表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/36

36.鬼

 湿った空気が漂っていた。

 壁の隙間から入り込む風が、古い木板を軋ませる。


 場所は、学園から少し離れた廃屋。かつて物資の集積所だったその建物の中に、十五人の男たちがいた。


 中央のテーブルに数人が集まり、残りは壁際で武器の手入れや談笑に興じていた。

 統率された会議のような場ではない。まるで、ただの休憩所のようだった。


 だが――空気の底には、研ぎ澄まされた刃が潜んでいる。


「で、動いたか?」


 赤髪の男が言った。

 その手には、手入れの済んだ短剣が一振り。鉄の匂いが、皮手袋の下に染みている。


「動いた。ルクとかいう学生、たった一人で街へ出てる。もう四人を向かわせた」


「……そいつが“坊ちゃま”をやったって噂の?」


「そう。特徴は一致してる。でも“中身”は、どう見てもただの出来損ないだ」

 別の男が鼻で笑う。

「座学も実技も最下位、演習じゃ棒立ち、周囲の評価は“影が薄いだけ”だってさ」


「……そんな奴に坊ちゃまがやられるわけなくねえか?」


「安心しろ。調べはついてる。むしろ怪しいのはもう一人の女――セレフィナとかいう奴だ」


 場がわずかにざわめいた。


「剣の腕はそこそこ。魔法の素養もあるらしいし、口も利く。何より、“坊ちゃま”が倒れた時にそばにいたのは、あの女だった」


「つまり、男は囮。女が本命、ってことか」


「その可能性が高い。坊ちゃまの傷は不可解なものだった。力技じゃ説明がつかない。おそらく身体強化の魔法だ」


「――だから、その女の班は皆殺しってわけだ」


 男たちは黙って頷いた。


「問題は“どうやって処理するか”だ。下手に動けば学園に気づかれる」


「一人ずつ。静かに。街に出るのを待って、間を空けて処理する。それ以外にない」


「だが、仮に相手が“本物”だった場合は?」


「――だから、“あいつ”を雇ったんだろ」


 男たちの視線が、一斉に部屋の隅へ向いた。


 そこには、一人の男が静かに腰掛けていた。


 端整な顔立ちに、目立たぬ黒髪。肌は青白く、まるで血の通わぬ人形のようだった。

 着ているのは、濃灰の上着に漆黒の布帯。派手さはないが、すべての動作に“無駄”がない。


 彼は何も言わず、ただそこにいるだけだった。

 だがその沈黙が、何よりも雄弁に――「戦いに慣れている」と告げていた。


 中央の男が、ちらりと横目をやる。


 その視線の先――

 壁際には、使われていない椅子がひとつ。

 その上に置かれた懐中時計の砂が、じりじりと落ちていく。

 まるで、“刻まれる沈黙”を数えているかのように。


 ……まだ戻らない。


 出て行った四人が、いまだに戻ってこないというだけで、空気の奥がじわじわと冷え込んでいく。


「遅いな」


 誰ともなく呟かれた言葉が、薄く室内に染み込む。


 処分に向かったのは四人。

 ターゲットの男は一人きりで街に出た。


 殺すには、申し分ない状況だったはずだった。


「……やっぱおかしいよな。情報通りの“雑魚”なら、もう戻ってきてる」


「様子、見に行かせるか?」


「いや――」

 中央の男が言いかけて、止まった。


 “ギィ”――。

 その時、扉の蝶番がわずかに軋んだ。


 誰もが自然に視線を向ける。


 次の瞬間――空気が、沈黙に染まった。


 何かが、床に叩きつけられる音。

 布をかぶせられた人影が、ずるりと前に滑った。

 肩で息をしていた。全身は震えており、腕の付け根からは乾きかけた血がにじんでいた。


 そのすぐ後ろに、影が一つ――ルクが、いた。


 一瞬、誰も動かなかった。


 部屋の空気が、張り詰める。

 誰かが、息を飲む音を立てかけ――止まった。


 “何かが起きた”ことは全員が理解していた。

 だが、“何が起きたのか”を、脳が処理しきれない。


 布の下で呻いているのは、確かに仲間の一人だ。

 だが、何がどうしてこうなったのか――その意味を受け入れるには、ほんの数秒が必要だった。


 そして、ようやく全員が悟った時。

 ルクが、床に靴裏を落とした。


 その音だけで――男たちは、一斉に動いた。


 最初に動いたのは、左手前の大男だった。


 背丈の倍はある斧を片手で振りかぶり、一直線に間合いを詰める。


 だが、その腕が振り下ろされることは――最後までなかった。


 ルクの手が、腰から何かを抜く。


 瞬間、ひと筋の黒が閃いた。


 投擲された手裏剣が、斧を持つ手首に突き刺さる。

 肉を貫いた刃は、骨を削り、関節を砕いた。


 斧が落ちる音より先に、男の悲鳴が響いた。


 が――その叫びさえ、途中で止まった。


 ルクの脚が地を蹴り、男の懐に潜る。

 片手剣が、内腿から腹を抉るように引き裂いた。


 血と臓物が、壁際まで飛んだ。


 肉の焼けたような臭いが、廃屋の天井にまで這い上がる。


 直後、後方から振るわれた槍を、ルクはその場で背を折り、避けた。

 視線を動かさぬまま、足元の斧を拾い上げ、そのまま背後へ一閃――


 槍を持った男の頭蓋が、水平に吹き飛んだ。


 中身が、飛沫とともに壁にぶちまけられる。

 赤黒い染みが、乾いた木材にじわりと広がる。


 次。

 側面から二人が同時に踏み込んできた。


 一人は短剣を、もう一人は棍を。


 ルクは片膝を落とし、刃を滑らせるように突き出す。


 短剣の男の首元を貫いた。血が噴き出す。


 棍の男は息を飲み、回避しようとした。


 その一瞬の“間”――ルクの手裏剣が、顔面を裂いた。


 頬骨が砕け、眼窩に鉄が刺さる。


 絶叫すら上がらず、棍が床に転がる音だけが残った。


 空気が、焦げた汗と鉄の味で粘ついていく。


 六人目。七人目。八人目――


 刃が骨を砕き、声が喉で潰れ、肉が飛ぶ。


 黒い服に、こびりついたのは、名もない肉の塊と、生ぬるい液体だった。


 ルクは呼吸すら乱さず、ただ、殺し続けていた。


 表情はない。

 怒りも、喜びも、怨嗟もない。

 ただ、“終わらせるために最適な動作”を繰り返しているだけ。


 刺す。裂く。砕く。断つ。


 手首を切り落とされた男の断末魔に重ねて、喉を蹴り潰す。


 背中を切られた者が逃げようとした瞬間、踵が脳天を踏み抜いた。

 ぐしゃり――頭蓋の中身が潰れる、鈍く湿った音が響いた。


 血の海の中に、まだ息のある者が三人――。


 ひとりは、腰を抜かし壁際で震えていた。

 ひとりは、斧を両手で握りしめ、歯を食いしばっていた。

 そして、もうひとりだけは、静かに距離を取っていた――ただ、ひとり沈黙を貫いた男。

 その目だけが、戦場のすべてを“記録”するように、冷ややかに動いていた。

 彼の瞳に、戦慄も動揺もなかった。ただ――“戦況を確認する傭兵の眼”をしていた。


 ルクの身体が、音もなく動いた。


 一歩、二歩。地を蹴るたび、血が跳ねる。

 最初に震えていた男の喉が、風を切る音とともに赤く裂けた。


 続いて斧の男が咆哮し、振り下ろす――その刹那、斧は空を切り、背後からの突きで心臓を貫かれた。


 音が、消える。

 壁画のようだった。

 立っているのは、ルクと――ただ一人、沈黙を守るその男だけだった。

 ルクと視線が交わる刹那、男の口元がわずかに動いた。

 微笑とも、侮蔑ともつかぬ“何か”が、そこにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ