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失恋図書館  作者: N.H
19/38

蔵書019『クリームソーダ』


 九月。


 あれほど耳の奥で鳴り響いていた蝉の声は、いつの間にか夜風に紛れる虫の音へと主役を交代していた。


 あれだけ人でごった返していた鎌倉の由比ガ浜も、夏の喧騒が嘘だったかのように静けさを取り戻している。


 私が働いていた海辺のカフェも例外ではなく、テラス席を吹き抜ける風には、秋の気配がはっきりと混じっていた。


 今日が、夏休みを丸ごと捧げたこのカフェでの、アルバイト最終日だった。


「海未ちゃん、ひと夏、お疲れ様。これ、オーナーから。助かったって言ってたよ」


 店長から手渡された給料袋の厚みよりも、もうこの場所に来るための口実がなくなるという事実の方が、ずしりと重く私の心にのしかかる。


 今年の夏、私のスケジュールはすべて、ある一人の人物を中心に回っていたのだから。


 その人の名前は、誠さん。オーナーの友人で、夏の間だけヘルプで入っていたフリーのカメラマン。


 九つ年上の彼は、どこか掴みどころのない人だった。穏やかなのに、時折、ファインダー越しに見せる眼差しはすべてを見透かすように鋭い。


 普段は無口なのに、一度カメラの話になると少年みたいに目を輝かせる。


 私は、そんな彼のアンバランスな魅力に、出会ってすぐに恋をしていた。


 そもそも、このバイトに応募したのだって、求人情報誌の片隅に書かれていた「プロのカメラマンも働く、お洒落なカフェです」という一文に惹かれたからだった。


 写真家が夢なわけでもないけれど、昔から撮られるより撮る方が好きだった私にとって、それは魔法の呪文みたいに聞こえたのだ。


 最初の頃は、失敗ばかりだった。オーダーを間違え、お皿を割り、落ち込んでいた私に、誠さんは初めて声をかけてくれた。


「下を向いてたら、綺麗なものも見逃すよ」


 ぶっきらぼうな慰めだった。


 でも、その声が不思議と心に沁みて、顔を上げると、彼はキッチンの窓から見える夕焼けを、黙って指さしていた。


 真っ赤に燃える空の色を、私はきっと一生忘れない。


 それから、私たちは少しずつ話すようになった。といっても、ほとんどが彼から私への一方通行の質問だったけれど。


「大学では、何を撮ってるの?」

「休みの日は、どこへ行くの?」


 彼は私の世界に興味を持ってくれるのに、自身のことはいつも巧みにはぐらかした。


 東京に住んでいるらしい、ということ以外、私が知っていることはほとんどない。


 それでも、彼が教えてくれる新しい世界に、私は夢中になった。


 カウンターの奥で埃を被っていたレコードプレーヤーの針を落とし、気怠いジャフの音色を聴かせてくれた夜。


「この曲は、昔、大切な人に教えてもらったんだ」と、少し遠い目をして呟く彼を見て、胸がちくりと痛んだ。


 彼の心の中には、私の知らない誰かがいる。そんな当たり前の事実に、打ちのめされそうになった。


 営業後、彼が淹れてくれるコーヒーを飲むのが、私のささやかな楽しみだった。


「ほら、もっと泡がクリーミーになるように。焦らず、ゆっくり」

「は、はい……!」


 手つきを直してくれる大きな手が、私の手にそっと触れる。


 そのたびに、心臓が大きく音を立てて、コーヒーの香りが肺いっぱいに満たされる。彼が撮る写真の話を聞くのも好きだった。


「俺は、誰も気づかないような、ありふれた日常の瞬間を切り取るのが好きなんだ。道端の花とか、ショーウィンドウに映る人波とか。そういうものに、神様は宿るから」


 見せてくれたモノクロの写真には、彼の言う通り、名前のない風景たちの、息をのむほど美しい瞬間が閉じ込められていた。


 数ある中に、女性が差し出すマグカップを持つ、繊細な手の写真があった。


 誰の手なのだろう。


 聞きたくて、でも聞けなくて、私はただ「素敵ですね」と微笑むことしかできなかった。


 知れば知るほど、彼は遠くなる。


 それでも、もっと知りたかった。この夏が終わってほしくないと、心の底から願っていた。


 そして、運命のアルバイト最終日。


 最後の片付けを終え、がらんとした店内は静まり返っていた。


 私が名残惜しく、何度も同じ場所を拭いていると、背後から誠さんの声がした。


「海未ちゃん、お疲れ様」


 振り返ると、彼はカウンターの内側から、緑色に澄んだグラスを二つ、こちらに差し出していた。


 シュワシュワと涼しげな音を立てる、クリームソーダ。真っ赤なサクランボが、白いバニラアイスの上で宝石みたいに鎮座している。


 それは、私がアルバイトの初日に、緊張でガチガチになっていた時に、彼が「まあ、これでも飲んで」と、黙って作ってくれた思い出のドリンクだった。


「……ありがとうございます」


 グラスを受け取り、私たちはテラス席に座った。寄せては返す波の音だけが、静かに響いている。


 もう、後がない。


 今日のこの瞬間を逃したら、私はきっと一生後悔する。そう思うと、心臓が早鐘を打ち始めた。


「誠さん、私……」


 ストローを握りしめ、震える声で切り出す。


 あなたのことが、好きです。


 言葉が喉まで出かかった、まさにその時だった。


「海未ちゃん」


 私の言葉を遮るように、彼が静かに口を開いた。


「楽しかったよ、この夏。本当に、ありがとう」


 そう言って、一枚の写真をテーブルの上にそっと置いた。


 夏の強い日差しの中、大きなクリームソーダのグラスを前にして、無邪気に笑っている私の写真。


 撮ってくれた中で、私が一番お気に入りの一枚だった。


「海未ちゃんは、強い光の中にいるべき人間だよ。まだ知らない世界が、たくさん君を待ってる」


 彼は少しだけ寂しそうに笑った。


「だから、君の夏は、これからだ。もっと色んな世界を見て、色んな恋をしなきゃ。俺みたいなのと、寄り道してる時間はないよ」


 その声は、どこまでも優しかった。


 でも、そんな優しさこそが、何よりも明確で、残酷な拒絶の言葉だった。


 彼は、最初から分かっていたのだ。


 私の淡い恋心も、今日でこの関係を全て終わらせるということも。


 彼は私を子供扱いせず、対等に接してくれた。


 でも、それは決して、私を恋愛対象として見ていたからじゃなかった。


 ただ、短い夏を一緒に過ごすアルバイトの大学生に、優しい大人が見せてくれた、束の間の美しい夢だったのだ。


 カラン、とグラスの中の氷が音を立てる。

 

 緑色のソーダ水の中で、最後の泡がひとつ、ふたつと弾けて消えていく。


 それはまるで、私の儚い恋心のようだと思った。


「……こちらこそ、ありがとうございました。たくさん、勉強になりました」


 涙がこぼれ落ちる前に、そう言って深々と頭を下げるのが、私にできる精一杯だった。


 誠さんは一瞬、何かを言いかけて、でも結局何も言わずに、ただ私の肩を一度だけ、ポンと優しく叩いた。


 店を出て、一人歩く夜の海岸線。


 さっきまで隣にあったはずの温もりはもうない。寄せては返す波の音が、やけに大きく心に響いた。


 手の中に握りしめた一枚の写真だけが、この夏が夢ではなかったことの、唯一の証明だった。


 背伸びして追いかけた恋は、少しだけ大人になるための、ほろ苦い痛みを私に残して終わった。


 でも、彼が教えてくれたジャズの音色も、コーヒーの香りも、息をのむほど美しかった夕焼けの記憶も、決して私の心から消えたりはしない。


 今年の夏に得たものは、確かに私の中に残っている。


 この痛みを胸に、私は明日から、また新しい季節を歩き始めなければならない。


 彼のいない、秋を。

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