6.失望の召喚
老人は、ひとつ咳払いをしてから、椅子に深く腰を沈めたまま、少年に尋ねた。
「……“てれび”や“まんが”といった、奇妙な言葉を耳にしたことは?」
少年は目を細めた。
その問いに込められた意図を探るように、ほんの一瞬、思考の水面がわずかに揺れる。
――知らない。聞いたこともない。
首を、ゆっくりと横に振る。
「……? なんだ、それは」
その言葉の響きに、どこか別の世界の空気があった。
聞き慣れぬ言葉ではない。だが“この世界”で聞くべき音ではないような、そんなちぐはぐさが、耳の奥に残る。
「むむ……やはり、今回の召喚はハズレだったようじゃのう」
老人は芝居がかったように肩をすくめ、長い溜息を吐いた。
その目には落胆があり、それ以上に、期待を裏切られた子どもを見るような諦めがあった。
「見た目も見窄らしいし、異界からの来訪者ではなく、この世界の底辺の生まれか……残念じゃのう……なかなか当たらんのじゃ、当たりは」
言葉に混じるのは、倦怠と虚無。
数多の召喚を繰り返してきた者の口ぶりだった。
だが、その嘆きはあくまで独白のようなもので、少年に対する断定ではなかった。
まるで、まだ「可能性」に対する未練が、どこかに残っているかのように。
老人はふと、わずかに首を傾け、言葉を継いだ。
「……まぁ、よい。召喚されたということは、それなりの“才”はあるのであろう。世界の狭間が反応したということじゃからな」
その口調には、先ほどまでの失望とは別種の響き――
慎重な探索者のような、観察者の眼差しが宿っていた。
少年の背後にあった大理石の床に、老人の視線がふと落ちる。
その視線の先には、少年が立っている場所を中心に、ほんのかすかに光を放つ魔方陣の痕跡があった。かつて何かが“確かに”発動されたことを示す、薄く焼け焦げたような灰色の紋様。
老人は、それを一瞥すると、今度は隣に控えていた屈強な男――
銀の鎧をまとった、恐らくこの神殿の守り手か、あるいは兵団の隊長格と思われる人物に声をかけた。
「はっ、ヴァルツァー様」
隊長格の男が、膝を折って恭しく頭を垂れる。
その声には忠誠と冷淡さが同居していた。
「確かに体格は良いようですが、粗野な所作と、反応の鈍さ。言葉を交わすまでもなく、察せられます。己の才能を開花させることもできず、せいぜい肉壁として消耗されるのが関の山かと」
彼の言葉には、侮蔑でも怒りでもなく、ただ“価値の見積もり”としての静けさがあった。
まるで熟しすぎて崩れた果実を摘み取る前に、指先で潰して確かめるような――そんな冷ややかな目が、少年の全身をなめるように這う。
その視線を、少年は黙って受けていた。
反応はない。ただ、睨み返すでも、逸らすでもなく、まっすぐに見返している。
だが、そのまなざしの奥には、何の感情もなかった。
軽蔑もなければ、屈辱もない。ただ、目の前のものを“見る”という、行為だけがそこにあった。
……それがかえって、不気味さを際立たせていた。
「……まぁ、それもそうかの」
ヴァルツァーと呼ばれた老人は、乾いた笑いをひとつ吐くと、杖の先を軽く床に打ちつけた。
石の床を叩く音が、カン、と短く響く。
「せっかく“当たり”を引いたと思ったら、根がヘタレで何の役にも立たんこともあった。なぁに、見た目で判断できるものでもないわい。……今回は、どうじゃろうかのぉ」
老人の目は笑っていない。
その表情には、何人もの“失敗”を踏み台にしてきた者だけが持つ、冷ややかな諦観が滲んでいた。
「うちの兵団で、可能な限り育成はしてみましょう。しかし、あまり期待はなさいませんよう」
隊長の男は、声の調子を変えることなく言い切った。
未来を信じていない人間の口調だった。希望を持たぬ者の、それでも粛々と任務を果たす兵士の言葉。
「……そうじゃな。ならば――さっさと隷属させてしまうか。連れてこい」
老人が小さく、指をひと振りする。
その合図は、明確な指令だった。
言葉はいらない。兵たちは即座に反応する。
鎧の継ぎ目がきしむ音とともに、四人の兵士が、無言のまま少年に向かって歩み出る。
まるで訓練された犬のように、迷いなく、無駄なく、動きに無駄の一つもない。
重々しい足音が、神殿の床に広がった魔法紋の痕跡を踏み鳴らしながら、じわじわと迫る。
少年の前に、冷たい緊張の幕が引かれる。
それは、突如として“人”ではなく“道具”として扱われ始めた者に訪れる、皮膚の裏をひやりと撫でるような気配だった。
少年は、目前まで迫ってくる兵士たちを、ただ黙って見つめていた。
足取りは洗練されていて、動きに迷いはない。
武器こそ抜いてはいないが、その体からは、はっきりとした“敵意”が滲んでいた。
(……なんだ。こいつらは)
理解できなかった。
誰なのか。どこから来たのか。なぜ、自分を囲むように歩み寄ってくるのか。
理由も、目的も、すべてが見えない。
まるで見知らぬ言語を浴びせられているかのように、頭の中にノイズが散っていく。
目の前の老人が、この場所の“主”であることは、直感が告げていた。
目の奥に宿る光。わずかな指の動きで周囲を動かす威圧感。
あれは、権力者のものだった。否応なく理解させられる、支配者の気配。
だが、口から出る言葉のほうは――どこか現実から“ずれていた”。
「召喚」
「異界の来訪者」
「隷属」
そのひとつひとつが、まるで夢の中の言葉のように、意味を持たず、肌に馴染まなかった。
(俺は……呼ばれたのか? 魔法で……?)
思考が、その言葉にようやく輪郭を与え始める。
――直前まで、自分は“あの場所”にいた。
石で囲まれた地下の牢。空気は淀み、壁は冷たく、床には血の臭いが染みついていた。
そこで、自分は眠っていた。まどろみの中で、わずかに目を閉じ――そして次に気づいた時には、もうこの場にいたのだ。
神殿のような、石造りの大広間。
高い天井に、浮かぶような光の帯。
兵士、老人、そして意味のわからぬ言葉と、冷たい目線。
――あの浮遊感。
あの、視界を染める緑の閃光。
重力が裏返り、全身を糸で引き裂かれるようなあの感覚。
(魔法……そうか。あれも、こいつらの仕業……)
ゆっくりと、点と点がつながり始めていた。
呼ばれたのだ。どこか、別の場所から。
地下の牢を抜ける方法などなかったはずの自分が、こうしてここにいるという事実。
その異常のすべてが、ひとつの線となって――“理解”の輪郭を浮かび上がらせた。
だが。
その理解が深まれば深まるほど、別の感情が、胸の内をじわじわと浸食していく。
怒りでもなかった。
恐怖でもなかった。
(……ちがう)
少年は自問する。
これは、何だ?
喉奥に引っかかる、言葉にならない“感情”。
(――困惑、だ)
それは、説明のつかぬ出来事が、理屈で追いついてしまった時にこそ生じるものだった。
自分がいま、確かに“異常”の中にあるということ。
その異常を、自分が理解し始めてしまっているということ。
理解した瞬間に、足元が崩れる。世界の軸が、ひとつひとつ裏返っていく。
周囲の兵士たちが、さらに一歩、距離を詰めてきた。
今、はっきりとわかるのは――
このまま流されれば、ろくなことにならないということだけだった。
少年は、わずかに目線をずらし、静かに周囲を観察した。
心拍は静かだ。冷静さを欠いていない。
それが逆に、状況の異様さを際立たせていた。
敵は、六人。
奥、壇上の高座には老人。その前に、鎧を纏った隊長格の男。
さらに、少年との距離を徐々に詰めつつある四人の兵士たち――。
ざっと見渡して、隠れている者はいない。
だが、その事実は何の安心にもならなかった。
兵士たちの足運びには一切の迷いがなく、身じろぎ一つに無駄がない。
それは、獣のような戦闘本能――“狩り”に最適化された者の動きだった。
背後には、大きな鉄扉。
滑らかな曲面に金属の象嵌が彫り込まれ、まるで神殿の心臓部を塞ぐ封印のように立ちはだかっている。
分厚く、堅牢。
突破はおろか、開くのを待つ間に背を晒せば、即座に叩き伏せられるだろう。
仮に運良く扉を越えられたとしても――
その先に待つのが「外」なのか「檻」なのかは、わからない。
(――逃げ道は、ない)
そう結論づけるのに、時間はかからなかった。
選べる道は、ほとんど残っていない。
けれど、だからといって――黙って捕まるつもりもなかった。
無為に従えば、待っているのは“隷属”だ。
目の前の者たちの態度から、それがどういう意味か、察するのに難しくはなかった。
命を奪われることよりも、自我を奪われる方が恐ろしい。
それだけは、本能が拒絶していた。
刃を見せぬまま、靴音だけが忍び寄る。無表情の仮面に浮かぶのは、“必ず命令を遂行する”という確信だった。
明らかな油断――だが、それは侮りではなく、確信からくるものであった。
少年が“反撃などできるはずがない”と、心から信じている者の顔だった。
「動くなよ。すぐ終わる」
ひとりが、そう口にした。
声は穏やかで、まるで親切心でもあるかのようだった。
だが、その優しさの裏にあるのは、“獲物への慈悲”だ。
死なせるつもりもない。ただ、捕らえて――壊さないように、押さえ込む。
長くなりすぎて分けたのでこの後すぐ次を投稿します。