蔵書001『最後の既読』
スマホの画面に「既読」の文字がついてから、もう3時間が経っていた。
私の最後のメッセージは「今度の土曜日、空いてる?」だった。既読はついた。でも返事は来ない。これがどういう意味か、私にはもう分かっている。
ベッドに寝転がったまま、私は天井を見つめる。涙が耳の方に流れていく。冷たい。全部が冷たい。
3か月前の、大学のサークルの飲み会。他大学と交流しようみたいな。私は友達に誘われて、なんとなく参加していた。正直、早く帰りたいと思っていた。
「ここ、座ってもいい?」
声をかけてきたのは、彼、中田歩くんだった。
「どうぞ」
最初は当たり障りのない会話だった。授業のこと、バイトのこと、サークルのこと。でも、お酒が進むにつれて、話は盛り上がっていった。
「実は俺、梨花さんのインスタ、こっそりフォローしてるんだ」
歩くんが少し赤くなりながら告白した。
「え、なんで私のアカウント知ってるの?」
「サークルのタグから辿って…ごめん、キモいよね」
「ううん、全然。むしろ嬉しい」
本当に嬉しかった。歩くんは背が高くて、笑顔が素敵で、顔もカッコよかった。そんな彼が、私のことを気にかけてくれていたなんて。
その日から、私たちは急速に仲良くなった。
最初はグループでの食事から始まって、そのうち二人で会うようになった。映画を観に行ったり、カフェで勉強したり、たまには居酒屋で飲んだり。
「梨花といると、なんか落ち着くんだよね」
歩くんはよくそう言ってくれた。
「それって、つまらないってこと?」
「違う違う。一緒にいて楽なんだ。背伸びしなくていいっていうか」
その言葉が嬉しくて、きっとあの時の私は、世界で一番幸せだった。
LINEは毎日続いた。
朝起きたら「おはよう」
大学に着いたら「今日の1限だるい」
お昼になったら「学食なう」の写真
バイトが終わったら「疲れた〜」
寝る前には「おやすみ」
他愛もない会話だけど、それが私の日常になっていた。通知音が鳴るたびに心臓が跳ねて、歩くんの名前を見るだけで顔が緩んだ。
友達には「それ、完全に付き合ってるじゃん」と言われた。
でも、私たちは付き合っていなかった。告白もされていないし、手も繋いだことがない。
それでも私は、いつか歩くんから告白されると信じていた。こんなに毎日連絡を取り合って、週に何度も会って、お互いに特別な存在じゃないわけがない、と。
「ううん、まだ」と答えながら、心の中では「もうすぐ」と思っていた。
バカみたい。
変化が起きたのは、1ヶ月前のことだった。
「梨花、ちょっと相談があるんだけど」
歩くんから呼び出されて、いつものカフェで会った。もしかして告白かも、と期待した私は、少しおしゃれをして行った。新しく買ったワンピースを着て、髪も巻いて、お気に入りのリップをつけて。
「実は、気になる子がいるんだ」
彼の言葉に、私の期待は一瞬で打ち砕かれた。
「へ、へぇ…誰?」
声が震えないように必死だった。
「同じバイト先の子。一個下なんだけど、すごく可愛くて」
歩くんは恋する男の顔で、その子のことを話し始めた。どんなに可愛いか、どんなに性格が良いか、どんなに一緒にいて楽しいか。
私は相槌を打ちながら、心の中で叫んでいた。
じゃあ私は何なの? 私との時間は何だったの?
「それで、どうアプローチしたらいいと思う? 梨花は女子目線でアドバイスしてよ」
この人は、私の気持ちに気づいていないんだ。私のことを、ただの相談相手としか見ていないんだ。
「そうだね…まずはLINE交換から始めたら?」
我ながら、よくそんなアドバイスができたと思う。心は千切れそうだったのに。
それから歩くんは、逐一恋愛相談をしてくるようになった。
「今日、LINE交換できた!」
「一緒にご飯行く約束した!」
「めっちゃ可愛い写真送ってくれた!」
そのたびに私は「良かったね」「頑張って」と返事をした。親友として、応援する振りをした。
でも、夜になると泣いた。枕に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。
歩くんからのLINEは、少しずつ減っていった。
返信は遅くなり、絵文字は消え、既読スルーも増えた。
それでも私は、歩くんにLINEを送り続けた。
未練がましい。
惨め。
分かってる。
でも、止められなかった。
そして今日、最後の勇気を振り絞った。
「今度の土曜日、空いてる?」
もう一度、二人きりで会えたら。
もしかしたら、私の大切さに気づいてくれるかも。
そんな儚い希望にすがった。
既読はついた。
でも、3時間経っても返事は来ない。
私は起き上がって、部屋の中を見回した。
歩くんと一緒に行った映画のチケット。
歩くんが「似合う」と言ってくれたアクセサリー。
歩くんの誕生日にあげようと思って買っていたマフラー。
全部が、私の一人相撲の証拠だった。
トーク履歴を開く。
一番上までスクロールして、最初のメッセージを見る。
『今日はありがとう! また飲もうね』
あの日から3ヶ月。
たった3ヶ月で、私たちの関係は始まって、そして終わった。
いや、始まってすらいなかったのかもしれない。
私は深呼吸をして、歩くんの連絡先を開いた。
「ブロックする」のボタンが見える。
でも、押せなかった。
まだ諦めきれない自分が情けない。
もしかしたら、という淡い期待を捨てられない自分が嫌いだ。
通知音が鳴った。
心臓が跳ねる。条件反射。
でも、親友からのメッセージだった。
『梨花〜! 今度の土曜、女子会しない?』
土曜日。
歩くんの「先約」がある日。
『ごめん、その日はバイト』
嘘をついた。
本当は、土曜日は一日中部屋に籠もって泣いているつもりだ。
私は布団を頭まで被った。
ただの通過点だった。
歩くんが本当に好きな人に出会うまでの、暇つぶし。
分かっていたはずなのに。
期待してしまった私が悪い。
でも、好きだった。
本当に、本当に好きだった。
朝起きて最初に考えるのは歩くんのことで、夜寝る前に最後に考えるのも歩くんのことで、歩くんの笑顔を見るだけで一日が幸せで、歩くんからのLINEだけが生きがいだった。
こんなに惨めな思いをしても、こんなに傷つけられても、まだ歩くんが好き。
救いようのない、バカな女。
それが私。
明日も学校がある。
平気な顔をしなきゃ。
もし街中でばったり会っちゃったりしたら「彼女とうまくいってる?」なんて聞けるくらい、明るく振る舞わなきゃ。
でも今は、無理。
今だけは、泣かせて。
この恋を、静かに弔わせて。
既読のまま終わった、私の恋を。