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失恋図書館  作者: N.H
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蔵書018『彼の残骸』


 圭一と別れてから、二度目の季節が巡ってきた。


 じりじりと肌を焼くようだったアスファルトの熱はすっかりと影を潜め、朝晩の空気は少しだけ肌寒い。


 私の朝は、圭一に教わった通り、珈琲豆をミルで挽くことから始まる。


 ゴリゴリという硬質な音と、部屋に広がる香ばしい匂い。お気に入りのケトルでゆっくりと円を描くようにお湯を注ぐ。


 この一連の作業は、もはや体に染み付いてしまった、彼との暮らしの名残だった。


 別れ際に彼が置いていったのは、着古した部屋着のスウェットと、数本の歯ブラシだけ。


 それなのに、この部屋の至る所に、今も彼の気配が満ちている。


 選んでくれた、窓際のモンステラ。


 日当たりの良い場所を好むくせに、直射日光は嫌う、少しわがままな植物だ。


 本棚には、彼が好きだったマイナーな作家の文庫本が、私の本と混ざり合って並んでいる。


 私の生活は、彼が教えてくれた「好き」という感情で、まだ彩られていた。


 休日の午後、私はあてもなく街を歩いていた。古着屋を覗き、雑貨店を冷やかす。


 圭一となら、「これ、いいね」「お前には似合わないな」なんて、くだらないことを言い合いながら歩いた道だ。


 一人で歩くには、少しだけ広すぎる。


 ふと立ち寄ったレコードショップの片隅で、圭一と夢中で聴いたインディーズバンドのアナログ盤を見つけてしまった。


 二人で初めて行ったライブハウスの、むせ返るような熱気と、ステージライトに照らされた彼の横顔が、鮮やかに蘇る。


 胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられるように痛んだ。


 気づけば、足は圭一が愛してやまなかったカレー屋に向かっていた。


 もう何か月も来ていなかったのに、体が道を覚えていた。スパイスの匂いに誘われるまま、吸い込まれるように店に入る。


「キーマカレー、一つ」


 カウンター席に座り、無意識にそう注文している自分に気づいて、吐き気がした。


 これも、彼がいつも頼んでいたメニューだ。


 元恋人の幻影を、私は必死で追いかけ続けている。


 そうでもしないと、彼と過ごした三年間の日々まで、全てが嘘になってしまいそうだから。


 ある夜、友人が心配してセッティングしてくれた食事会で、一人の男性と出会った。


 誠実そうで、笑顔が優しい人だった。一生懸命、私を楽しませようと、色々な話をしてくれた。


 でも、だめだった。


 その人の話を聞きながら、私の頭は勝手に圭一の声を再生してしまう。


『圭一なら、この話、もっと面白くするだろうな』

『このお店、圭一は好きじゃないかも』

『彼の着ているシャツ、圭一も似たようなのを持ってた』


 全ての物差しが、圭一になってしまっている。


 目の前の男性に失礼だと分かっていても、思考の比較は止められなかった。


 上の空だった私に、気づいていたのだろう。デザートの皿が運ばれてきた頃、彼は困ったように、でも優しい声で言った。


「……忘れられない人が、いるんですね」


 その言葉は、静かに、でも的確に私の心を射抜いた。


 違う、そんなことはない、と否定したかった。


 でも、声が出なかった。図星だったからだ。


 私はまだ、圭一との恋の残骸の中に座り込んだまま、一歩も前に進めていなかった。


 彼に丁重に謝罪して店を出た。


 帰り道、自分がひどく惨めに思えて、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。


 部屋に帰り着いた瞬間、糸が切れた。


 部屋に残る、圭一の痕跡すべてが、急に私を責め立てるように見えた。観葉植物も、本も、レコードも、珈琲ミルも。


「もう、全部捨ててやる……!」


 段ボール箱を引っ張り出し、本棚から彼の本を無造作に詰め込もうとする。


 でも、一冊手に取るたびに、思い出が奔流のように押し寄せてきた。「この台詞が最高なんだ」と、彼が熱っぽく語っていたページ。


 挟みっぱなしの、二人で行った水族館のチケット。


 手が、止まる。捨てられない。何も、捨てられなかった。


 結局、私は床に座り込んだまま、子供のように声を上げて泣いた。


 翌朝。重たいまぶたを開けると、部屋に秋の柔らかい光が差し込んでいた。


 私は、いつものようにキッチンに立つ。


 そして、無意識に珈琲豆の入ったキャニスターに手を伸ばし、は、と動きを止めた。


 違う。


 今日は、これを飲む気分じゃない。


 私は棚の奥から、圭一が嫌っていたインスタントコーヒーの瓶を取り出した。


 マグカップに粉を入れ、電気ケトルで沸かしただけのお湯を、ざっと注ぐ。立ち上る香りは、いつもよりずっと薄くて、味気ない。


 でも、これは、紛れもなく「私だけ」の珈琲だった。


 誰かのためじゃない。丁寧でも、お洒落でもない。今の、私のための味。


 一口を、ゆっくりと、喉に流し込む。


 その瞬間、涙が一筋、静かに頬を伝った。


 それは、昨日までの悲しみの涙とは、少しだけ味が違った。


 ほんの小さな、でも、確かな一歩を踏み出せた自分への、許しの涙だった気がした。


 彼が置いていった、たくさんの素敵なものたちと、これからどう向き合っていくのか。


 まだ、答えは出ない。


 でも、まずはこのインスタントコーヒーから。


 もう一度、私自身の「好き」を、探してみようかな。


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