持つ手が震え、口に運ぶまでに冷めてしまう。


 母は心配そうに眉を寄せる。でも私は「平気だよ」と笑った。笑うたび、頬の筋肉が攣った。


 十二月の半ば、風花が舞った帰り道で、悠斗と鉢合わせた。川沿いの遊歩道、街灯が点る前の薄闇の中。


「久しぶり」


 彼はマフラーの端を指で弄びながら、かすかな笑みを向けた。


「うん」

 声が掠れた。


「──聞かせてほしかった。避ける理由」


 私は深呼吸した。冷たい空気が肺を刺す。


「好きだったんだよ、ずっと。初めて傘を貸してくれたときから」


 言葉が白い息と混ざって空に溶けた。


 彼は目を大きく見開いた。一歩近づいた靴が小石を踏む音がした。


「気づけなくて、ごめん」

「謝らないで。私が勝手に好きになって、勝手に終わらせただけ」

「でも、朝霧が苦しいなら──」

「苦しいよ。でも、あなたが幸せなら、それでいいって思いたいんだよ」


 涙が頬を伝い、凍えた風がそれを奪っていく。彼の手が伸びかけて止まった。背後の川面に街の灯りが揺れ、その光が二人を照らした。


 彼は静かに首を振った。「朝霧は友達として大事だ。それは変わらない」


 私は笑った。「それがいちばん残酷なんだよ」


 帰宅後、机に向かった。震える指で便箋を取り出し、インクの青いペンを選ぶ。雲の裏に書かれていた文字と同じ色。


『悠斗へ

 私はあなたを好きになって、沢山泣いて、でも同じくらい笑いました。

 あなたの幸せを願えるくらいには、大人になれたと思います。

 だから、もう大丈夫。ありがとう。さようなら。』


 封筒に詰め、ポストへ向かった。消印が押される頃には、雪が降るかもしれない。青いインクは滲まずに届けられるだろうか。


 翌朝。白い息を吐きながら登校すると、校門前に悠斗が立っていた。手には私の手紙。まだ開けられていない封が風に揺れている。


「渡しそびれてたよ」


 私は言った。


「直接、読んでいい?」


 私は頷いた。


 彼は丁寧に封を開き、便箋を目で追った。読み終えると、深く息を吐き、私に手紙を返さず、そのまま胸に当てた。


「大切にする」


 私はかすかに笑った。「晴れますように、って書けばよかったかな」


 彼は涙ぐみながら笑った。


「もう晴れてるよ」


 それが、私たちの最後の会話だった。


 次の春、彼は先輩と同じ大学へ。私は別の町の学校へ進んだ。


 新しい制服、新しい駅、名前を知らない街路樹。その下を歩きながら、スマホのキーホルダーが光を弾く。雲形のアクリルの裏には、まだあの文字がある。


『朝霧さんも晴れますように』


 失恋の痛みは、薄紙を一枚ずつ剥がすようにしか治らない。


 だけど、剥がし終えたあとの私の胸には、確かに青空が広がっている。あの日、彼がくれた小さな願いが、今も私を照らしている。


 叶わなかった恋。それでも、本気で誰かを想えた季節だけは嘘じゃない。


 振り返るたび苦しくても、私はきっと、この空を見上げて歩いていく。

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