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失恋図書館  作者: N.H
20/38

蔵書020『ラベンダーの花言葉』


 しとしとと降り続く雨が、窓ガラスを静かに濡らしている。


 私はマグカップを片手に、ベランダに置かれたままの、小さな鉢植えを眺めていた。


 カラカラに乾いた土から突き出た、細く茶色い茎。


 かつて、そこには風に揺れるたびに心を落ち着かせる香りを放つ、紫色の可憐な花が咲いていた。


「植物を枯らすのは、愛情が足りないからじゃない。関心の向け方を、間違えているだけだよ」


 いつか、あの人が教えてくれた言葉が、雨音に混じって蘇る。


 愛情なら、きっとあった。


 でも、私の関心の向け方は、やっぱり間違っていたのかもしれない。


 このラベンダーに対しても、そして、あの人に対しても。


 デザイン事務所での仕事は、好きだけど、心をすり減らすことの連続だった。締切に追われ、クライアントの修正依頼に振り回され、気がつけば終電間近。


 そんな灰色の毎日の中で、あの場所だけが、私の唯一の彩りだった。


 帰り道から一本だけ脇道に入った、路地の突き当たり。そこに、彼のお店はひっそりとあった。


『フラワーショップ・ミナト』


 大きなガラス窓の向こうに、色とりどりの花が宝石のように並べられている。


 初めてその店を見つけた時、まるで異世界への入り口みたいだと思った。


「いらっしゃいませ」


 低い、少しだけ掠れた声。


 店主の湊さんは、私より五つくらい年上だろうか。


 ぶっきらぼうな表情で、黙々と花の手入れをしている彼に、最初は少し気圧されていた。


 でも、花の前に立つと、彼の纏う空気がふわりと柔らかくなるのを、私は知っていた。


「あの、これ、なんていう花ですか?」

「それは、ブルースター。花言葉は『幸福な愛』」

「こっちは?」

「デルフィニウム。『あなたを幸せにします』って意味」


 彼が教えてくれる花言葉は、どれもきらきらしていて、少しだけ気恥ずかしい。


 仕事でささくれた心が、優しい魔法にかけられていくような、不思議な時間。


 彼と交わす短い会話が、疲れた私にとって何よりの処方箋になっていた。


 ある雨の日。


 いつもより少し早く会社を出られた私は、彼の店に立ち寄った。雨粒に濡れた店先の小さなハーブのコーナーで、ひときわ鮮やかな紫色のラベンダーが目に留まった。


「ラベンダー、好きなんですか?」

「あ、はい。香りが……落ち着くので」


 不意に声をかけられて、心臓が跳ねる。湊さんは私の隣に立つと、柔らかな葉先にそっと触れた。


「こいつは、イングリッシュラベンダー。比較的、日本の気候でも育てやすいですよ」

「そうなんですね……」

「ラベンダーの花言葉、知ってます?」

「え? えっと……」


 首を傾げる私に、彼は少しだけ口元を緩めて言った。


「『沈黙』。それと、『あなたを待っています』」


 その言葉が、なぜだか私の胸に深く突き刺さった。


『沈黙』


 湊さんへの想いを、誰にも言えずにいる私の心を見透かされたようだった。


『あなたを待っています』


 彼が私に振り向いてくれるのを、ただここで待ち続けている、臆病な私そのものだった。


「……これ、ください」


 ほとんど、衝動買いだった。


 このラベンダーを側に置けば、何か少し、勇気がもらえるような気がしたのだ。


 家に連れて帰ったラベンダーは、私の小さなベランダで元気に育った。


 朝、窓を開けるたびに風に乗って運ばれてくる優しい香りが、「今日も頑張れ」と背中を押してくれた。


 仕事が辛い日も、ラベンダーの香りがあれば乗り越えられた。湊さんとの繋がりが、この部屋にある。そう思うだけで、私は無敵になれた。


 季節が巡り、再び梅雨がやってきた頃。


 私の仕事は、かつてないほど忙しくなっていた。連日の残業と休日出勤。気がつけば、一ヶ月以上、彼の店に顔を出せていなかった。


 そして、その間に。


 ベランダのラベンダーは、少しずつ元気をなくしていった。最初は葉の色が褪せ、やがて紫色の花がぽろぽろと落ち始めた。


 忙しさを理由に、水やりを怠った日もあった。慌てて世話をしても、もう手遅れだった。


 ある日、仕事が早く終わった私は、新しいラベンダーを買いに行こうと、久しぶりに彼の店へ向かった。


 枯らしてしまった気まずさと、少しの期待を胸に。


 けれど、路地の突き当たりに見えた光景に、私は足を止めた。


 お店のシャッターが、固く閉ざされていたのだ。


 臨時休業かな。そう思って引き返した。


 でも、次の日も、その次の日も、シャッターは閉まったままだった。


 胸騒ぎがして、週末に改めて訪れると、冷たいシャッターに、一枚の白い紙が貼られているのに今更気がついた。


『閉店のお知らせ』


 その文字列が、うまく理解できなかった。


 震える足で近づき、そこに書かれた無機質な活字を目で追った。


『誠に勝手ながら、店主の都合により、先月末をもちまして閉店いたしました。長らくのご愛顧、心より感謝申し上げます。』


 頭が、真っ白になった。


 先月末って、いつ?

 

 私が仕事に忙殺されていた、あの頃?


 どうして? 何があったの?


 聞きたいことはたくさんあるのに、聞く相手はもう、どこにもいない。


 ざあっと、タイミング悪く雨が降り出す。


 傘なんて持っていない。


 あっという間に髪も服も濡れていくけれど、その場から一歩も動けなかった。


『いつか、北海道の富良野で、自分のラベンダー畑を持つのが夢なんです』


 そういえば、いつの日か湊さんがそんなことを言っていた。


 店の片隅に置かれた、美しいラベンダー畑の写真集を眺めながら。


 私は「素敵ですね」なんて、ありきたりな相槌を打っただけだったけれど。


「そっか……夢、叶えに、行ったんだ」


 呟いた声は、雨音に掻き消された。


 あの人は、次のステージに進んだのだ。


 私が、この小さな街で足踏みしている間に。


 一度も伝えられなかった、「好き」の二文字。


 言えないまま、言わないまま、ただ彼に会えるだけで満足していた。


 いつか、この関係が少しだけ前に進むかもしれないなんて、バカみたいな期待を抱きながら。


『あなたを待っています』。


 花言葉を言い訳に、私はただ、待っているだけだった。行動を起こす勇気もないくせに。


 恋が終わった、という実感すらなかった。だって、始まってさえいなかったのだから。


 ただ、私の日常から、大切な彩りがひとつ、音もなく消え去った。


 その事実だけが、冷たい雨のように、心を打ちつけていた。


 家に帰り着いた私は、ずぶ濡れのまま、ベランダに出た。


 雨に打たれる、枯れたラベンダーの鉢。


 もう、ここからあの優しい香りがすることはない。


 しばらく、花の亡骸を黙って見つめていた。


 そして、私は静かに決意すると、部屋に戻ってタオルで体を拭き、新しい服に着替えた。


 クローゼットの奥から、園芸用の小さなスコップと、前に買っておいた花の種が入った袋を取り出す。


 ベランダに戻り、私は枯れたラベンダーの茎を、そっと引き抜いた。


 ありがとう、ごめんね、と心の中で念じながら。


 硬くなった土をスコップで優しく耕し、新しい土を混ぜ込む。そして、買っておいたカモミールの種を、丁寧に蒔いた。


「さよなら、私の『沈黙』した恋」


 誰に聞かせるでもなく、私は囁いた。


 言えなかった言葉も、伝えられなかった想いも、全部この土に還そう。


 そして、新しい芽吹きのための、栄養にしよう。


 作業を終える頃には、いつの間にか雨は上がっていた。雲の切れ間から、柔らかな西日が差し込み、世界をオレンジ色に染め上げている。濡れた街が、きらきらと輝いていた。


 新しくなった鉢に、私はそっと水をやる。


 いつか、どこかであなたのラベンダー畑の噂を聞いたら。あるいは、旅行雑誌でその写真を見つけたら。


 静かに微笑むのだ。


 あなたの夢が叶ったことを、心から祝福しながら。


 ベランダに芽吹くであろう、新しい命と共に。


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