蔵書027『期間限定の恋』
川瀬先生を好きになったのは、いつだっただろう。
高校二年の春、紫陽花が彩り始めた頃だったか。それとも、国語の授業で先生が朗読する夏目漱石の『こころ』の声の響きに、心を奪われた夏だったか。
気づけば、私の高校生活は、担任である川瀬恭平先生を中心に回っていた。
先生は、特別格好いいわけじゃない。少し癖のある髪に、いつも同じような紺色のジャケット。時々、慌ててチョークを落としてはにかむ、少し不器用な人。
でも、教壇に立ち、私たちの国の文学について熱っぽく語る時の、あの真摯な瞳が、声が、私はどうしようもなく好きだった。
学級委員だった私は、日誌を提出したり、クラスの連絡事項を伝えたりと、先生と話す機会が他の生徒より少しだけ多かった。
放課後の職員室前の廊下。西日が差し込み、海の匂いを乗せた風が吹き抜けるその場所での、ほんの数分の会話。
それが、私の青春のすべてだった。
「藤沢さん、いつもありがとう。君が委員長で助かるよ」
そう言って先生がふと見せる、少しだけ気の抜けた優しい笑顔。私だけに向けられたわけではない、ただの「生徒」に向けられた労いの言葉。
そんなことは、痛いほどわかっている。それでも、私の心臓は、たったそれだけで狂ったように高鳴った。
三年の秋、文化祭の準備で遅くなった日。沈む夕日が教室を茜色に染めていた。
「先生は、どうして教師になったんですか?」
不意に、ずっと聞きたかったことを尋ねてしまった。先生は少し驚いた顔をして、でもすぐに、窓の外で舞い散る枯葉を見ながら、ぽつりぽつりと話してくれた。
「……誰かの人生の、ほんの一瞬でもいいから、何か大切なものを渡せる大人になりたかった、かな」
そう語る先生の横顔は、いつもよりずっと大人びて見えて、私の知らない時間を生きている人なのだと、改めて思い知らされた。
先生と私との間には、教壇から学習机までの、たった数メートルの距離以上に、決して越えられない時間が横たわっている。
この想いは、墓場まで持っていく。絶対に伝えない。
先生を困らせたくない。この穏やかな関係を、私の我儘で壊したくない。
卒業までの残り時間、ただの「真面目な学級委員」として、先生の記憶の片隅に、ほんの少しでも残れたら。それだけで、十分すぎるほど幸せだ。
時は無情に流れ、やがて卒業式の日がやってきた。
体育館での厳かな式典。校長先生の長い祝辞も、在校生の送辞も、ほとんど耳に入ってこない。
ただ、これが終われば、もう私はここの「生徒」ではなくなるという事実だけが、重くのしかかっていた。
最後のホームルーム。
先生が、一人ひとりの名前を呼び、卒業証書を手渡していく。ついに、私の番が来た。
「藤沢円香さん」
「はい」
震える声で返事をし、教壇の前に立つ。先生と、こんなに近くで向き合うのは、これが最後かもしれない。
「三年間、よく頑張ったな。卒業、おめでとう」
先生は、いつもの優しい笑顔だった。その瞳に映る私は、きっと、他の三十五人の生徒と何も変わらない、ただの「卒業生」の一人だ。
「……先生、三年間、本当に、ありがとうございました」
「好きでした」という言葉が、喉の奥で悲鳴を上げた。でも、唇からこぼれ落ちたのは、当たり障りのない、感謝の言葉だけ。
それでいい。これが、私の恋の締めくくり方だ。
ホームルームが終わり、生徒たちが最後の別れを惜しんで騒がしい教室。
私は、自分の机に突っ伏したまま動けなかった。友達が「一緒に写真撮ろうよ!」と呼びに来てくれる声も、どこか遠くに聞こえる。
もう、ここに来る理由も、先生に会う口実も、何一つなくなってしまった。
明日から、私は「川瀬先生の生徒」ではなくなる。
先生が淹れてくれる少し苦いお茶も、黒板に書かれる美しい文字も、私の名前を呼ぶあの声も、全部が思い出に変わっていく。
式の後、校門で先生が卒業生たちに囲まれているのを、少し離れた場所から眺めていた。伝えたくても伝えられなかった想いは、卒業証書の筒の中で、鉛のように重くなっていく。
「さようなら、先生」
誰にも聞こえない声で呟き、私は踵を返した。
最寄りの駅へと続く坂道を、一人でゆっくりと下っていく。
春の風はまだ少し冷たいけれど、日差しは柔らかく、新しい季節の訪れを告げていた。
告白なんて、できなくてよかったのだ。
この恋は、この高校で過ごした三年間だけの、期間限定の恋。
先生の記憶の中で、私はいつまでもただの「教え子」の一人として、時を止める。
それでいい。それがいいのだ。
胸はちぎれるほど痛いのに、不思議と涙は出なかった。
ただ、私だけの宝物として、この切ない片想いを抱きしめて、大人への一歩を、今、踏み出した。




