9. 白銀の将
老人の体が、壇上から転げ落ちた。
神殿の床にうつ伏せに沈む。杖が手から転がり落ちると、かすかな金属音が響いた。
だが、まだ生きている。
体は痙攣し、苦しげに呼吸を繰り返していた。
――少年は、殺してはいなかった。
詠唱を止めるために放った一撃は、顎を正確に砕きながらも、手加減はしていた。
少年は、焼けただれた右腕を小さく振り、血を払うと、老人の体を仰向けに転がす。
砕けた顎の周囲は血に濡れ、唇は腫れ上がっていた。だが、意識はある。
老人の目が、かすかに少年を見上げていた。
「……なあ、ここはどこだよ」
少年は、静かに問いかける。
声は抑えていたが、目はなお、爛々と光っていた。
老人は応えようとする。
喉を震わせ、口を開こうとするが――
「ッ……グ、グゥ……クッ……」
砕けた顎が動きを妨げ、血が喉奥に絡む。
声は漏れたが、言葉にはならなかった。
「……ちっ、やりすぎたか」
少年は舌打ちした。
殺すつもりはなかった。
ただ――詠唱さえ止められればよかったのだ。
だが、結果的に言葉さえ出せぬほどにしてしまった。
(他に生きてるやつはいねぇ……)
少年は、焼け焦げた空間を一瞥する。
焦げた肉の臭いと血の鉄臭が入り混じり、死体の山をなぞるように魔力の残滓が漂っていた。
動いているのは、この老人と、自分だけだった。
少年は、焦げた床に背を預けるように腰を下ろした。
剥き出しの右腕が微かに震えているのを感じながら、しばしそのまま身を預ける。
だが――考える時間は、なかった。
「……チィ」
少年が振り返った瞬間、鉄の扉の向こうから怒声と重たい足音が押し寄せてくるのが聞こえた。あの雷撃の爆音が、轟いていたのだろう。
当然、異変に気づかぬ者はいない。
(やはり……あの六人だけじゃなかったか)
「ふっ……ふふ……っ」
その音を聞きながら、倒れた老人の顔が歪んだ。
血と煤にまみれた顔面を苦痛にゆがめながらも、確かに“笑み”が浮かんでいた。
砕けた顎、腫れた口元、それでもその目はわずかに細められていた。
――助かった。
まるで、そう言わんばかりだった。
援軍が来る。まだ終わっていない。
死地から拾い上げられる未来を、彼は確信していた。
だが、少年にとってはどうでもいいことだった。
「……あばよ」
その一言は、まるで別れのあいさつのようだった。
だがその声には情も慈悲もなかった。
ただ、冷ややかな終止符を告げる音。
次の瞬間――
少年の踵が、唸りを上げて振り下ろされた。
ゴシャッ!!
老人の顔面が、石床に叩き潰された。
砕ける音。
弾ける血飛沫。
肉と骨が混ざり合い、石の隙間に染み込んでいく。
呻きはなかった。抵抗もなかった。
すべてが、一撃で終わった。
動きは、完全に止まった。
まるで塵でも払うかのように、少年は無言のまま立ち上がった。
血と煤にまみれた姿。焼け焦げ、爛れた皮膚。右腕からはなおも白煙が立ちのぼっていたが、その身に痛みは存在しないかのようだった。
足音が迫る。
金属の軋み。扉の向こうで、重たい鍵が外される音がした。
(逃げ場は――あそこしかない)
少年の視線が鋭く揺れた。
神殿の隅にそびえる、一本の白い柱――爆風に晒されながらも倒れずに残った構造体。
装飾は剥げ、突起すら風化に削られたその柱は、まるで空間に取り残された遺物のようだった。
普通なら、登れるはずがない。
だが――
少年は、迷わなかった。
深く、短く息を吐く。
ひとつ踏み込み、石片を蹴り、跳躍。
バギィッ!
指が、柱の継ぎ目に突き刺さった。
指の骨が砕けてもおかしくない衝撃――それを握力だけで封じ込めた。
蜘蛛のように、少年は柱を這い上がっていく。
うねるように、滑るように。
血と煤で濡れた指を継ぎ目に突っ込み、足を滑らせながらも、肩と膝で自らの体を引き上げる。
爆風に崩れた柱の一部が、かろうじて天井と接していた。
そのわずかな隙間に体を滑り込ませる。
そして――
少年が梁の影に身を潜めた、まさにその瞬間だった。
ガチャン!
重々しい鉄扉が、鋭い金属音を響かせて開かれた。
ほんの数秒遅れていれば、見つかっていた。紙一重だった。
足音が殺到する。怒号、甲冑の擦れる音。
「ヴァルツァー様! いかがなされた! 先ほどの音は……!」
最初に駆け込んできたのは、明らかに他とは異なる存在だった――。
白銀の鎧に身を包み、黒のマントを翻しながら神殿に足を踏み入れた女は、ただそこに立つだけで場の空気を一変させた。
立っているだけで空気が変わる。威圧と優雅――矛盾する気配が、彼女の中では自然に融合していた。
長く艶やかな黒髪は高く結い上げられ、肩甲骨まで滑るように流れている。
戦場という場には不似合いなほど丁寧に手入れされたその髪は、むしろ彼女の矜持を際立たせていた。
己が美しさを誇示するのではなく、ただ当然のようにそうある――それが、彼女の在り方だった。
切れ長の双眸は、翡翠のような冷ややかな光を湛えている。
だが、その奥には微かに、得体の知れぬ情熱の熱が潜んでいた。
肌は雪のように白く、凛とした鼻梁と薄い唇が、整った顔立ちに鋭さを加えている。
その唇の端にだけ、ごくわずかな紅が差されていた。それが彼女の表情に、かすかな陰影を与えていた。
歩を進めるその一歩一歩が、まるで舞台に立つ舞踏家のように研ぎ澄まされていた。
無駄のない動き、美しさと戦闘の合理が融合した所作――その身から放たれる気配は、まさしく“指揮官”のそれだった。
神殿の惨状を目の当たりにしても、彼女の表情には一切の動揺がなかった。
焼け焦げた空気の中、彼女は静かに歩を進めながら、すでに周囲を見渡し、全てを把握しようとしていた。
少年は、梁の上の影に身を潜めながら、その女の姿を見下ろしていた。
本能が警告を鳴らしていた。これまでとは“種類が違う”――理屈ではなく、体がそう理解していた。
ただの兵ではない――本能が、警鐘を鳴らしていた。
「……団長? これは……」
瓦礫の山、黒焦げの死体、崩れかけた神殿の内部――
まるで地獄を映したような光景に、女の声がわずかに揺れた。
その中で、少年は柱の影に身を潜めたまま、じっと彼女を見下ろしていた。
彼女が歩み寄り、ヴァルツァーの変わり果てた姿を目にすると、凛とした顔に緊張が走った。
「……死んでいる……? ヴァルツァー様が……」
わずかに震えた声。それは驚愕というより、認め難い現実への拒絶だった。
周囲の兵士たちがざわめく。
誰もが信じられないといった様子で、破壊された神殿のあちこちを見渡している。
だがその中で、女の双眸だけが――鋭く、冷たく、何かを探すように動いていた。
(……やはりあいつが指揮官だな)
少年は梁の上から静かに息を吐く。
さきほどの隊長とは比べものにならない。ひと目見ただけでわかる。
あれと今、まともにやり合えば――確実にやられる。
彼女は呼吸を整えるように一度、目を閉じ、静かに深く息を吸った。
そして――ふと、顔を上げた。
その視線が、真っ直ぐに梁の上へと向けられる。
少年の身体が、一瞬、強張った。
「何があった!」
鋭く張り詰めた声が、神殿の広間に突き刺さるように響いた。
彼女が素早く振り向く。
鉄扉の奥、廊下の闇を割って姿を現したのは、一人の男だった。
年の頃は二十代後半。
短く刈り揃えられた黒髪は、戦場に生きる者らしい清潔さと、実用に徹した美意識を感じさせた。
整った輪郭に浮かぶ鋭い目は、知性と観察眼に満ちており、瞬き一つせず神殿の内部を見渡す。
肌は浅く白い。やや異国の気配を纏ってはいたが、その物腰には場違いな印象はなかった。
むしろ、この場の異常さを当然のように受け入れて立つその姿には、不思議な重みと統率力があった。
深紅の魔導ローブ。その胸には階級章が光り、同時に黒鞘の剣が腰に下げられていた。
術者でありながら剣士――。
魔術の理と剣術の現実を両立する者。
その立ち居振る舞いは、無駄を削ぎ落としながらも威圧に満ち、沈黙の圧力すら周囲に与えていた。
そして何より、その歩みは軽やかではない。
重い。
まるで、眼前の惨劇の意味を、言葉より先に察しているかのように。
足音すら、状況の重みを受け止めながら鳴っているかのように――。
「エルヴィナ殿、いったい何があった! なんだこの惨状は!」
男の声が再び響く。
その語調には怒りや焦燥ではなく、確認と分析の気配があった。
彼女。――エルヴィナは一瞬だけ視線を逸らし、深く息を吸い込んだ。
周囲の兵たちは押し黙り、瓦礫と死体と崩れた神殿の中で、言葉を呑み、誰もが息を潜めた。
崩れた神殿は、今なお沈黙という名の咆哮を響かせていた。