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4. 終わりのない、終わり

 「決まったァァッ!! これだよこれぇッ!!」

 「ハハハ! やっぱり九十二番しか勝たんッ!!」

 「クソがあああああああああ!!! 俺の金がああああ!!!」

 「くそ……クソッ……! 一攫千金を夢見て賭けるんじゃなかった!!」

 「首だッ! 首が飛んだァァァ!!! 血ぃ見たかッ!? 見たかお前らァァ!!」

 「うわあああああ最高だァァァッッ!!!」


 勝負が決まった刹那、一拍遅れて、観客たちが火を浴びたように咆哮を上げた。


 歓声、悲鳴、怒号。

 コロッセオの観客席は、噴火のような衝撃と熱に包まれ、ぐらりと揺れた。

 誰もが立ち上がり、拳を突き上げ、札を叩きつけ、杯をひっくり返す。


 その中心で、首を跳ね飛ばされた男の身体がまだ痙攣していた。

 血を流し、地に伏した亡骸のすぐ傍で、群衆は歓喜し、絶叫し、打ちひしがれていた。


 その狂乱の中、少年は振り返ることもなく歩き出す。

 何も見ず、何も聞かず、ただ粛々と足を運ぶ。


 肩に担いだ大剣の重みは、もはや骨や筋肉の延長だった。

 刃には乾きかけた返り血と、わずかな肉片がこびりついている。

 それらが風に吹かれ、音もなく、静かに剥がれ落ちていく。


 石で囲まれた通路に入ると、外の熱気は徐々に途絶えた。

 音も、光も、熱も、背後に置き去られ、世界の質感が変わる。


 通路には兵士たちが控えていた。

 だが誰一人として、言葉を発する者はいなかった。

 陰に隠れるようにして、彼が通り過ぎるのを待っている。


 その中の一人が、おずおずと壁際から一歩前に出た。

 緊張にこわばった顔、濡れた唇、震える手。

 視線を合わせぬまま、喉の奥から絞り出すように言った。


 「……お、預かります」


 少年は返事をしない。ただ無言のまま、大剣を横に持ち直す。


 それが“預ける”という合図なのだと、兵士はようやく理解した。


 恐る恐る両手を差し出す。

 鍛えた腕のはずなのに、剣が乗せられた瞬間、肘がわずかに沈んだ。

 重量だけでなく、刃から漂う血と肉の臭気が、皮膚を通して内臓にまで染みる。


 「っ……」


 兵士は思わず呻く。だが声には出さない。

 重さに耐えるように両足を踏ん張り、ぶれる刃を抱え込む。


 少年は一瞥すら与えず、ただそのまま歩き続けた。

 兵士の恐れも、気遣いも、尊敬も、何ひとつ彼には届かない。


 後ろで聞こえたのは、兵士がようやく吐いた小さな息だけだった。


 やがて、通い慣れた鉄の扉が見えてくる。

 鍵が回され、内側からゆっくりと開かれる。

 錆びた格子戸が軋む音が、通路に染み渡るように響いた。


 少年は足を止めることなく、そのまま中へと入る。


 鉄格子が閉まる音が背後で鳴った瞬間、再び静寂が戻った。


 そこは彼の“部屋”だった。


 変わり映えのない、冷たく、湿った石の檻。

 灰色の壁、ひび割れた床、薄布をかぶせただけの鉄の寝台。


 誰もいない。音もない。

 だが、それが“いつも通り”であることを、少年は知っていた。


 寝台の端に腰を下ろすと、鉄の冷たさがゆっくりと皮膚に沁みてきた。

 血と汗に濡れた衣服が、体の輪郭を曖昧にする。


 顔にも腕にも、まだ返り血が飛び散っていた。

 視界の端で、睫毛にこびりついた黒い粒がちらつく。

 けれど少年は、それを拭おうとすらしなかった。


 どうせ、しばらくすれば誰かが水と布を持ってくる。

 それがこの部屋の“手順”だった。


 彼はただ、石壁を見つめる。


 意味を持たない染み、刻まれた無数の傷痕、押し潰されたような時間。

 そのどれにも感情は宿らない。だが、彼はそれらを知っていた。


 知らず知らずのうちに、まぶたがわずかに下がる。


 眠気ではない。疲労でもない。

 ただ、身体がすべてを遮断しようとしているだけだった。


 今日もまた、何も起きなかった。

 ただ、殺して、戻ってきただけ。


 それが、この少年の日常だった。 


 試合の熱狂も、悲鳴も、賭け札を握りしめて絶叫していた群衆の声も、すべてが今は遠い過去のようだった。

 少年は、いつものように無言で寝台に腰を下ろしていた。


 石の壁、錆びた鉄格子、薄く湿った空気――何ひとつ変わらない。

 勝ったからといって褒美が出るわけでもないし、誰かが労いの言葉をかけてくれるわけでもない。


 勝って、生き残って、ただ戻ってくる。

 それが、ここでの「日常」だった。


 ほどなくして、通路の向こうから微かな足音が近づいてきた。

 少年は顔を上げない。扉の向こうの人影が、鍵を回して格子をほんの少し開ける。


 兵士が、いつもの桶と布を持っていた。

 中を覗き込むこともなく、黙って足元に置くと、すぐに立ち去っていく。

 目を合わせようとはしない。声もない。動作だけが義務のように滑らかだった。


 少年は桶に手を伸ばし、布を濡らして、顔を拭った。

 額、頬、顎の下――返り血はまだ温もりを残していたが、それが冷めるのに、時間は要らなかった。


 だが、動きは雑だった。

 丁寧さはない。汚れが落ちれば、それで十分。

 心を込める余地など、この部屋には存在しない。


 やがて灯りが落ち、鉄の扉の向こうから、静かに鍵の回る音がした。

 それが、この空間の夜の合図だった。


 少年は鉄格子越しに、明かり取り窓を見上げる。

 その先には、天井に空けられた狭い開口部から、月光が一本、細く差し込んでいた。


 記憶をたどれば、最初からずっとそうだった。

 この天井と壁と床しかない石の部屋が、自分にとっての「世界」のすべてだった。


 ここ以外に何があるのか、少年は知らない。

 だが――外の世界を語る声を聞いたことがあった。


「ここでの食事が嘘みたいにとてつもなく美味い食べ物があるらしい」

「城っていう、とてつもなく大きくてきれいな建物があるんだと」


 誰が言っていたかは思い出せない。ただの噂話かもしれない。

 それでも、その言葉は耳に残り続けていた。まるで、耳の奥に引っかかった小石のように。


(……生まれた時は、どうだったのだろう)


 こんな石の部屋ではない、もっとあたたかい場所にいたのではないか。

 風が吹き抜け、光にあふれた場所。誰かのぬくもりのあった場所。


 自分が生まれた場所も、そうであってほしい。

 ほんの一瞬でいい――なにか、美しいものを見たことがあると、信じたい。


(……今日は、もう終わりか)


 誰に聞かせるでもなく、心の中でそう呟く。


 ――本当は、逃げ出したかった。


 こんな場所、誰だって嫌に決まっている。

 鉄と血と石に囲まれ、殺して、生きて、また殺す。

 喜ぶのは観客だけで、死ぬのはいつも、自分たちのどちらか。


 少年とて、その地獄から逃れたいと願った夜が、いくつもあった。

 鉄格子の外に出る方法を考えた。

 誰にも気づかれず、この檻から抜け出す道を思い描いた。


 だが、現実はそれを嘲笑う。


 この施設には、目に見えぬ“力”がかけられている。

 逃げようとした者は、誰ひとり成功せず、いずれ再び舞台に引きずり出されて殺された。


 あの豚のような男。

 見た目こそ滑稽だが、あれでも高位の魔術師だという噂だった。

 結界で施設全体を封じ、誰ひとりとして外に逃がさない――この場の主である所以。


 だから、誰も逃げられない。


 逃げようとした者はみな死んだ。

 逃亡に失敗し、見せ物として魔物に喰われて死んだのだ。


 少年は、寝台の上で天井を見上げたまま、長く息を吐いた。


 (逃げたって、意味がない)


 それは、この場所に染みついた“答え”だった。試すまでもない、最初から決まっている結末。


 生き延びることはできても、自由にはなれない。

 希望という言葉は、ここではただの幻想だ。


 鉄格子の隙間から差し込む月光が、寝台の端に届いている。

 それをぼんやりと見つめながら、少年はまぶたを閉じた。


 明日も、また誰かを殺すのだろう。

 そしてまた、ここへ戻ってくる。

 それだけの一日。それだけの人生。


 終わりのない、終わり。

 何も変わらない、狂った日常――


 だが、その「いつも」は、唐突に終わりを迎えた。


 少年は寝台に横たわり、まどろみの境界にいた。

 目を閉じ、次の試合まで、ただ静かに時間をやり過ごす――はずだった。

とりあえず自分が書きたいように書いてみます。

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