表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
失恋図書館  作者: N.H
22/31

蔵書022『幸せの証』


「……結菜。結婚してください」


 少し潤んだ瞳で、緊張した面持ちで、目の前の愛しい人が差し出した小さな箱。


 その中で、柔らかな光を弾くダイヤモンドの指輪。


 付き合って五年目の記念日。


 予約してくれたレストランでのディナーも、部屋に隠してくれていたサプライズの花束も、全部が映画のワンシーンみたいだった。


 そして、このプロポーズの言葉。


「……はい、喜んで」


 涙で声が震える。


 彼――隆弘が、安堵したように息を吐いて、私の左手の薬指に、そっと指輪をはめてくれた。


 冷たい金属の感触が、夢じゃないことを教えてくれる。


 ぴったりと収まった指輪が、これからの私たちの未来を約束してくれているようだった。


「改めて、結婚おめでとう、俺たち」

「おめでとう」


 ソファに並んで座り、シャンパンの入ったグラスをカチン、と軽く合わせた。シュワシュワと立ち上る金の泡が、私たちの未来みたいに、きらきらと輝いている。


 左手を何度も持ち上げては、薬指に光る指輪をうっとりと眺めてしまう。


「式場はね、絶対、私が勤めてるホテルで挙げたいな。最高のプラン、自分で考えるから」


 ウェディングプランナーである私の言葉に、建築士の隆弘が笑う。


「じゃあ、新居は俺が設計しないとな。結菜が一番使いやすいキッチンと、日当たりのいいリビングがある家」

「素敵! 猫も飼いたいな」

「いいな、それ」


 生まれてくる子供の名前は、なんて付けようか。新婚旅行は、どこに行こうか。


 語り合う未来は、どこまでも明るく、希望に満ちていた。


 すると、隆弘が「あ、そうだ」と立ち上がった。


「せっかくだし、もっといいチーズ買いに行こうかな。このシャンパンに合うやつ。すぐそこのコンビニにあるはず」

「えー、もういいじゃん」

「ダメダメ、記念日なんだから。すぐ戻る」


 そう言って、彼は私の額にキスを一つ落とすと、楽しそうに玄関へ向かった。


「すぐ帰ってきてね」


 背中に投げかけた私の声に、彼は振り向き、最高の笑顔で「もちろん」と答えた。


 一人になった部屋で、私はスマートフォンの画面をなぞっていた。


 さっきまで隆弘と話していた「家」のイメージに近い、お洒落な内装の写真を探す。左手の薬指が、ふとした瞬間にきらりと光るたびに、胸がいっぱいになる。


 この幸福が、永遠に続くのだと、信じて疑わなかった。


 その時だった。


 窓の外から、けたたましい音が聞こえてきた。


 救急車と、パトカーのサイレン。


 それも、一台や二台じゃない。


 音は、どんどん大きくなり、私たちのマンションのすぐ近くで止まったようだった。


「物騒だなぁ」


 少しだけ眉をひそめ、窓の外に目をやる。


 でも、すぐに興味を失って、またスマートフォンの画面に視線を戻した。


 だって、それは、私とは何の関係もない、どこか遠い世界の出来事のはずだから。


 でも。


 隆弘が、なかなか帰ってこない。


 コンビニは、マンションを出て、交差点を渡ったすぐそこにあるはずなのに。


 嫌な予感が、心臓を鷲掴みにする。


 私はコートも羽織らず、スリッパのまま部屋を飛び出した。エレベーターを待つ時間さえもどかしく、階段を駆け下りる。


 エントランスを出ると、すぐそこの交差点に、赤色灯の光が見えた。人だかりができている。


「すみません、通してください……!」


 野次馬の人垣をかき分けて、前に出る。


 そして、見てしまった。


 アスファルトの上に、無残に砕け散ったシャンパンの瓶と、ぐちゃぐちゃになったチーズが散らばっている。


 そして、さらに少し先。


 救急隊員たちが、白い布をかけられたストレッチャーを、救急車の中へと運び込んでいるところだった。


 嘘だ。


 嘘だ、嘘だ、嘘だ。


 声にならない叫びが、喉の奥で凍りつく。


 警察官の一人が持つ、透明なビニール袋の中身が見えた。


 見覚えのある、革の財布。


 そして、私がプレゼントした、パンダの絵が描かれた、スマートフォンのケース。


 警察官が、私に向かって何かを話している。事故の状況。トラックの不注意。おそらく、即死だったこと。


 でも、言葉は、まるで水の中にいるみたいに、ぼんやりとしか聞こえてこない。


 私は、その場にへたり込んだまま、動けなかった。


 周囲のざわめきも、クラクションの音も、何もかもが遠い。


 ただ、自分の左手の薬指に輝く指輪だけが、やけに重く、冷たく、現実のものとして、私の視界に焼き付いている。


 一時間前、私は世界で一番幸せだった。


 彼が設計した家に住んで、私がプランニングした結婚式を挙げる未来が、確かにそこにあった。


 未来は、今、この瞬間に、全て消えた。


 シャンパンの泡のように、儚く、跡形もなく。


 この指輪を、私はこれから、どうすればいいんだろう。


 外すことなんて、できない。


 でも、このまま着け続ける未来も、もう、どこにもない。


 明日も、明後日も、その先もずっと。


 私の左手の薬指は、幸せの証をつけたまま、永遠に、空っぽであり続けるのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ