36.鬼
湿った空気が漂っていた。
壁の隙間から入り込む風が、古い木板を軋ませる。
場所は、学園から少し離れた廃屋。かつて物資の集積所だったその建物の中に、十五人の男たちがいた。
中央のテーブルに数人が集まり、残りは壁際で武器の手入れや談笑に興じていた。
統率された会議のような場ではない。まるで、ただの休憩所のようだった。
だが――空気の底には、研ぎ澄まされた刃が潜んでいる。
「で、動いたか?」
赤髪の男が言った。
その手には、手入れの済んだ短剣が一振り。鉄の匂いが、皮手袋の下に染みている。
「動いた。ルクとかいう学生、たった一人で街へ出てる。もう四人を向かわせた」
「……そいつが“坊ちゃま”をやったって噂の?」
「そう。特徴は一致してる。でも“中身”は、どう見てもただの出来損ないだ」
別の男が鼻で笑う。
「座学も実技も最下位、演習じゃ棒立ち、周囲の評価は“影が薄いだけ”だってさ」
「……そんな奴に坊ちゃまがやられるわけなくねえか?」
「安心しろ。調べはついてる。むしろ怪しいのはもう一人の女――セレフィナとかいう奴だ」
場がわずかにざわめいた。
「剣の腕はそこそこ。魔法の素養もあるらしいし、口も利く。何より、“坊ちゃま”が倒れた時にそばにいたのは、あの女だった」
「つまり、男は囮。女が本命、ってことか」
「その可能性が高い。坊ちゃまの傷は不可解なものだった。力技じゃ説明がつかない。おそらく身体強化の魔法だ」
「――だから、その女の班は皆殺しってわけだ」
男たちは黙って頷いた。
「問題は“どうやって処理するか”だ。下手に動けば学園に気づかれる」
「一人ずつ。静かに。街に出るのを待って、間を空けて処理する。それ以外にない」
「だが、仮に相手が“本物”だった場合は?」
「――だから、“あいつ”を雇ったんだろ」
男たちの視線が、一斉に部屋の隅へ向いた。
そこには、一人の男が静かに腰掛けていた。
端整な顔立ちに、目立たぬ黒髪。肌は青白く、まるで血の通わぬ人形のようだった。
着ているのは、濃灰の上着に漆黒の布帯。派手さはないが、すべての動作に“無駄”がない。
彼は何も言わず、ただそこにいるだけだった。
だがその沈黙が、何よりも雄弁に――「戦いに慣れている」と告げていた。
中央の男が、ちらりと横目をやる。
その視線の先――
壁際には、使われていない椅子がひとつ。
その上に置かれた懐中時計の砂が、じりじりと落ちていく。
まるで、“刻まれる沈黙”を数えているかのように。
……まだ戻らない。
出て行った四人が、いまだに戻ってこないというだけで、空気の奥がじわじわと冷え込んでいく。
「遅いな」
誰ともなく呟かれた言葉が、薄く室内に染み込む。
処分に向かったのは四人。
ターゲットの男は一人きりで街に出た。
殺すには、申し分ない状況だったはずだった。
「……やっぱおかしいよな。情報通りの“雑魚”なら、もう戻ってきてる」
「様子、見に行かせるか?」
「いや――」
中央の男が言いかけて、止まった。
“ギィ”――。
その時、扉の蝶番がわずかに軋んだ。
誰もが自然に視線を向ける。
次の瞬間――空気が、沈黙に染まった。
何かが、床に叩きつけられる音。
布をかぶせられた人影が、ずるりと前に滑った。
肩で息をしていた。全身は震えており、腕の付け根からは乾きかけた血がにじんでいた。
そのすぐ後ろに、影が一つ――ルクが、いた。
一瞬、誰も動かなかった。
部屋の空気が、張り詰める。
誰かが、息を飲む音を立てかけ――止まった。
“何かが起きた”ことは全員が理解していた。
だが、“何が起きたのか”を、脳が処理しきれない。
布の下で呻いているのは、確かに仲間の一人だ。
だが、何がどうしてこうなったのか――その意味を受け入れるには、ほんの数秒が必要だった。
そして、ようやく全員が悟った時。
ルクが、床に靴裏を落とした。
その音だけで――男たちは、一斉に動いた。
最初に動いたのは、左手前の大男だった。
背丈の倍はある斧を片手で振りかぶり、一直線に間合いを詰める。
だが、その腕が振り下ろされることは――最後までなかった。
ルクの手が、腰から何かを抜く。
瞬間、ひと筋の黒が閃いた。
投擲された手裏剣が、斧を持つ手首に突き刺さる。
肉を貫いた刃は、骨を削り、関節を砕いた。
斧が落ちる音より先に、男の悲鳴が響いた。
が――その叫びさえ、途中で止まった。
ルクの脚が地を蹴り、男の懐に潜る。
片手剣が、内腿から腹を抉るように引き裂いた。
血と臓物が、壁際まで飛んだ。
肉の焼けたような臭いが、廃屋の天井にまで這い上がる。
直後、後方から振るわれた槍を、ルクはその場で背を折り、避けた。
視線を動かさぬまま、足元の斧を拾い上げ、そのまま背後へ一閃――
槍を持った男の頭蓋が、水平に吹き飛んだ。
中身が、飛沫とともに壁にぶちまけられる。
赤黒い染みが、乾いた木材にじわりと広がる。
次。
側面から二人が同時に踏み込んできた。
一人は短剣を、もう一人は棍を。
ルクは片膝を落とし、刃を滑らせるように突き出す。
短剣の男の首元を貫いた。血が噴き出す。
棍の男は息を飲み、回避しようとした。
その一瞬の“間”――ルクの手裏剣が、顔面を裂いた。
頬骨が砕け、眼窩に鉄が刺さる。
絶叫すら上がらず、棍が床に転がる音だけが残った。
空気が、焦げた汗と鉄の味で粘ついていく。
六人目。七人目。八人目――
刃が骨を砕き、声が喉で潰れ、肉が飛ぶ。
黒い服に、こびりついたのは、名もない肉の塊と、生ぬるい液体だった。
ルクは呼吸すら乱さず、ただ、殺し続けていた。
表情はない。
怒りも、喜びも、怨嗟もない。
ただ、“終わらせるために最適な動作”を繰り返しているだけ。
刺す。裂く。砕く。断つ。
手首を切り落とされた男の断末魔に重ねて、喉を蹴り潰す。
背中を切られた者が逃げようとした瞬間、踵が脳天を踏み抜いた。
ぐしゃり――頭蓋の中身が潰れる、鈍く湿った音が響いた。
血の海の中に、まだ息のある者が三人――。
ひとりは、腰を抜かし壁際で震えていた。
ひとりは、斧を両手で握りしめ、歯を食いしばっていた。
そして、もうひとりだけは、静かに距離を取っていた――ただ、ひとり沈黙を貫いた男。
その目だけが、戦場のすべてを“記録”するように、冷ややかに動いていた。
彼の瞳に、戦慄も動揺もなかった。ただ――“戦況を確認する傭兵の眼”をしていた。
ルクの身体が、音もなく動いた。
一歩、二歩。地を蹴るたび、血が跳ねる。
最初に震えていた男の喉が、風を切る音とともに赤く裂けた。
続いて斧の男が咆哮し、振り下ろす――その刹那、斧は空を切り、背後からの突きで心臓を貫かれた。
音が、消える。
壁画のようだった。
立っているのは、ルクと――ただ一人、沈黙を守るその男だけだった。
ルクと視線が交わる刹那、男の口元がわずかに動いた。
微笑とも、侮蔑ともつかぬ“何か”が、そこにあった。




