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失恋図書館  作者: N.H
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蔵書021『いつから?』


 ジュウ、と心地よい音がキッチンに響く。


 フライパンの上で、まん丸に成形されたハンバーグが、香ばしい匂いを立てながらふっくらと焼き上がっていく。


 付け合わせのニンジンとブロッコリーも完璧な茹で加減。ソースの味見も、我ながら上出来だ。


 テーブルには、お揃いのランチョンマットと、圭吾が好きだと言っていたブルーのプレートを並べる。グラスに注いだ麦茶の表面に、水滴がじんわりと滲んでいた。


 完璧な水曜日の夜。

 のはずだった。


 テーブルの上に置いた私のスマートフォンが、一度だけ短く震える。


 弾かれたように画面を覗き込むと、待ちわびた名前からのメッセージが表示されていた。


『ごめん、今日も遅くなる。先に食べてて』


 たったそれだけ。


 謝罪のスタンプも、何時に帰れるかの目安も、何もない。まるで業務連絡のような、温度のない活字の羅列。


 さっきまでキッチンを包んでいた幸福な空気は、一瞬にして色を失い、冷たく澱んでいく。


 テーブルの上に並べられた二人分の夕食が、急に滑稽な作り物に見えた。


 わかっていた。本当は、心のどこかで、こうなることはわかっていた。


 最近の太一は、ずっとこうだから。


 ラップをかけたハンバーグは、もうすっかり冷たくなってしまった。


 テレビのバラエティ番組が、わざとらしい効果音と共に、楽しそうな笑い声をリビングに響かせている。


 その明るさが、静まり返ったこの部屋では、ひどく場違いに聞こえた。


 いつからだろう。私たちが、こんな風に会話のない時間を過ごすようになったのは。


 同棲を始めた頃は、くだらないことで日が暮れるまで笑い合っていた。二人でいるだけで、世界は完璧だった。


 手狭なこの1LDKのアパートも、幸せを詰め込んだ宝箱みたいに思えたのに。


 今は、ただ息苦しいだけの箱だ。


 ソファの向かい側、太一の定位置に目をやる。


 クッションが少しだけへこんでいる。


 彼がここに最後に座ったのは、いつだっただろう。思い出せない。


 一緒に暮らしているのに、彼のことが何もわからない。彼が今、どこで、誰と、何をしているのか。どんな顔で笑って、どんな話をしているのか。


 私が知っているのは、もうずっと前の、過去の彼だけ。


 ふと、充電器に繋がれたままの太一のタブレット端末が目に入る。


 いつもなら見ない。


 見てはいけないと、自分に言い聞かせている。


 でも、今日は何かに憑かれたように、その画面に手が伸びた。


 電源ボタンを押すと、待ち受け画面がふわりと浮かび上がる。


 息が、止まった。


 そこに映っていたのは、私が見たこともない、海辺のカフェの写真だった。夕焼けに染まる空と、テーブルの上に置かれた二つのカクテルグラス。


 私たちが最後に二人で旅行に行ったのは、去年の夏。それは、山の写真だったはずだ。


 いつの間に、変えたの?


 この綺麗な夕焼けを、あなたは誰と見たの?


 心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。黒い疑念が、墨汁を水に落としたように、じわじわと心を侵食していく。


 見なければよかった。知りたくなかった。


 私は慌てて画面を消し、タブレットを元の場所に戻した。


 けれど、一度見てしまった光景は、瞼の裏に焼き付いて、もう剥がすことはできなかった。


 待ちくたびれて、もう何も考えたくなくて、私は先にシャワーを浴びることにした。


 熱いお湯を浴びれば、この凍えそうな心の痛みも、少しは洗い流せるかもしれない。


 脱衣所で、洗濯カゴに無造作に放り込まれた圭吾のYシャツを手に取る。


 明日の朝、洗濯機を回して、アイロンをかけて、また彼を送り出す。


 それが、私の当たり前。これからも続くはずの、日常。


 そう思おうとした、瞬間だった。


 彼の白いYシャツの襟元。そこに、ほんの微かに、けれど見間違いようもなく、肌色と違う、明るい色の染みが付着しているのを見つけてしまった。


 化粧品だ。私が使っているのとは違うメーカーの、きらきらとしたパールが入ったファンデーションの色。


 指先から、急速に血の気が引いていくのがわかった。


 シャツを握りしめたまま、その場に立ち尽くす。バスルームから聞こえる換気扇の低いモーター音だけが、やけに大きく耳に響いた。


 バスルームから出ると、玄関のほうで微かな物音がした。リビングのドアが開いて、影が動く。


 太一だ。


 でも、彼はいつものように「ただいま」と言ってリビングに入ってくることはなく、そのまま寝室の方へ消えていった。


 胸騒ぎがする。濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、私も寝室へ向かう。


 ドアを開けた先で見た光景に、私は言葉を失った。


 太一が、クローゼットから自分の服を取り出し、床に広げたボストンバッグに、黙々と詰め込んでいた。


「……何、してるの?」


 やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。


 私の声に、太一の肩がびくりと跳ねる。


 彼はゆっくりとこちらを振り返った。


 その顔には、罪悪感でも、悲しみでもなく、ただ何かから解放されたような、空っぽの表情が浮かんでいた。


「……沙耶。起きてたんだ」


「何してるのって、聞いてるの」


「……見て、わかんないかな」


 彼の声は、ひどく冷たい。まるで、赤の他人に向けるような声色だった。


「……ごめん。もう、無理なんだ」

「……なにが」

「全部だよ。お前と一緒にいるのも、ここに帰ってくるのも……俺、他に、大切な人ができた」


 大切な人。


 彼の言葉が、鋭いナイフになって私の胸を貫いた。


 Yシャツの染み。タブレットの待ち受け。全てのパズルが、最悪の形で組み合わさっていく。

 何も言えなかった。


 どうして、とか、いつから、とか、聞きたいことは山ほどあるはずなのに、喉が凍りついて、一つの言葉も出てこない。


 太一は、そんな私を一瞥すると、荷造りを再開した。まるで、私がそこにいないかのように。


 荷物をまとめ終えた太一は、ボストンバッグを肩にかけると、一度も私の方を見ずに部屋を出て行こうとした。


 待って。行かないで。


 そう叫びたかったのに、唇はわなわなと震えるだけで、音になることはなかった。


 ガチャリ、と無機質な音を立てて、玄関のドアが閉まる。


 エンジン音。そして、走り去っていくタイヤの音。


 それが完全に聞こえなくなると、世界から全ての音が消え去ったかのような、完全な静寂が訪れた。


 二人で選んだカーテン。二人で組み立てた本棚。二人で笑い合ったソファ。


 全てが、色褪せて見える。


 ふらふらと、吸い寄せられるようにリビングに戻る。


 テーブルの上には、手付かずのまま冷え切った、二人分のハンバーグがぽつんと置かれていた。


 その、私のプレートの隣に。


 一枚だけ、四つ折りにされたメモ用紙が置かれているのに、私は気づいた。


 震える指で、それを開く。


 そこには、走り書きのような、少し震えた文字で、たった一言だけ。


『ごめん』


 手紙を握りしめたまま、私はゆっくりと崩れ落ちた。


 涙は出なかった。叫び声も、嗚咽も、何も。


 ただ、心臓のあたりに、巨大な氷の塊ができて、そこから全身が急速に凍りついていくような感覚だけがあった。


 これから、どうすればいいんだろう。


 一人で迎える、この長い夜の先で。


 私は、どうやって、息をすればいいんだろう。

 答えなんてない。


 救いも、光も、どこにもない。


 ただ、終わりのない静寂の中で、私は身動き一つできずに、震え続けるだけだった。


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