蔵書015『六畳の宇宙』
ガムテープを勢いよく引き出す音が、やけに大きく部屋に響いていた。
私の目の前で、陽太が黙々と段ボールに荷物を詰めている。彼が描いたイラストのポスター、二人で選んだサボテンの鉢植え、読みかけの本の山。一年間、この部屋を彩ってきたものが、次々と茶色い箱の中に消えていく。
別れよう、と言い出したのは、私の方だった。
一週間前の、本当に些細な喧嘩。夕食のメニューがどうとか、洗濯物の干し方がどうとか。積もり積もった小さな不満が、その日、私の中で爆発した。
「もう無理だよ。一緒にいるの、疲れた」
売り言葉に買い言葉。本心じゃなかった、なんて今更言っても言い訳にしかならない。いつものように、陽太が困った顔で笑って「ごめんな」って、折れてくれると、どこかで甘く考えていた。
でも、彼は違った。
「……そっか。分かった」
静かな声でそう言うと、彼はそれ以上何も言わなかった。
その瞬間、ああ、終わったんだ、と直感的に理解してしまった。引き止めようにも、意地が邪魔をして、喉に詰まった言葉は出てこなかった。
そして今日、陽太がこの部屋を出ていく。
私たちが一年間、泣いたり笑ったり、たくさんの時間を重ねてきた、たった六畳の宇宙から。
「楓、このマグカップ、どうする?楓が使う?」
陽太が、色違いで揃えたマグカップを手に取って尋ねる。水色の、私がプレゼントした彼のカップ。
「……いらない。持って行って」
冷たい声が出た。
本当は、置いていってほしかった。彼の欠片だけでも、この部屋に残しておきたかった。でも、素直になれない私は、いつだって言葉を裏返してしまう。
「そっか」
陽太は短く答えると、マグカップを新聞紙で丁寧に包み、箱に入れた。洗面所からは、お揃いで使っていた歯ブラシスタンドから、彼の歯ブラシが一本だけ抜き取られている。ソファの、いつも彼が座っていた場所だけが、ふかふかと優しく窪んでいる。
部屋の中のあらゆるものが、「二人」のものから、「私」のものと「彼」のものに仕分けされていく。その作業は、まるで私たちの思い出をバラバラに解体していくようで、息が詰まりそうだった。
「ごめんね」
そのたった一言が、どうしても言えなかった。今さら謝ったって、彼の決意は変わらないかもしれない。そう思うと怖くて、プライドが邪魔をして、私はただ壁の一点を睨みつけることしかできなかった。
荷造りは、思ったよりも早く進んだ。
がらん、と音がしそうなほど物がなくなった部屋の真ん中に、段ボール箱が数個積まれている。陽太は最後の一箱の封をすると、額の汗を拭って、私の前に向き直った。
「じゃあ、行くわ」
その目は、穏やかだった。でも、その奥に深い諦めのような色が見えて、私の心臓は氷水に浸されたみたいに冷たくなった。
「今まで、ありがとう。世話になったな」
「……」
「色々、悪かった」
違う、悪いのは私の方なのに。彼の優しさが、ナイフみたいに突き刺さる。行かないで。その言葉が、やっと喉の奥から這い上がってきた。
「待って……」
やっと絞り出した声は、涙で震えていた。
陽太が、驚いたように私を見る。
「行かないで……お願い……」
一度堰を切ってしまえば、もう止まらなかった。今まで意地を張っていたのが嘘みたいに、涙と後悔の言葉が溢れ出してくる。
「ごめん、なさいっ……!私が、悪かったの……!わがまま言って、陽太を困らせてばっかりで、本当に、ごめん……!」
みっともなく泣きじゃくる私を、陽太は静かに見つめていた。そして、ゆっくりと首を横に振る。
「楓だけのせいじゃないよ」
彼の声は、やっぱり優しかった。
「俺も、楓の優しさに甘えすぎてたんだ。このままじゃダメになるって、ずっと思ってた……だから、これでいいんだ。一度、ちゃんとお互い一人で頑張ってみよう」
それは、もう慰めではなかった。揺るぎない、決意の言葉だった。彼の瞳は、もう私との未来を映してはいなかった。
陽太はテーブルの上に、部屋の合鍵をそっと置いた。カチャン、という小さな金属音が、私たちの終わりを告げている。
「元気でな」
最後に一度だけ、彼は困ったように笑った。私が一番好きだった、あの笑顔で。
そして、玄関のドアに手をかける。
やめて。閉めないで。そのドアが閉まったら、本当に全部終わってしまう。
心の中で叫んでも、私の声はもう彼には届かない。
バタン。
無情に閉められたドアの音が、静まり返った部屋に響き渡った。
世界から、音が消えた。
なにもない部屋に、一人。
陽太の匂いが、まだ微かに残っているソファに顔を埋める。さっきまで彼がいた温もりが、まだそこにあるような気がして、余計に涙が溢れてきた。
「ようた……っ、ごめ、なさ……」
声を殺すこともできず、子供みたいに泣き続けた。
壁に飾られたままの、二人で笑っている写真が、残酷なほど幸せそうに私を見下ろしている。
当たり前に陽太が隣にいて、くだらないことで笑い合って、おはようとおやすみを言い合う毎日。
それが、どれだけかけがえのないものだったのか。失って初めて、痛いほど思い知らされる。
この六畳の部屋は、窮屈だけど、私たちの全てだった。宇宙だった。
でも、君がいなくなってしまった今、ここはもう、ただ広くて冷たいだけの箱だ。
私の意地が、私の弱さが、この宇宙を壊してしまった。
後悔だけが、冷たい部屋に重く、重く沈んでいく。
陽太のいない、長い夜が、始まった。




