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5.呼ばれし者

 「……ん?」


 喉の奥から、自然と声が漏れた。


 身体が、ふわりと浮いた。

 重さというものが、足元から抜け落ちたような感覚。

 だがそれも一瞬のことで、すぐに別の“力”が生まれる。


 今度は、見えない糸に全身が引き上げられるようだった。

 緩やかな浮遊ではない。ぐん、と急激な牽引。

 重力の向きが反転し、自分だけが地上から断ち切られたような――そんな理不尽な動きだった。


 反射的に身を起こそうとする。

 だが、寝台の感触はもうなかった。

 背中にあるはずの冷たい鉄の硬さも、湿った石の匂いも、すべてが消えていた。


 「……なんだ、これ」


 声が、音として返ってこない。

 喉から空気は出ているはずなのに、耳に届くのは、ぼんやりと濁った響きだけだった。


 まるで、水の中にでもいるかのようだった。


 周囲が、歪んでいる。

 目を開いているのに、視界が焦点を結ばない。

 闇とも光ともつかない何かが揺らめき、空間そのものが揺れていた。


 耳鳴りのような低い振動が、頭蓋の内側を叩く。

 鼓膜ではなく、骨伝導のように響いてくる不快な震え。

 それが、徐々に大きくなっていく。


 “空間が鳴っている”。

 そんな言葉が、なぜか脳裏をよぎった。


 だが、恐怖はなかった。

 何かが起きている――ただ、それだけだった。


 夢だ――そう思った。

 だが夢だとしても、この感覚はあまりに生々しかった。


 皮膚に残る圧力、胸を締めつけるような締めつけ、空気が喉奥でざらつく感覚。

 どれひとつとして、夢の中で感じる“それらしさ”ではなかった。


 いつしか、視界のすべてが暗闇に沈んでいた。

 光は完全に途絶え、耳に届く音も、自分の心臓の鼓動だけになっていた。


 その音すら、やがて遠くなる。

 まるで自分自身が、身体という容れ物から剥がれ落ちていくような錯覚。


 終わりのない深淵に、ひとりきりで沈んでいく――

 そんな得体の知れない恐怖が、ゆっくりと、じわじわと、胸の奥に広がっていった。


 上に引っ張られていたはずの感覚は、いつの間にか反転していた。

 落ちているのか、浮かんでいるのか、自分でもわからなかった。

 上下も、前後も、身体の形すら定かではなくなっていく。


 ただ、真っ暗な空間を、音もなく――

 無限に沈んでいるようだった。


 どこまでも、終わりなく。


 だが――その時だった。


 唐突に、世界がぱっと光に包まれた。


 


  それは蛍光のような、緑色の光だった。


 暗闇のただ中に、ぽつりと浮かび上がるそれは、

 最初、ただの光の粒にすぎなかった。


 だが、やがて形を持ちはじめる。


 線が生まれ、円が描かれ、複雑な角度で交わっていく。

 無数の三角が回転し、螺旋のように拡張し、再び収束する。

 まるで自律的に思考し、呼吸しているかのように、光の紋様は絶え間なく姿を変えていく。


 構造を持った“何か”――そうとしか言いようがなかった。


 その模様は、少年の周囲を取り巻いていた。

 距離も速度も、定かではない。ただ、確かに“自分を中心に”存在しているのだと、身体のどこかで理解できた。


 「……いったい、何が起こってるんだ」


 思わずこぼれた声が、耳の奥で二度、三度と反響する。


 自分の声でありながら、どこか他人のようだった。

 響きすぎて、音が音としての輪郭を失っていた。


 全身を包んでいた“力”が、ふっと消えた。

 それはまるで、深い海の底から水面へと一気に浮上するような――息ができるような感覚だった。


 浮いているのか、落ちているのか――

 その曖昧な感覚も、次の瞬間、完全に断ち切られた。


 足元には、確かな「地面」があった。

 石のようでいて、しかし石ではない。

 硬質なのに、どこか空気のように軽く、触れているのに感触が希薄だった。


 (どこだ、ここ……?)


 本能が警鐘を鳴らす。

 夢の中だと、そう片づけるには、あまりに空気が濃すぎる。音がない。匂いもない。だが、五感は冴えていた。


 目の前に広がるのは――神殿のような空間だった。


 もちろん、少年自身が本物の神殿を見たことがあるわけではない。

 けれど昔、誰かが語っていた“神殿”の姿と、目の前の光景はあまりにもよく似ていた。


 高く伸びた天井。

 壁を飾る幾何学的な模様。

 空間全体に満ちるのは、異様なほど澄み切った空気――

 それは呼吸をすることすらためらわせるほど、静かで、神聖だった。


 どこか現実離れしている。

 だが、そのすべてがやけに鮮明だった。

 床を踏む感触、鼻腔をくすぐる冷たい空気、遠くから聞こえるかすかな振動音。

 すべてが現実と同じ密度でそこにあった。


 石造りの壁には、先ほど目にした蛍光緑の模様が浮かび上がっている。

 それらは脈動するように静かに明滅しながら、壁面を伝い、空間を照らしていた。

 ただの光ではない。生き物のような、律動のある輝きだった。


 視線を前へと移すと――


 空間の奥、祭壇を囲むようにして、六人の人影が整然と並んでいた。


 その最奥。

 壇上の一段高い席に、ひとりの老人が座していた。


 長く伸びた白髪は、丁寧に後ろで束ねられている。

 額には金で象られた環状の飾りがはめ込まれ、鈍い光を宿していた。

 身にまとう深紅のローブは重たく、その裾は床に触れるほど深く垂れている。

 胸元には魔法紋と思しき装飾が、複雑に組み込まれていた。


 その手には、黒檀で彫られた長杖。

 金の螺旋細工が巻かれたその杖の先端には、紫水晶が嵌め込まれており、沈黙のうちに鈍く光を放っていた。

 ただそこにあるだけで、空間を律しているような気配があった。


 そしてその目。

 老いの色を湛えながらも、その眼差しはなお鋭い。

 深く、計り知れず、慈しみと残酷――矛盾する感情を併せ持つような、静かな光がそこには宿っていた。


 老人は、語らずとも「中心」だった。

 この場を支配する意思の象徴として、他の誰にも届かぬ高みに在る存在として――静かに座していた。


 その老人のすぐ手前――

 ひとつ壇を下りた位置に、ひとりの男が立っていた。


 全身を包むのは、黒と銀を基調とした豪奢な甲冑。

 肩口には紋章入りの金装飾が施され、背には深緑のマントが風もないのに静かにたなびいている。

 姿勢は直立不動。それでいて、その肉体からは、ただ“立っている”だけでは済まされぬ気迫が漂っていた。


 風格。威圧。

 その立ち姿だけで、凡百の兵とはまったく別の位にあることがわかる。


 将――あるいは貴族階級の軍人。

 この場における実質的な指揮権を握る者であることは、言葉などなくても明らかだった。


 そして、その男のさらに手前。

 少年と最も近い位置に、四人の兵士が横一列に並んでいた。


 全員が同じ型の鎧をまとい、身じろぎひとつ見せずに静止している。

 だが、その静止は怠慢ではなく、極限まで鍛え上げられた制御の結果だった。


 脚の開き、肩の角度、剣への手の添え方――

 そのすべてが統一され、あまりにも無駄がない。

 呼吸のリズムすら揃い、わずかな乱れもない。


 明らかに、コロッセオで見かける粗野で乱暴な兵士たちとは違っていた。

 彼らは“選ばれた兵”だった。命令があれば、迷いなく斬る。

 目の前の少年とて例外ではない――そう、構えが語っていた。


 奥から順に、老人、将軍と思しき男、そして精鋭の兵士たち。

 その配置は、あまりにも整っていた。


 まるで、これから始まる何かの“幕”に向けて、役者が舞台に揃い踏みしたかのように。


 (どうして、こんな場所に――)


 少年の胸の奥に、小さな疑問が生まれていた。

 どこか現実離れしている光景。


 しかし不思議なことに怖れも、焦りも、完全には湧き上がってこない。

 まるで、そうなることを身体があらかじめ知っていたかのように、静かに、淡々と状況を受け止めている。

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