35.静寂の殺意
血が、薔薇のように咲く。
その中心で、ルクは、ただ立っていた。
右手には、重みを帯びた剣――太めの片手剣が、確かに握られていた。
だが刃は血を帯びていない。
振ったはずなのに、空気すら動かなかった。
なのに、ひとりが――沈んでいる。
腕はわずかに沈み、肩が重力を受けて落ちていた。
抑えたまま、抜いた剣の質量が、そのまま身体に残っている。
刃は下げられたまま、斜めに構えられていた。だがその動きには“構え”の意図すらない。
ただ、“そこにある”というだけだった。
視線は、沈んだ男には向いていない。
次に動いた者を捉えるために――動かず、瞬きをせず、ただそこにある。
まるで、まだ何も始まっていないかのように。
だが――すでに、一人が命を落としていた。
その光景に、空気が止まった。
残った三人の男たちが、一瞬、動けなくなる。
倒れた仲間の名を呼ぶ声もない。
言葉が追いつかなかった。
動きも、予兆も、なかった。
ただそこに立っていたはずの少年が、何かを“終わらせていた”。
何が起きたのか――目で見ていたはずなのに、脳が追いつかない。
常識のほうが遅れてくる。
「……嘘だろ」
右側の男が、低く呻くように声を漏らした。
背中に冷たい汗が伝う。自分の呼吸の音が、やけにうるさく響いた。
「おい……あれ、“学生”だよな?
調査じゃ、ただの成績最下位……確か、演習もボロボロって……」
言葉にしながら、自分でも信じられないというように、声が震える。
あの少年は、訓練用の剣をまともに振ることすらできないと聞いていた。
なのに――今、目の前で斬っていた。
しかも、あれほどの“静けさ”で。
それが恐ろしかった。
力を見たのではない。音も、気配もなかったことが――異常だった。
ルクが――わずかに、顔を上げた。
ただそれだけで、空気がひきつった。
視線が、次の標的を捉えたことを、誰もが悟った。
その瞬間。
「ち、畜生――!」
左手側の男が、叫ぶように動いた。
怒鳴り声が、恐怖を押し殺すための号令に変わった。
駆ける。
斜めから、剣を振り下ろす。今度は、自分がやられるわけにはいかない。
だが、遅かった。
ルクの身体は、また“動いてない”ように見えた。
振りかぶるでも、受けるでも、避けるでもない。
ただ、剣がそこにあった。
一瞬、銀光。
風が鳴るよりも早く、刃が一閃する。
――二人目が、崩れた。
残る二人は、即座に動いた。
さすがは貴族家に仕える私兵か――混乱に呑まれながらも、体は正確に動いていた。
片方が斜めから踏み込み、もう一人がその死角から、わずかに遅れて剣を振るう。
殺しに慣れた動きだった。無駄がなく、迷いもない。
だが、ルクの動きは――さらに速かった。
最初の男の斬撃を、半身でいなす。
刃が紙一重で外れ、風の軌跡だけが頬をかすめる。
同時に、背後からの斬撃が迫る。
ルクは振り返らなかった。
片手剣の刃を後ろへ回し、刃の腹でそれを受け止める。
金属がぶつかる鈍い音が、はじけた。
そして。
反撃は、わずか一瞬の空白に差し込まれた。
重心をわずかにずらし、足を払うように回す。
剣を受けた反動をそのまま下半身に流し込むように、鋭く、腰のひねりから蹴りを繰り出す。
回し蹴りが直撃した。
男の身体が、くの字に折れ、壁へと吹き飛ぶ。
鈍い音が響き、煉瓦の一部が崩れた。
破片が弾け、地面に跳ねる。
肺の空気が一気に抜ける音がした。
その隙を逃さなかったのは、もう一人の男だった。
僅かな体勢の崩れ――それを見逃さず、鋭く踏み込む。
高く振りかぶった剣が、振り下ろされる。
だが、その刹那。
ルクの片手剣が、鋭く跳ね上がった。
斜めに突き上げるように、男の刃を真正面から弾き飛ばす。
甲高い音が爆ぜ、金属が軋んだ。
男の剣が、空へ弧を描くように舞う。
次の瞬間――返す刃が、落ちた。
視線も、思考も届かない速さだった。
頭上から振り下ろされたその一撃は、まるで雷鳴のように鋭く、重く、止まらなかった。
鋼の刃が、肉を裂く。
骨を断ち、内臓を貫き、地面へ届く寸前で止まる。
男の身体が、ゆっくりと開くように裂けた。
血が噴き上がる。
裂け目からこぼれ落ちたものが、泥のように地面に落ちる。
臓腑の一部がわずかに揺れ、熱を帯びた粘膜が冷たい空気に晒される。
その場に、血の香りが満ちた。
男は――反応する間もなく、二つに分かたれていた。
ルクは、ゆっくりと歩を進めた。
返り血をまとったその姿は、もはや少年というより“鬼”に近かった。
剣の先端からは、まだ肉の熱が伝わるような滴りが落ちている。
歩幅は一定で、感情の色はどこにもなかった。
「ま、待ってくれ!」
蹴り飛ばされた男が、ずるずると身を引いた。
肺を痛めたのか、喉奥から血が泡のように弾ける。
それでも男は喚いた。
「いいことを教えてやる! 見逃してくれたら話す! あんたにとっても悪くない話だ!」
だがルクは、立ち止まらなかった。
視線を逸らすことも、言葉に返すこともなく、ただ一歩ずつ近づいてくる。
男の顔に、あからさまな焦りが走る。
にじむ冷汗が、額から頬を伝い、地面に落ちた。
「た、ターゲットは……お前だけじゃねえ!
お前の周りの人間も、怪しいやつは処分しろって命令なんだ……!」
その一言に、ルクの動きが、ほんのわずかに止まった。
“周りの人間”。
セレ、そしてカイル。
その二人の顔が浮かんだ。
ルクの中に、わずかな“揺らぎ”が生まれた。
男は、それを見逃さなかった。
こちらが優位に立ったと錯覚し、にやりと歪な笑みを浮かべる。
「当主様は本気だぜ……!
お前はついでだ。真の標的は“セレフィナ”とかいう女だ。
坊ちゃまをああしたのは、あの女の仕業だって……そう推測してる!」
ルクの眼差しに変化はなかった。
だが、立ち止まったまま、動かなかった。
男は、その沈黙を“迷い”だと解釈した。
だから、喋る。喋る。喋り続ける。
「今頃、その女をどう処理するか、作戦会議の真っ最中さ。
暗殺専門の傭兵まで雇った。拷問に強い奴でさ……。
自分の名前すら思い出せなくなるくらいに“壊されて”……最後は、静かに“処理”されるんだよ!」
言葉が終わるより先に、ルクは動いていた。
ひとつ、足が沈む。
何の前触れもなく、ただ影が動いたように見えた。
次の瞬間、銀の軌跡が空を裂いた。
斬撃の音は、やはりなかった。
ただ、風が鳴いた。
男の右腕が、肩の根元から吹き飛んだ。
まるで不要な枝を払うように、容赦なく。
「――ぁぎッ……!」
咄嗟の叫びが喉で詰まる。
赤黒い血が、圧を失って四方へ噴き出し、壁に赤い弧を描いた。
腕は、まだ何かを握ろうとしているかのように指を蠢かせたまま、地面を跳ねて止まった。
だがルクは、それに一瞥すら向けなかった。
ルクの中で、何かが――始まった。
それは、今までにない“感情”だった。
けれど彼は、それが“怒り”なのかどうかも、わからなかった。
“怒る”ということを、知らなかった。
ただ、胸の奥が、膨らんでいた。
無音の濁流が、内側から押し広げてくる。
呼吸は静かなままなのに、どこかで“脈打っている”のを感じた。
心ではない。もっと深い、感情のさらに奥。
わずかに軋むように、何かが“揺れていた”。
熱くはない。
むしろ冷たかった。
氷のようなものが、ひっそりと、だが確かに動き始めていた。
顔に出すことはなかった。
目も口も、変わらない。
だがその静けさには、以前にはなかった――“棘”があった。
喉の奥がざらつく。
血の味のようなものが、心の中に滲んでいく。
それが何なのかを、まだ言葉にはできなかった。
けれどルクは、
初めて“冷たい激流”のような感情に、静かに支配されていた。
「……どこだ」
それは、まるで呼吸のように自然な声音だった。
怒鳴りもせず、詰問でもなく――ただ事実を確かめるための問い。
「へ……?」
聞き返す間もなかった。
グシャッ。
乾いた音が、地面から跳ねた。
次の瞬間、男の足が、不自然に――折れた。
甲を越えて踏み込まれたそれは、靴ごと潰れ、膝の向きすらおかしくねじれていた。
「ぐ、あああああああああっ!」
絶叫が、狭い路地に反響する。
その声に、ルクは一切反応を示さなかった。
「――そいつらは、どこにいる」
再び問う声には、わずかにだけ、温度があった。
けれどそれは熱ではない。
冷えきった湖面に、薄く張った氷が軋むような、静かな震えだった。
それは、
ルクが“誰かのために”怒り”を取り戻した、最初の一歩だった。




