蔵書020『ラベンダーの花言葉』
しとしとと降り続く雨が、窓ガラスを静かに濡らしている。
私はマグカップを片手に、ベランダに置かれたままの、小さな鉢植えを眺めていた。
カラカラに乾いた土から突き出た、細く茶色い茎。
かつて、そこには風に揺れるたびに心を落ち着かせる香りを放つ、紫色の可憐な花が咲いていた。
「植物を枯らすのは、愛情が足りないからじゃない。関心の向け方を、間違えているだけだよ」
いつか、あの人が教えてくれた言葉が、雨音に混じって蘇る。
愛情なら、きっとあった。
でも、私の関心の向け方は、やっぱり間違っていたのかもしれない。
このラベンダーに対しても、そして、あの人に対しても。
デザイン事務所での仕事は、好きだけど、心をすり減らすことの連続だった。締切に追われ、クライアントの修正依頼に振り回され、気がつけば終電間近。
そんな灰色の毎日の中で、あの場所だけが、私の唯一の彩りだった。
帰り道から一本だけ脇道に入った、路地の突き当たり。そこに、彼のお店はひっそりとあった。
『フラワーショップ・ミナト』
大きなガラス窓の向こうに、色とりどりの花が宝石のように並べられている。
初めてその店を見つけた時、まるで異世界への入り口みたいだと思った。
「いらっしゃいませ」
低い、少しだけ掠れた声。
店主の湊さんは、私より五つくらい年上だろうか。
ぶっきらぼうな表情で、黙々と花の手入れをしている彼に、最初は少し気圧されていた。
でも、花の前に立つと、彼の纏う空気がふわりと柔らかくなるのを、私は知っていた。
「あの、これ、なんていう花ですか?」
「それは、ブルースター。花言葉は『幸福な愛』」
「こっちは?」
「デルフィニウム。『あなたを幸せにします』って意味」
彼が教えてくれる花言葉は、どれもきらきらしていて、少しだけ気恥ずかしい。
仕事でささくれた心が、優しい魔法にかけられていくような、不思議な時間。
彼と交わす短い会話が、疲れた私にとって何よりの処方箋になっていた。
ある雨の日。
いつもより少し早く会社を出られた私は、彼の店に立ち寄った。雨粒に濡れた店先の小さなハーブのコーナーで、ひときわ鮮やかな紫色のラベンダーが目に留まった。
「ラベンダー、好きなんですか?」
「あ、はい。香りが……落ち着くので」
不意に声をかけられて、心臓が跳ねる。湊さんは私の隣に立つと、柔らかな葉先にそっと触れた。
「こいつは、イングリッシュラベンダー。比較的、日本の気候でも育てやすいですよ」
「そうなんですね……」
「ラベンダーの花言葉、知ってます?」
「え? えっと……」
首を傾げる私に、彼は少しだけ口元を緩めて言った。
「『沈黙』。それと、『あなたを待っています』」
その言葉が、なぜだか私の胸に深く突き刺さった。
『沈黙』
湊さんへの想いを、誰にも言えずにいる私の心を見透かされたようだった。
『あなたを待っています』
彼が私に振り向いてくれるのを、ただここで待ち続けている、臆病な私そのものだった。
「……これ、ください」
ほとんど、衝動買いだった。
このラベンダーを側に置けば、何か少し、勇気がもらえるような気がしたのだ。
家に連れて帰ったラベンダーは、私の小さなベランダで元気に育った。
朝、窓を開けるたびに風に乗って運ばれてくる優しい香りが、「今日も頑張れ」と背中を押してくれた。
仕事が辛い日も、ラベンダーの香りがあれば乗り越えられた。湊さんとの繋がりが、この部屋にある。そう思うだけで、私は無敵になれた。
季節が巡り、再び梅雨がやってきた頃。
私の仕事は、かつてないほど忙しくなっていた。連日の残業と休日出勤。気がつけば、一ヶ月以上、彼の店に顔を出せていなかった。
そして、その間に。
ベランダのラベンダーは、少しずつ元気をなくしていった。最初は葉の色が褪せ、やがて紫色の花がぽろぽろと落ち始めた。
忙しさを理由に、水やりを怠った日もあった。慌てて世話をしても、もう手遅れだった。
ある日、仕事が早く終わった私は、新しいラベンダーを買いに行こうと、久しぶりに彼の店へ向かった。
枯らしてしまった気まずさと、少しの期待を胸に。
けれど、路地の突き当たりに見えた光景に、私は足を止めた。
お店のシャッターが、固く閉ざされていたのだ。
臨時休業かな。そう思って引き返した。
でも、次の日も、その次の日も、シャッターは閉まったままだった。
胸騒ぎがして、週末に改めて訪れると、冷たいシャッターに、一枚の白い紙が貼られているのに今更気がついた。
『閉店のお知らせ』
その文字列が、うまく理解できなかった。
震える足で近づき、そこに書かれた無機質な活字を目で追った。
『誠に勝手ながら、店主の都合により、先月末をもちまして閉店いたしました。長らくのご愛顧、心より感謝申し上げます。』
頭が、真っ白になった。
先月末って、いつ?
私が仕事に忙殺されていた、あの頃?
どうして? 何があったの?
聞きたいことはたくさんあるのに、聞く相手はもう、どこにもいない。
ざあっと、タイミング悪く雨が降り出す。
傘なんて持っていない。
あっという間に髪も服も濡れていくけれど、その場から一歩も動けなかった。
『いつか、北海道の富良野で、自分のラベンダー畑を持つのが夢なんです』
そういえば、いつの日か湊さんがそんなことを言っていた。
店の片隅に置かれた、美しいラベンダー畑の写真集を眺めながら。
私は「素敵ですね」なんて、ありきたりな相槌を打っただけだったけれど。
「そっか……夢、叶えに、行ったんだ」
呟いた声は、雨音に掻き消された。
あの人は、次のステージに進んだのだ。
私が、この小さな街で足踏みしている間に。
一度も伝えられなかった、「好き」の二文字。
言えないまま、言わないまま、ただ彼に会えるだけで満足していた。
いつか、この関係が少しだけ前に進むかもしれないなんて、バカみたいな期待を抱きながら。
『あなたを待っています』。
花言葉を言い訳に、私はただ、待っているだけだった。行動を起こす勇気もないくせに。
恋が終わった、という実感すらなかった。だって、始まってさえいなかったのだから。
ただ、私の日常から、大切な彩りがひとつ、音もなく消え去った。
その事実だけが、冷たい雨のように、心を打ちつけていた。
家に帰り着いた私は、ずぶ濡れのまま、ベランダに出た。
雨に打たれる、枯れたラベンダーの鉢。
もう、ここからあの優しい香りがすることはない。
しばらく、花の亡骸を黙って見つめていた。
そして、私は静かに決意すると、部屋に戻ってタオルで体を拭き、新しい服に着替えた。
クローゼットの奥から、園芸用の小さなスコップと、前に買っておいた花の種が入った袋を取り出す。
ベランダに戻り、私は枯れたラベンダーの茎を、そっと引き抜いた。
ありがとう、ごめんね、と心の中で念じながら。
硬くなった土をスコップで優しく耕し、新しい土を混ぜ込む。そして、買っておいたカモミールの種を、丁寧に蒔いた。
「さよなら、私の『沈黙』した恋」
誰に聞かせるでもなく、私は囁いた。
言えなかった言葉も、伝えられなかった想いも、全部この土に還そう。
そして、新しい芽吹きのための、栄養にしよう。
作業を終える頃には、いつの間にか雨は上がっていた。雲の切れ間から、柔らかな西日が差し込み、世界をオレンジ色に染め上げている。濡れた街が、きらきらと輝いていた。
新しくなった鉢に、私はそっと水をやる。
いつか、どこかであなたのラベンダー畑の噂を聞いたら。あるいは、旅行雑誌でその写真を見つけたら。
静かに微笑むのだ。
あなたの夢が叶ったことを、心から祝福しながら。
ベランダに芽吹くであろう、新しい命と共に。




