蔵書010『貸した本の行方』
放課後の教室に残された私は、ゆっくりと机に突っ伏した。額にひんやりと伝わる木目の冷たさが、ほてった頬には心地よく感じる。
窓からは初夏の風がカーテンを揺らし、遠くから吹奏楽部の練習する音色が聞こえていた。
今にも泣き出しそうな目でスマホを開き、何度も送信ボタンを押しかけては止めた。
結局、書いていた言葉を全部消して画面を閉じる。伝えられない言葉はいつも胸の中に重く残り続けた。
高校二年の春、私は同じクラスになった和泉一真を好きになった。特別なきっかけがあったわけじゃない。日直の仕事を一緒にした時に、「松田って、すげえ字きれいなんだな」と彼がぽつりと言った、その瞬間からだった。
たったそれだけの言葉が、一瞬で私の心を奪ってしまった。
一真はクラスの中心にいるタイプではなかった。休み時間はだいたい机に伏せて寝ているか、本を読んでいるか。
男子とも女子ともほどよい距離感を保つ彼の落ち着いた雰囲気が、私にはなぜか強く惹かれた。
夏が近づいたある日、一真がいつものように教室の隅で文庫本を広げていた。勇気を出して話しかけると、少し驚いたような顔をしてから、すぐに優しく微笑んでくれた。
「松田も、これ読む?」
差し出されたのは、タイトルも聞いたことのない小説だった。
彼から借りたその本を、私は家に帰るなり一気に読み終えた。彼の指が触れたページをなぞるように読み返し、翌日、「すごくよかった」と伝えると、一真はほんの少しだけ顔を赤らめて、照れくさそうに頷いた。
その日をきっかけに、私たちは毎日、好きな本の話をするようになった。一真は意外にもロマンチックな物語が好きで、私に次々とおすすめの小説を貸してくれた。
彼の貸してくれる本はいつも美しい恋愛小説だったから、私はつい期待してしまった。もしかしたら、彼も私に同じような想いを抱いているのかもしれないと。
二学期の文化祭。私たちのクラスは喫茶店をやることになった。一真は準備のときから率先して作業を手伝い、私は彼と一緒に飾り付けをする時間がただ幸せだった。
彼の横顔を見るたびに胸が苦しくなった。文化祭の最終日、私は心に決めていた。片付けが終わったら、想いを伝えようと。
けれど、片付けが終わって教室が空っぽになった頃、一真はなぜかそわそわとしていた。そして、教室の扉の前に小さな影が現れた瞬間、私の胸は鋭く痛んだ。
そこに立っていたのは、隣のクラスの白石絵里だった。華奢で可愛くて、誰もが憧れる存在だった。
一真が慌てて駆け寄り、絵里と廊下で何かを話しているのが見えた。私は何気ないふりをして近づき、二人の会話を聞いてしまった。
「白石さん、昨日渡した本、どうだった?」
一真の声はいつもより優しくて震えていた。絵里が頬を赤らめて微笑むと、彼は緊張したように息を吐いた。
「俺、白石さんのことが好きで……付き合ってほしい」
その一言が、私の胸を氷のように冷やした。絵里は戸惑った表情をした後、小さく頷いた。二人の間に嬉しそうな沈黙が流れ、私はそっと廊下を離れた。
気づいた時には、校舎の裏で泣いていた。握りしめたスマホの画面には、一真に宛てた告白のメッセージが未送信のまま残っていた。それをゆっくり消した。心の奥に、もう伝えることのない想いだけが深く沈んでいった。
翌日から、私は一真との距離を取るようになった。本の貸し借りもやめ、教室でも目を合わせないようにした。
一真は最初、戸惑った顔で私を見ていたが、すぐに絵里との日々に夢中になっていった。楽しそうに話す二人の姿を見るたびに、胸が締めつけられた。
失恋とは、こんなにも苦しいものだと初めて知った。
ある日、下校途中の公園で一真に偶然会った。彼はベンチに一人で座っていた。
「最近、松田元気ないけど、どうした?」
心配そうに尋ねる彼に、私は無理に笑顔を作った。
「別に、なんでもないよ」
沈黙が訪れ、一真がぽつりと呟いた。
「白石さんと、別れたんだ。好きな人がいるって」
彼は足元を見つめたまま言った。その瞬間、私は心の奥に隠していた言葉をもう一度飲み込んだ。
今言っても意味がない。私は彼にとってただの友達だ。それ以上にはなれない。
「そうなんだ。でも、大丈夫。きっといい人がいるよ」
自分の気持ちを隠して微笑むのは苦しかった。でも、それが私にできる精一杯の強がりだった。一真はありがとうと小さく言って、微笑んだ。その笑顔があまりに優しくて、また涙がこぼれそうになった。
それから卒業まで、私は彼への想いを胸にしまったまま過ごした。一真も、あの日の告白の相手が私だったとは最後まで気づかなかっただろう。
卒業式の日、私は教室で最後に彼に小説を一冊渡した。
「これ、貸してくれた本のお礼」
「ありがとう」と一真は受け取り、「またいつか会おうな」と笑った。
彼の背中を見送りながら、私は初めて静かに泣いた。好きだと言えなかった苦しさも、想いが叶わなかった痛みも、きっと忘れることはない。
それでも、誰かをこんなにも好きになれたことが、今では少しだけ誇らしい。
いつか私も、この想いを穏やかに思い出せる日が来るのだろうか。
胸に抱えたままの言葉は、永遠に私だけの小説の中に眠り続ける。
そう思いながら、私は静かに教室を後にした。




