蔵書002『親友の彼』
恋に落ちた瞬間を、今でも鮮明に覚えている。
親友の茜が「彼氏紹介するね」と連れてきた彼。それが悠真だった。
笑った時にできる目尻の小さな皺。話す時に少し首を傾げる癖。静かな声で、でも熱く語る姿。全てが、一瞬で私の心を奪った。
最低だ。
親友の彼氏を好きになるなんて。
でも、止められなかった。
三人で遊ぶ機会が増えるたびに、私の気持ちは膨らんでいった。
映画を見に行った時、たまたま悠真が真ん中の席になった。暗闇の中、腕が触れるたびに心臓が跳ねた。茜は反対側で、ポップコーンを頬張りながら画面に夢中。私だけが、悠真の存在に全神経を集中させていた。
「今日の映画、どうだった?」
帰り道、悠真が聞いてきた。
「すごく良かった」
嘘。内容なんて全然覚えていない。
茜が「私は途中寝ちゃった」と笑う。悠真も楽しそうに笑う。その横顔を見ながら、私は偽物の笑顔を作った。
ある日、茜から相談を受けた。
「最近、悠真が冷たい気がする」
胸が痛んだ。
「どんな風に?」
「LINEの返信も遅いし、デートも減った」
茜の不安そうな顔を見て、罪悪感に押しつぶされそうになった。
私のせいじゃない。私は何もしていない。ただ、心の中で想っているだけ。
でも、もしかしたら、悠真は気づいているのかもしれない。私の視線に。私の気持ちに。
「大丈夫だよ、考えすぎじゃない?」
友達として、精一杯の励ましをした。
本当は、別れてほしいと思っている自分がいた。
最低だ。
クリスマスイブ、茜が泣きながら電話してきた。
「振られた」
悠真から別れを告げられたらしい。
「理由は?」
「好きじゃなくなったって」
茜の家に駆けつけて、朝まで一緒にいた。泣き続ける彼女の背中をさすりながら、心の奥で小さな希望が芽生えている自分に気づいた。
これでもう、悠真はフリーだ。
でも、すぐには動けない。親友として、茜を支えなければ。
一ヶ月が過ぎた。
茜は少しずつ元気を取り戻していた。
「もう吹っ切れた。新しい恋を探す!」
そう宣言した茜を見て、私は決めた。
悠真に連絡しよう。
震える指で、悠真のLINEを開いた。茜と付き合っていた頃に交換したまま、一度もメッセージを送ったことがない連絡先。
『お久しぶりです。元気にしてますか?』
既読がつくまで、三時間かかった。
『久しぶり。元気だよ』
短い返事。でも、返ってきた。
やり取りを重ねるうちに、二人で会うことになった。
「茜には内緒ね」
悠真がそう言った時、背徳感で胸がいっぱいになった。
カフェで向かい合って座る。茜とは違う、私だけの時間。
「実は、ずっと気になってた」
悠真の言葉に、心臓が止まりそうになった。
「茜と付き合ってる時から?」
「そう。だから、別れたんだ」
嬉しさと罪悪感が混ざり合う。
私のせいで、茜は振られた。
でも、悠真が選んだのは私。
その日から、私たちは密かに会うようになった。
茜には言えない。言えるわけがない。
「最近、楽しそうだね」
茜に言われて、ドキッとした。
「そう?」
「うん。いいことあった?」
「別に、何も」
嘘をつく自分が嫌だった。
でも、本当のことを言ったら、茜との友情は終わる。
二ヶ月後、ついにバレた。
街で悠真と手を繋いで歩いているところを、茜の友人に見られた。
その日の夜、茜から電話があった。
「本当なの?」
声が震えていた。
「茜、ごめん」
「いつから?」
「別れた後から」
嘘だ。気持ちはもっと前から。でも、それは言えない。
「最低」
茜の声が、怒りで震えた。
「親友だと思ってたのに」
「本当にごめん」
「謝らないで。もう二度と連絡してこないで」
電話が切れた。
10年来の親友を失った。
でも、悠真を手に入れた。
これで良かったんだ、と自分に言い聞かせた。
しかし、幸せは長く続かなかった。
付き合い始めて三ヶ月、悠真の態度が変わり始めた。
茜の時と同じ。
LINEの返信が遅くなり、デートの回数が減った。
「最近、冷たくない?」
聞いてみた。
「そんなことない」
でも、目が合わない。
ある日、悠真のスマホに通知が来た。女の名前。
「誰?」
「会社の後輩」
嫌な予感がした。
一週間後、悠真から別れを告げられた。
「好きな人ができた」
また同じ理由。
「その後輩?」
「…うん」
茜の時と全く同じパターン。
悠真は、いつも次の女性を見つけてから別れる。
茜も、私も、踏み台だった。
「最低」
茜と同じ言葉を吐いた。
「ごめん」
悠真は悪びれもせずに去っていった。
部屋に一人残された私は、茜に電話したくなった。
でも、できない。
私は茜を裏切った。
同じ男に、同じように捨てられたなんて、笑い話にもならない。
SNSで茜の近況を見た。
新しい彼氏ができたらしい。幸せそうな写真。
良かった。茜は前に進んでいる。
でも私は、親友も恋人も失って、一人。
因果応報。
親友を裏切った罰。
きっとこれが、私の運命。
悠真のことは、もう恨んでいない。
ただ、茜との思い出が、胸を締め付ける。
一緒に笑った日々。
秘密を共有した夜。
「ずっと親友だよ」と言い合った約束。
全部、私が壊した。
男一人のために。
しかもその男は、価値のない男だった。
今更後悔しても遅い。
茜、ごめん。
でも、あの時の私は、本当に悠真が好きだった。
ただ、好きになってはいけない人だったんだ。