蔵書019『クリームソーダ』
九月。
あれほど耳の奥で鳴り響いていた蝉の声は、いつの間にか夜風に紛れる虫の音へと主役を交代していた。
あれだけ人でごった返していた鎌倉の由比ガ浜も、夏の喧騒が嘘だったかのように静けさを取り戻している。
私が働いていた海辺のカフェも例外ではなく、テラス席を吹き抜ける風には、秋の気配がはっきりと混じっていた。
今日が、夏休みを丸ごと捧げたこのカフェでの、アルバイト最終日だった。
「海未ちゃん、ひと夏、お疲れ様。これ、オーナーから。助かったって言ってたよ」
店長から手渡された給料袋の厚みよりも、もうこの場所に来るための口実がなくなるという事実の方が、ずしりと重く私の心にのしかかる。
今年の夏、私のスケジュールはすべて、ある一人の人物を中心に回っていたのだから。
その人の名前は、誠さん。オーナーの友人で、夏の間だけヘルプで入っていたフリーのカメラマン。
九つ年上の彼は、どこか掴みどころのない人だった。穏やかなのに、時折、ファインダー越しに見せる眼差しはすべてを見透かすように鋭い。
普段は無口なのに、一度カメラの話になると少年みたいに目を輝かせる。
私は、そんな彼のアンバランスな魅力に、出会ってすぐに恋をしていた。
そもそも、このバイトに応募したのだって、求人情報誌の片隅に書かれていた「プロのカメラマンも働く、お洒落なカフェです」という一文に惹かれたからだった。
写真家が夢なわけでもないけれど、昔から撮られるより撮る方が好きだった私にとって、それは魔法の呪文みたいに聞こえたのだ。
最初の頃は、失敗ばかりだった。オーダーを間違え、お皿を割り、落ち込んでいた私に、誠さんは初めて声をかけてくれた。
「下を向いてたら、綺麗なものも見逃すよ」
ぶっきらぼうな慰めだった。
でも、その声が不思議と心に沁みて、顔を上げると、彼はキッチンの窓から見える夕焼けを、黙って指さしていた。
真っ赤に燃える空の色を、私はきっと一生忘れない。
それから、私たちは少しずつ話すようになった。といっても、ほとんどが彼から私への一方通行の質問だったけれど。
「大学では、何を撮ってるの?」
「休みの日は、どこへ行くの?」
彼は私の世界に興味を持ってくれるのに、自身のことはいつも巧みにはぐらかした。
東京に住んでいるらしい、ということ以外、私が知っていることはほとんどない。
それでも、彼が教えてくれる新しい世界に、私は夢中になった。
カウンターの奥で埃を被っていたレコードプレーヤーの針を落とし、気怠いジャフの音色を聴かせてくれた夜。
「この曲は、昔、大切な人に教えてもらったんだ」と、少し遠い目をして呟く彼を見て、胸がちくりと痛んだ。
彼の心の中には、私の知らない誰かがいる。そんな当たり前の事実に、打ちのめされそうになった。
営業後、彼が淹れてくれるコーヒーを飲むのが、私のささやかな楽しみだった。
「ほら、もっと泡がクリーミーになるように。焦らず、ゆっくり」
「は、はい……!」
手つきを直してくれる大きな手が、私の手にそっと触れる。
そのたびに、心臓が大きく音を立てて、コーヒーの香りが肺いっぱいに満たされる。彼が撮る写真の話を聞くのも好きだった。
「俺は、誰も気づかないような、ありふれた日常の瞬間を切り取るのが好きなんだ。道端の花とか、ショーウィンドウに映る人波とか。そういうものに、神様は宿るから」
見せてくれたモノクロの写真には、彼の言う通り、名前のない風景たちの、息をのむほど美しい瞬間が閉じ込められていた。
数ある中に、女性が差し出すマグカップを持つ、繊細な手の写真があった。
誰の手なのだろう。
聞きたくて、でも聞けなくて、私はただ「素敵ですね」と微笑むことしかできなかった。
知れば知るほど、彼は遠くなる。
それでも、もっと知りたかった。この夏が終わってほしくないと、心の底から願っていた。
そして、運命のアルバイト最終日。
最後の片付けを終え、がらんとした店内は静まり返っていた。
私が名残惜しく、何度も同じ場所を拭いていると、背後から誠さんの声がした。
「海未ちゃん、お疲れ様」
振り返ると、彼はカウンターの内側から、緑色に澄んだグラスを二つ、こちらに差し出していた。
シュワシュワと涼しげな音を立てる、クリームソーダ。真っ赤なサクランボが、白いバニラアイスの上で宝石みたいに鎮座している。
それは、私がアルバイトの初日に、緊張でガチガチになっていた時に、彼が「まあ、これでも飲んで」と、黙って作ってくれた思い出のドリンクだった。
「……ありがとうございます」
グラスを受け取り、私たちはテラス席に座った。寄せては返す波の音だけが、静かに響いている。
もう、後がない。
今日のこの瞬間を逃したら、私はきっと一生後悔する。そう思うと、心臓が早鐘を打ち始めた。
「誠さん、私……」
ストローを握りしめ、震える声で切り出す。
あなたのことが、好きです。
言葉が喉まで出かかった、まさにその時だった。
「海未ちゃん」
私の言葉を遮るように、彼が静かに口を開いた。
「楽しかったよ、この夏。本当に、ありがとう」
そう言って、一枚の写真をテーブルの上にそっと置いた。
夏の強い日差しの中、大きなクリームソーダのグラスを前にして、無邪気に笑っている私の写真。
撮ってくれた中で、私が一番お気に入りの一枚だった。
「海未ちゃんは、強い光の中にいるべき人間だよ。まだ知らない世界が、たくさん君を待ってる」
彼は少しだけ寂しそうに笑った。
「だから、君の夏は、これからだ。もっと色んな世界を見て、色んな恋をしなきゃ。俺みたいなのと、寄り道してる時間はないよ」
その声は、どこまでも優しかった。
でも、そんな優しさこそが、何よりも明確で、残酷な拒絶の言葉だった。
彼は、最初から分かっていたのだ。
私の淡い恋心も、今日でこの関係を全て終わらせるということも。
彼は私を子供扱いせず、対等に接してくれた。
でも、それは決して、私を恋愛対象として見ていたからじゃなかった。
ただ、短い夏を一緒に過ごすアルバイトの大学生に、優しい大人が見せてくれた、束の間の美しい夢だったのだ。
カラン、とグラスの中の氷が音を立てる。
緑色のソーダ水の中で、最後の泡がひとつ、ふたつと弾けて消えていく。
それはまるで、私の儚い恋心のようだと思った。
「……こちらこそ、ありがとうございました。たくさん、勉強になりました」
涙がこぼれ落ちる前に、そう言って深々と頭を下げるのが、私にできる精一杯だった。
誠さんは一瞬、何かを言いかけて、でも結局何も言わずに、ただ私の肩を一度だけ、ポンと優しく叩いた。
店を出て、一人歩く夜の海岸線。
さっきまで隣にあったはずの温もりはもうない。寄せては返す波の音が、やけに大きく心に響いた。
手の中に握りしめた一枚の写真だけが、この夏が夢ではなかったことの、唯一の証明だった。
背伸びして追いかけた恋は、少しだけ大人になるための、ほろ苦い痛みを私に残して終わった。
でも、彼が教えてくれたジャズの音色も、コーヒーの香りも、息をのむほど美しかった夕焼けの記憶も、決して私の心から消えたりはしない。
今年の夏に得たものは、確かに私の中に残っている。
この痛みを胸に、私は明日から、また新しい季節を歩き始めなければならない。
彼のいない、秋を。




