蔵書022『幸せの証』
「……結菜。結婚してください」
少し潤んだ瞳で、緊張した面持ちで、目の前の愛しい人が差し出した小さな箱。
その中で、柔らかな光を弾くダイヤモンドの指輪。
付き合って五年目の記念日。
予約してくれたレストランでのディナーも、部屋に隠してくれていたサプライズの花束も、全部が映画のワンシーンみたいだった。
そして、このプロポーズの言葉。
「……はい、喜んで」
涙で声が震える。
彼――隆弘が、安堵したように息を吐いて、私の左手の薬指に、そっと指輪をはめてくれた。
冷たい金属の感触が、夢じゃないことを教えてくれる。
ぴったりと収まった指輪が、これからの私たちの未来を約束してくれているようだった。
「改めて、結婚おめでとう、俺たち」
「おめでとう」
ソファに並んで座り、シャンパンの入ったグラスをカチン、と軽く合わせた。シュワシュワと立ち上る金の泡が、私たちの未来みたいに、きらきらと輝いている。
左手を何度も持ち上げては、薬指に光る指輪をうっとりと眺めてしまう。
「式場はね、絶対、私が勤めてるホテルで挙げたいな。最高のプラン、自分で考えるから」
ウェディングプランナーである私の言葉に、建築士の隆弘が笑う。
「じゃあ、新居は俺が設計しないとな。結菜が一番使いやすいキッチンと、日当たりのいいリビングがある家」
「素敵! 猫も飼いたいな」
「いいな、それ」
生まれてくる子供の名前は、なんて付けようか。新婚旅行は、どこに行こうか。
語り合う未来は、どこまでも明るく、希望に満ちていた。
すると、隆弘が「あ、そうだ」と立ち上がった。
「せっかくだし、もっといいチーズ買いに行こうかな。このシャンパンに合うやつ。すぐそこのコンビニにあるはず」
「えー、もういいじゃん」
「ダメダメ、記念日なんだから。すぐ戻る」
そう言って、彼は私の額にキスを一つ落とすと、楽しそうに玄関へ向かった。
「すぐ帰ってきてね」
背中に投げかけた私の声に、彼は振り向き、最高の笑顔で「もちろん」と答えた。
一人になった部屋で、私はスマートフォンの画面をなぞっていた。
さっきまで隆弘と話していた「家」のイメージに近い、お洒落な内装の写真を探す。左手の薬指が、ふとした瞬間にきらりと光るたびに、胸がいっぱいになる。
この幸福が、永遠に続くのだと、信じて疑わなかった。
その時だった。
窓の外から、けたたましい音が聞こえてきた。
救急車と、パトカーのサイレン。
それも、一台や二台じゃない。
音は、どんどん大きくなり、私たちのマンションのすぐ近くで止まったようだった。
「物騒だなぁ」
少しだけ眉をひそめ、窓の外に目をやる。
でも、すぐに興味を失って、またスマートフォンの画面に視線を戻した。
だって、それは、私とは何の関係もない、どこか遠い世界の出来事のはずだから。
でも。
隆弘が、なかなか帰ってこない。
コンビニは、マンションを出て、交差点を渡ったすぐそこにあるはずなのに。
嫌な予感が、心臓を鷲掴みにする。
私はコートも羽織らず、スリッパのまま部屋を飛び出した。エレベーターを待つ時間さえもどかしく、階段を駆け下りる。
エントランスを出ると、すぐそこの交差点に、赤色灯の光が見えた。人だかりができている。
「すみません、通してください……!」
野次馬の人垣をかき分けて、前に出る。
そして、見てしまった。
アスファルトの上に、無残に砕け散ったシャンパンの瓶と、ぐちゃぐちゃになったチーズが散らばっている。
そして、さらに少し先。
救急隊員たちが、白い布をかけられたストレッチャーを、救急車の中へと運び込んでいるところだった。
嘘だ。
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
声にならない叫びが、喉の奥で凍りつく。
警察官の一人が持つ、透明なビニール袋の中身が見えた。
見覚えのある、革の財布。
そして、私がプレゼントした、パンダの絵が描かれた、スマートフォンのケース。
警察官が、私に向かって何かを話している。事故の状況。トラックの不注意。おそらく、即死だったこと。
でも、言葉は、まるで水の中にいるみたいに、ぼんやりとしか聞こえてこない。
私は、その場にへたり込んだまま、動けなかった。
周囲のざわめきも、クラクションの音も、何もかもが遠い。
ただ、自分の左手の薬指に輝く指輪だけが、やけに重く、冷たく、現実のものとして、私の視界に焼き付いている。
一時間前、私は世界で一番幸せだった。
彼が設計した家に住んで、私がプランニングした結婚式を挙げる未来が、確かにそこにあった。
未来は、今、この瞬間に、全て消えた。
シャンパンの泡のように、儚く、跡形もなく。
この指輪を、私はこれから、どうすればいいんだろう。
外すことなんて、できない。
でも、このまま着け続ける未来も、もう、どこにもない。
明日も、明後日も、その先もずっと。
私の左手の薬指は、幸せの証をつけたまま、永遠に、空っぽであり続けるのだ。