8.死雷
倒れ伏した隊長は、血に染まり、床に沈んでいた。
左足は、関節ごと完全に砕かれていた。
膝下は捻じ曲がり、痙攣するたびに皮膚がぴくぴくと波打っていた。“脚”としての原形を留めていない。
右の片腕も、肘から先が血に濡れ、剣を持つどころか、指一本動かせていない。
うつ伏せに潰れたその体は、もはや起き上がることすらできない。
それでもなお、男は顔だけを必死に持ち上げた。
唇は切れ、歯は砕け、口元からは血が泡を立てている。
それを押しのけるように、搾り出す声がひび割れた喉から漏れた。
「……申し訳、ござい……ません……ヴァルツァー様……想像を、遥かに……超えておりました……ッ……」
そこにあったのは、感情の澱ではなく、ただただ主君への忠誠だけ。
ただ、主君への忠誠――それだけが残されていた。
老人は、椅子に深く腰掛けたまま、その姿を見下ろしていた。
そして、薄く、笑った。
笑いは音を立てず、表情の変化にすぎなかった。
やがて、のろのろと――けれど無駄の一つもない動作で、老人は立ち上がる。
杖を支えに、一歩、一歩と壇上の縁へと進み出た。
まるで壊れた玩具を裏返して構造を確かめるような、冷徹な観察者の目だった。
「……なるほどのう。これは、なかなかの逸材じゃ」
口調には、かすかな感嘆の調べ。
だが、その実――感情など微塵もこもっていない。
目の奥には、評価も、期待も、慈悲もなかった。
あるのはただ、興味だけ。
その“もの”が使えるかどうか、動くかどうか、従うかどうか。
それ以外の価値など、初めから持ち合わせていない。
「性根も、なかなか歪んでおる……」
老人の声が、低く、神殿の空気に滲むように広がる。
「人を殺す目ではない。生きるために殺す目でもない。……まるで、殺しが“呼吸”のようになっとる」
淡々と語られるそれは、観察という名の宣告だった。
そのまま、一歩、杖の先をコッと鳴らして進む。
壇上の縁に立ち、見下ろすようにして、呟いた。
神殿の空気が、変わった。
重く、冷たく、粘性を帯びるように揺れる。
「惜しい逸材だが、扱えぬならば致し方ないのぉ……もし生き残ったら、治療して使ってやるわい」
その言葉には、生死の判断すら他者に委ねる支配者の横暴さがにじんでいた。
それがまるで、「駒の整備」でもするかのように、あまりにも当然のように語られる。
老人の杖が、空をなぞる。
その軌跡に合わせるように、空間がひずみを孕む。
ズゥ……ン……
床から、ゆっくりと、魔力の圧が立ち上がる。
血濡れた石の足元から天井へ向かって、眩く、精緻な魔法陣が現れる。
輪郭は赤紫にゆらぎ、幾重にも重なった術式の層が、螺旋状に展開されていく。
空間が、祈りのように響いた。
「《雷霊の咆哮よ、深淵より顕現せよ――》」
老人の呟きは、神殿の静寂を引き裂いた。
少年の瞳がかすかに揺らぎ、脳裏で警鐘が鳴り響く。
(これは……本物の殺意だ)
理解を越えて、身体が本能で反応した。
——爆ぜるような音が鳴る。
轟音が天井を揺らし、地響きのように床が震える。
神殿の柱が軋み、遠くの石壁に亀裂が走る。
少年は瞬時に判断し、血と肉片に滑る床を疾駆し、倒した兵士のひとりの傍らへ飛び込んだ。
腹ばいとなり、血の海に沈む死体の下へ、滑るように潜り込む。肉の断片と砕けた骨が、肌をこすった。
血濡れの鎧と肉塊が、簡易の“盾”となってくれた。
その只中で——
地に這う隊長が声を張り上げた。
嗄れ声が、絶望と忠誠心で震えている。
「ま、待ってくださ……いッ、ヴァルツァー様ッ……!」
椎骨が砕け、膝は砕骨。
それでも息を振り絞り、顔だけでも見せようとした。
「ま、まだ私は……ここにッ……! 動けませぬ、巻き込まれてしまいすッ……!」
砕かれた体には、二度と立つ力すら残っていない。
しかし、口から漏れるのは——絶対的な忠誠の賭けだった。
「やめてくれええええええええッ!!」
足掻きと絶望が混ざった叫びが、床瓦礫の中に消えていく。
その叫びが終わらないうちに、老人は静かに呟いた。
「《終刻の雷顎》!!!」
一段と深い声の響き。
それは単なる術式の名を越えた、“死の宣告”だった。
神殿の奥底まで光が刺し貫き、天井の天蓋は灼熱に焼き爛れ、轟音が大地の骨を震わせた。
轟音が天井を貫き、閃光が床を踏み鳴らす。
壁が砕け、天井が焼け焦げ落ちていく。
熱と衝撃が、一瞬で空間を吹き飛ばした。
人体も建築も、そのまま爆破されたかのように。
すべてが——殺意そのものだった。
少年の隠れていた死体の下で、甲冑がじりじりと音を立てて焼けていた。
ギチ……ギチチ……ッ……
肌に直接触れていた金属が灼熱を帯び、瞬く間に熱が皮膚へと達する。
ジュウッ……
鋼鉄が肉を炙り、白煙が立つ。隠しきれなかった右腕の一部が、あっという間に焼け爛れた。
焼けただれた右腕が、ジュ、と音を立てて泡立つ。皮膚が剥がれ、肉が縮み、脂が爆ぜて飛び散った。
「……ッ……が……ッ……!」
吐息すら声にならなかった。
口を開けば、喉の奥から焼けた血肉が溢れそうで、奥歯を噛み締めるしかなかった。
しかし――耐えた。
神殿に響いていた雷鳴の轟きが、ようやく消えていく。
視界は黒煙と蒸気に覆われ、焼け焦げた壁が軋みを上げながら崩れる。
砕けた石片が、ぱらぱらと床に転がり落ちる音が、耳の奥で虚しく響いていた。
焦げた肉と血の臭いが、空気を塗り潰している。
それはもう「臭い」というより、粘ついた気体が肺を満たしていく感覚だった。
少年は目を閉じたまま、息を潜めていた。
まるで自身の存在までも焼き切ろうとするような、殺意の余波を――ただ、やり過ごすために。
隊長の声は、もう、どこにもなかった。
爆裂の中心にいたはずのその男は、もう音を立てることすら叶わない。
老人は、杖を軽く突きながら、ゆっくりと壇上の縁まで歩を進めた。
その姿に、威圧感も焦燥もなかった。
ただ、焔の名残と煙が漂う中で、静かに足元を見下ろす。
「ふっ……くたばりおったか」
呟きは、どこか慈しむような響きすら帯びていた。
まるで眠る幼子に掛ける、寝息を確かめるかのような声音だった。
「ここを壊してはならぬと、加減したのじゃがの……流石に、あの威力では耐えられるわけがなかろうて」
淡く笑うその頬に、罪悪感のようなものは一片もなかった。
ただ、結果を観察し、納得し、片付けるだけの――そんな冷静さ。
壇上から見下ろす空間には、地獄の残滓が広がっていた。
石畳は剥がれ、縁の彫像は崩れ落ち、壁には黒く焼け焦げた痕が幾筋も走っている。
神殿の柱も一部が折れ、天井からは煤混じりの砂塵がまだ降り続けていた。
倒れ伏した隊長の身体も、爆風の余波で吹き飛ばされていた。
肩から下は瓦礫の山に埋まり、かろうじて誰かわかる程度だ。
老人は目を細め、わずかに首を巡らせて周囲を見渡した。
焼けた鉄と肉の匂い。
砕けた石と魔力の焦げ痕。
ぴくりとも動くもののない、絶対の静寂。
「惜しかったのう……」
その口調に、ほんの一滴だけ“感情”のようなものが混じる。
が、それもすぐに笑みとともに霧散していった。
「あれほどの逸材……うまく飼いならせば、なかなかの駒になったものを」
呟くように言い、彼は杖を軽く前に滑らせる。
その瞬間――死の沈黙を切り裂くように、少年が飛び出した。
崩れた死体の山を蹴り上げ、黒煙を突き破る。
血と煤にまみれたその身体は、右腕は皮膚が剥がれ、焼け爛れた肉と筋がむき出しになっている。
左足も火傷で皮膚が裂けていた。
だが、その動きには――一片の躊躇も、痛みの色もなかった。
疾風のように駆ける。
「……なっ――!?」
老人の双眸が、見開かれる。
理解より先に、否定が脳裏を支配する。
ありえない。
死んだはずだ。確かに殺した。
常人だったら死んでいるはずだ。
だが――それでも。
その“何か”は、生きていた。
ヴァルツァーは、即座に詠唱を開始する。
指先を掲げ、杖を振るう。
「《雷霊の咆哮よ、深――》」
しかし――その言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
少年は、もうすでにいたのだ。
杖を振り上げる腕の内側、老人の懐のただ中に。
踏み込む一瞬の間に、全身の筋肉が蠢く。
焼け爛れた右腕の肉が裂け、皮膚が破れる。
骨の上を走る腱が、軋む音を立てた。
――そして。
ゴシャッ――メリメリィッ!!
拳が、真っ直ぐに突き上げられる。
老人の顎を、真正面から撃ち抜く。
瞬間、耳をつんざくような骨の破砕音が響いた。
砕けた歯が飛び散り、顎が脱臼し、関節が音を立てて崩れ落ちる。
顎関節が崩れ、喉元から上の形が歪んだ。
ひっそりとタイトル変えてやったぜ