7.バケモノ
一番近くまで寄っていた兵士が、無警戒に手を伸ばす。
その指先が、少年の肩に触れようとした――まさにその瞬間だった。
ゴギュッ!
乾いた断裂音が、神殿の空気を裂いた。
男の膝が、あり得ない方向にねじ曲がる。
少年は一歩踏み込み、体重ごと踵を振り下ろし、膝裏の装甲継ぎ目を正確に撃ち抜いていた。
「ぐはッ……!?」
膝が逆関節に折れ、男の身体が崩れ落ちる。
その背後へ素早く回り込むと、少年は兜の縁に指をかけ、喉元の留め具を力ずくで引きちぎった。
金具が弾け飛び、むき出しになった顔面に――
ベギィッ! ドゴォッ!
肘の一撃が顔面を潰す。
鈍い破裂音。鼻が潰れ、歯と目が飛び散る。。
悲鳴すら出せないまま、男の頭蓋が沈み込み、地に崩れ落ちた。
「えっ……?」
「お、おいまさか素手で……?」
兵士たちの顔に浮かんでいた余裕が、見る間に剥がれていく。
その隙を、少年は逃さなかった。
二人目の兵士へ走り込む。
腰の剣に手をかけた男の胸元を――
ドンッ!
肩で突き上げる。
鎧の鉄板が軋み、男の体が後ろに仰け反る。
そのわずかな隙に、脇腹の装甲の隙間へ、拳を深くねじ込んだ。
グチュッ!
砕ける音。
内臓の、骨の、湿った崩壊の音。
男が咳き込もうと口を開いた瞬間、少年は足元から落ちていた兜を拾い上げる。
フルスイング。
グシャアッ!!
兜の鉄が肉を潰し、側頭部が変形する。
血が噴き上がり、肉片が跳ねた。
男の首が傾き、頭の形を失ったまま倒れた。
三人目の兵士がようやく剣に手を伸ばす――が、その手が微かに震えていた。
少年は倒れた兵の剣を拾い上げる。
まだ鞘に収まったまま、それを逆手で握り、喉へ向かって一閃――
ガフッ!
柄が喉にめり込み、声帯を潰した。
男が膝をついた瞬間、少年は冷徹に動く。
剣を逆手のまま、鞘を捨て脛当てと膝の隙間へ、刃を押し込んだ。
ズバッ! ググッ……バキャッ!
裂ける肉、砕ける骨、濁った断末魔。
兵士が悲鳴とともに地に転がるその背へ、少年は迷いなく剣を振り下ろした。
ズブッ、ズブブッ、グシャッ!
鉄の刃が鎧を裂き、肉と臓腑の中をかき混ぜる。
濃密な血飛沫が、少年の頬に跳ねる。
足元には、すでに血の湖が広がり始めていた。
最後の一人。
その顔には、もはや怒りも警戒もなかった――純粋な恐怖だけが浮かんでいた。
「ま、待て……!」
言葉が震える。
剣を抜き、距離を取ろうと後退し始めた――が。
その前に、少年の姿があった。
ギィン!
剣と剣が交差する音。
だが、その一合を凌いだ直後、少年の足が横から鎧の腹部をえぐるように蹴り込んだ。
ボギュッ!
腹部の内側がぐしゃりと潰れる感触。
呼吸が止まり、男の目が見開かれる。
そこへ――顎の下から、剣の切っ先。
ゴポッ……ッ!
刃が喉を貫き、口蓋を割り、脳天まで突き抜けた。
白目を剥いた男が、がくがくと痙攣しながら、その場に崩れ落ちた。
神殿の床は、血と肉塊、吐瀉物、砕けた骨の残骸で埋まっていく。
赤黒く染まる石の床には、蒸気のような血の匂いが立ち昇っていた。
すべてを飲み込んだ神殿に、音が消えた。
血の滴る音すら、どこか遠くに感じられた。
少年は、血に濡れた剣を床に落とした。
表情は、ただ“空”だった。
怒りでも喜びでもなく、そこに“感情の器”が存在していないようだった。
呼吸ひとつ乱すことなく、ただ――そこに“在った”。
隊長は、足元の死骸を一瞥した。
石の床は、すでに血の湖と化している。
だが、その光景に眉一つ動かすことなく、隊長は静かに口角を上げた。
「ほう……」
声には、驚きも憤りもなかった。
むしろ、どこか愉悦に近いものが滲んでいた。
「お喜びください、ヴァルツァー様。どうやら、ただの肉壁で終わる男ではなさそうですな」
高座に座る老人――ヴァルツァーは、目を細めた。
長いまつ毛の奥で、瞳がわずかに弧を描く。
そして、椅子の背もたれに体重を預けながら、喉の奥で含み笑いを漏らした。
「ほほほ……部下が四人死んでおるのに、よいのかの?」
まるで孫にいたずらを見せられた祖父のような声音だった。
しかし、その目には冷たい光が宿っていた。
喜びではない。期待でもない。
**“面白がっている”**だけだった。
隊長は一歩も引かない。
むしろ誇らしげに、平坦な口調で言い切る。
「兵など、使い捨てでよいのです。我らに必要なのは“力”だけ」
その言葉には、命というものに対する根本的な軽視が滲んでいた。
役に立たない者は死ねばよい――その思想が、あまりにも自然に言葉として形を成していた。
「あの者一人で、死んだ四人の代わりに十分になれるでしょう」
視線が、血濡れた少年に向けられる。
その言葉を受けて、ヴァルツァーは鼻を鳴らすように笑い再び、細い目が少年を射抜くように見つめる。
その視線には、初めて“値踏み”ではなく、“興味”の色が混じっていた。
隊長は一歩、血の海に足を踏み入れた。
皮のブーツが、赤黒く濡れた石床に粘つくような音を立てる。
そのまま、ぬかるんだ床を踏みしめながら、少年の前に転がっている兵士の死体を見下ろす。
頭蓋が凹み、顔が潰れ、胴体の中身が溢れ出た肉塊。
隊長はそれに目をやると、ふっと鼻で笑った。
哀れみでも、嘆きでも、悔しさでもなかった。
ただ、滑稽だというように。
少年の足が、石床を叩いた。
バチンッ!
小さな接地音。だが、その瞬間――空気が揺れた。
神殿の床が、まるで弾むように跳ね返る。
ギンッ!
金属音が弾ける。
隊長が抜き放った剣が、少年の斬撃を正面から受け止めていた。
剣と剣が噛み合い、火花が跳ねる。
そのまま力を競る――かと思えば、次の瞬間、少年は力を引いた。
反撃の斬撃は、こない。
隊長の目が細くなる。
斬り合いの“流れ”が断たれたことに、一瞬、意識がズレる。
その刹那――少年は迷いなく一歩踏み出し、腕と体幹のひねりを同時に叩き込む。
切っ先は、鋭い矢のように喉元をなぞった。
「……ッ!」
隊長が咄嗟に首を引く。
ギィッ!
耳を刺すような擦過音とともに、金属の喉当てに斜めの裂け目が刻まれる。
刃先は肉に届かない――しかし、わずかに血が滲んだ。
隊長は呼吸を整えながら、足元の重心をずらす。
右手の剣を振りかざしながら、左脚で鋭く足払いを仕掛けた――だが。
その前に、少年の身体が空中にいた。
まるで、動作を予知していたかのように。
片足が、隊長の肩を踏むように乗る。
そのまま身体をひねりながら、背後へ跳び回る。
その軌道の途中――
ガンッ!
逆手に構えた剣の柄が、兜の天頂へ直撃。
乾いた鈍く冷たい金属音が炸裂し、隊長の首が一瞬、僅かに沈む。
「……!」
隊長がわずかに息を呑む。
すぐさま体を震わせて肩を跳ね上げ、背にいた少年を振り落とす。
少年の身体が宙を舞い、地を転がる。
しかし、即座に立ち上がる。
血で濡れた石床の上で、足が滑ることもない。
まるで自身の体重すら意識していないかのように、剣を構える。
そして、地を蹴る。
低く、素早く。
刃の先が、隊長の膝裏の隙間を狙って滑り込んだ。
ギギギギ……!
鈍い摩擦音。
装甲の隙間を、剣が押し広げるように侵入する。
硬い。
だが、金属と肉の間にわずかに刺さった感触が、手に伝わってくる。
隊長の体が、一瞬よろめく。
すかさず少年は跳び退く。
刀身に返り血を乗せたまま、構えを取り直す。
剣先は低く、だが鋭く。
次の攻撃に備えるでもなく、常に“切りかかれる間合い”を保っていた。
隊長との距離は、数歩。
そのわずかな空間に、言葉の隙間が生まれる。
「……まさか、ここまでとはな」
隊長が初めて、言葉をこぼす。
声は驚きではなかった。
むしろ、淡々とした口調の中に――微かな感嘆があった。
男はまだ、余裕を失っていなかった。
沈着に、左手を掲げる。
「《強化せよ》――!」
空気が震えた。
詠唱の刹那、男の体表に、赤い魔術紋が浮かび上がる。
それは血管のように、腕から肩へ、首筋から顔面へと広がり、鎧の隙間からも淡い光がにじみ始めていた。
魔法の起動。身体強化の術式。
そのわずかな発光を、少年の眼がとらえる。
(あれが嫌な感じがする)
意識する前に、身体が跳び出していた。
一歩。二歩。三歩。
間合いが消える。
「――ッ、速いッ!?」
男が声を上げるよりも早く、少年は目前に迫っていた。
さっきまでとは違う。質が違う。
反応が、間に合わない。
魔力が全身に巡る前に――
ガッ!
男の剣が、反射的に横薙ぎに振るわれた。
だが、そこにはもう少年の姿はない。
少年は、しゃがみ込んでいた。
矢のような動きで、男の懐に滑り込んでいた。
そして――
ガギギィィッ!
剣の切っ先が、膝関節の装甲の間に突き込まれる。
強化の術式がまだ完全に発動していない。
肉と骨の間に刃が食い込み、関節が砕けた。
「ぐっ……あああああッ!!」
悲鳴が、鉄と血の匂いの中で響く。
男の片膝が地を叩く。
だが、少年は止まらない。
赤い紋様が、まだ光を強めようとしていた。
少年は、その腕を掴んだ。
がっしりと、逃がさぬように。
そして、地面へ叩きつける。
ドガァッ!
重金属がぶつかり合うような音。
神殿の石床が割れるほどの衝撃。
男の背が弓なりに跳ね、そのままうつ伏せに沈んだ。
魔法は――そこで止まった。
発動は、完遂されなかった。
赤い紋様の光が、にじむように消える。
男はかろうじて呼吸していた。
だが、指一本、動かす力も残されていない。
その目だけが、呆然と見開かれていた。
少年を見ていた。
まるで、そこに立つものが“人間”であるかどうか、確認しようとしているかのように。
「……ッ、バケモノめ……」
吐き出されたのか、溢れたのか、分からない。
呟きのような言葉が、鉄と血の臭いの中に溶けて消えた。
思ってたより見てくれてる人がいて嬉しいです