34.彷徨の先で
週末になった。
学生たちの多くが寮を離れ、商業区や広場へと繰り出していた。
校舎の裏手に広がる遊歩道にも、笑い声と軽い足音が混ざっている。
誰もがこの日ばかりは気を抜き、羽目を外しているようだった。
けれど、寮の近く――ちょうど西棟の影に入る位置、古い倉庫の裏手で、静かな言い争いが続いていた。
「……あれ、もう見てられない」
最初に声を上げたのはセレだった。
声は抑えられていたが、言葉の奥に、積もった感情がにじんでいた。
袖を強く握り、目を伏せたまま続ける。
「何度見ても、腹が立つ。あんなふうに笑われて、侮辱されて……」
「セレ」
カイルの声は低かった。
いつもの軽口を封じて、落ち着いた声音に切り替えていた。
「お前も言っただろ、ルクには“加減”ができないって。抑えさせるしかなかったんだよ」
「わかってる。でも――」
セレは唇を噛んだ。
そして、絞り出すように言葉を吐く。
「……あたしたちが言ったのに。抑えて、抑えてって。何もするなって」
「……ああ」
「なのに、何もしないルクを見て、笑ってるやつらがいて……それを黙って見てることに、耐えられないの」
カイルは目を伏せた。
答えはしなかったが、理解はしている。
それでも、現実は――それ以上の言葉を許してくれなかった。
風が抜けた。
倉庫の屋根を撫でて、埃っぽい空気がふたりの間に流れ込む。
言葉は、どこかで止まっていた。
責めたいのではない。怒りたいのでもない。
ただ――胸の奥に溜まったものを、誰にも渡せずに持て余しているだけだった。
セレは、左手の薬指にはめた指輪を一度だけ撫でた。
買ったばかりのそれに、まだ馴染みはない。
けれど、指先がそこに触れたのは、ほんのわずかな迷いの証のようでもあった。
ふ、とため息をひとつ。
その吐息に、言葉にならない苛立ちが静かに溶けていった。
ふ、とため息をひとつ。
その吐息に、形のない痛みが混じっていた。
***
ルクは、ひとりで街を歩いていた。
毎日、セレやカイルと行動を共にしていたが、今日は久しぶりの“ひとり”だった。
何か特別な感情があるわけではない。ただ、自分の足でどこかへ向かうことが、久々で少しだけ“不思議な感覚”としてあった。
昼下がりの通り。
乾いた石畳の匂いと、焼き菓子の甘い香りが入り混じる。
遠くで誰かが呼ぶ声がして、それが誰に向けられたものかを考える前に、風がさらっていった。
歩いている先に、目的地がある。
セレに教えられた、寮から歩いて十五分ほどのパン屋。
週末だけ焼かれる“丸くて甘いやつ”、名前はもう忘れてしまったけれど――
セレが「ルクの口に合うと思う」と言った、その言葉だけは、妙に頭に残っていた。
ルクの指には指輪がはめられていた。
銀色の細い輪に、淡い光を帯びる宝石がひとつ、埋め込まれている。
セレから渡されたものだ。
「ひとりで出歩く時は、必ずつけて」と、真剣な顔で言われた。
これは魔道具で、魔力を流せば対となる指輪へ、淡い光が伸びて、方向を示してくれるらしい。
どこまでも正確で、曲がり角の先まで案内してくれるのだと、セレが誇らしげに言っていた。
カイルが「よくやった! 大手柄だぞ、お前」と、箱から取り出したセレを大げさに褒めていた姿まで、まだ少し鮮やかだった。
ルクは、曲がり角をひとつ、またひとつと抜けていった。
特に意識はしていない。ただ、視界の端に気になるものが映るたびに、足が自然と向きを変える。
――パン屋を探していたはずだった。
けれど今、自分がどの道を通ってきたのか、すぐには思い出せなかった。
それでも、焦りはなかった。
誰かと歩いているときのような決まりも制約もなく、ただ“目に映るもの”に従って足を進めている。
それはまるで、散歩のような、あるいは――迷子のような感覚だった。
街の音が、風に乗って流れてきた。
週末の広場は、いつもより鮮やかだった。
果物や香辛料を並べた屋台がずらりと立ち並び、客の声と売り子の掛け声が重なっている。
空気には焼き菓子の甘い香りと、炙った肉の煙が混ざり合い、鼻先をくすぐっていた。
通りの向こうでは、誰かが楽器を奏でている。
軽やかなリュートの音色に誘われて、若者たちが輪になって踊っていた。
拍手が弾け、笑い声が重なる。
ルクはそこを通り抜ける。
派手な色のスカーフを巻いた踊り子が、すれ違いざまに手を振ったが、彼は特に反応を返さなかった。
ただ、その香りと音の渦のなかを、静かに歩いていく。
やがて、通りはゆるやかに狭まり、にぎわいが徐々に背後へ遠のいていった。
軒を連ねる家々の間に日陰が増え、煉瓦の壁には苔が浮いていた。
猫が道端の箱で眠り、乾いた洗濯物が風に揺れる。
風鈴がひとつ、短く鳴いた。
振り返ると、もうあの騒がしさは見えない。
前方には、曲がりくねった小径が続いていた。
どこから迷い込んだのか、わからなかった。
……まずい。
流石にルクも、そう思った。
方向を変えようとした、その瞬間だった。
「おやおや、もうお帰りか?」
声とともに、足元の影が重なる。
振り向くより早く、四方の路地に人影が現れた。
左右と背後、そして正面――気づけば、完全に囲まれていた。
逃げ場はない。
最初に口を開いた男は、微笑んでいた。
着ているのは、よく仕立てられた濃灰の上着。
袖には上等な刺繍があしらわれ、胸元には小さな紋章――貴族家の家紋と思しきものが控えめに刻まれている。
だが、その目だけが整わなかった。
整った外見とは裏腹に、どこか濁った光を宿している。
「すきを窺っていたらよ……まさか自分から、こんな人気のねえ場所に来てくれるとはな。助かるぜ、坊主」
別の一人が軽口混じりに声を重ねる。
「ルキアリス・ラスカリエ、だな?」
名を呼ばれても、ルクの顔に反応はなかった。
「入学式の日……うちの“坊ちゃま”をやったのは、お前で間違いねぇか?」
“坊ちゃま”。
ルクは無言のまま、その言葉を頭の中で反芻する。
何のことだろう。思い当たる節は――ない。
「……坊ちゃまは一ヶ月、昏睡状態だったんだぜ?
目を覚ましたら右半身がまともに動かねえ。……責任、取ってもらわないとな?」
それでも、ルクの内側に何も浮かばない。
記憶を探っても、“坊ちゃま”と呼ばれるような人物に心当たりはなく、
自分が誰かを昏睡状態に追い込んだという実感も、まるでなかった。
ただ、敵意が向けられている。
だから、それに応じるだけだった。
「坊ちゃまは一ヶ月も昏睡状態だったんだ。その責任、取ってもらわないとな」
そう言い放った男の目には、笑いすら滲んでいた。
だが、その奥には確かな怒りと、静かな殺意があった。
ルクは、それをただ見ていた。
感情もなく、表情も変えず。
相手の言葉に、何の記憶も、痛みも、心当たりもなかった。
「殺す前に聞きたい。坊ちゃまをやったのは本当にお前か?」
男が詰め寄る。
「聞いた特徴は一致しているが、実技の成績は“最低”らしいじゃねえか? 本当にあんたがやったのか、ってな」
ルクは答えなかった。
“坊ちゃま”とやらの顔も、声も、記憶に浮かばない。
たとえ何かしたとしても、それは“行動”の一つにすぎなかったのだろう。
ルクは、答えなかった。
問いに耳を傾けてはいた。けれど、その意味を、心のどこにも受け止めなかった。
その無反応が――相手の神経を逆撫でした。
「……なんだよ。シカトか?」
最初に声を上げたのは、左手側に立つ男だった。
さっきまで軽口を叩いていたくせに、もう眉間に皺を寄せている。
「おい、質問されてんだろうが。“坊ちゃま”をやったのは、お前なのかって……!」
怒気が混じる。
それでもルクは、ただ無言で立っていた。
その沈黙が、火に油を注ぐ。
「……ちっ、まあいい」
男が、わざとらしく肩をすくめた。
目の奥にあった探るような色が消え、代わりに殺意だけが残る。
「疑わしい奴は、殺れ」
その一言が、引き金だった。
四方の影が同時に動く。
躊躇はない。囲みは崩れず、刃の気配が一斉に膨れ上がる。
空気が、軋んだ。
ルクの手が、自然と柄に添えられていた。
視線を外さないまま、ゆっくりと重心を落とす。
誰よりも早く踏み込んだのは、右前方の男だった。
殺気を隠す気はなかった。
まっすぐに、迷いもなく、胸元を狙っていた。
ルクの手が、静かに動いた。
が、その瞬間、ルクの瞳がほんのわずかに細められた。
殺さない。その境界をどこに置くか。
セリアは何度も言っていた。
(……力を誤れば、人は簡単に壊れる)
脳裏に、銀の髪が揺れた気がした。
一瞬、手が止まりかける。
だが次の瞬間――男の手に、明確な殺気が走った。
その刃は、躊躇なくルクを狙っていた。
迷いはなかった。最初から殺すつもりだったのだ。
(……なら、関係ない)
指に力がこもった。
鞘の中の剣が、わずかに鳴った。
それは、“殺しても構わない”という意志に切り替わった合図だった。
剣が、鞘から抜かれる音はなかった。
ただ次の瞬間――光が、一筋。
鋭い音とともに、男の身体が斜めに浮いた。
剣閃は見えなかった。
刃が振るわれたはずなのに、斬撃の音も風も、何一つ残さないまま。
「……あ、が――」
何かを言いかけた男の声は、言葉にならなかった。
目が見開かれたまま、首が傾き、膝が崩れ、遅れて全身が倒れ込んだ。
その瞬間、血が――薔薇のように、咲いた。




