33.白い目
湿った空気が、ふと軽くなった気がした。
高く昇る雲が千切れ、青空がじわりと顔を覗かせる。
蝉の声にはまだ早い。けれど、梅雨が明けたと知らせるように、光が強くなっていた。
校舎の影がくっきりと伸び、水たまりの輪郭が乾きかけている。
季節は、足音もなく過ぎていった。
気づけば、二ヶ月分の風が吹き抜けていた。
ルクにとって、それは「過ぎた」というより、「通り過ぎた」に近い。
淡々と、粛々と、ただ教室と訓練場を往復する日々。
授業を受け、指示に従い、模擬戦では適度に打たれて倒れる。
誰かに軽く笑われ、名指しで失望されるのも、もう慣れた。
ただ最近、少しだけ“視線”の温度が変わってきた。
失笑や諦めではなく、見下ろすような冷たいもの――
まるで、価値のない何かを見るような目。
その曖昧な視界の中で、ルクは今日も無言で立っている。
座学は、退屈だった。
文字を追えば意味はわかるが、それ以上はなかった。
ただ――ときおり、「歴史」と「現代魔法」の授業にだけ、目を止めることがある。
なぜかというと、セリアが教えてくれなかったから。
それだけのことだが――知らないことには、少しだけ興味が湧いた。
***
今は、実技の時間だった。
風が変わったことに気づき、ルクはふと顔を上げる。
空はさらに澄み、雲間から射す光が演習場をまっすぐに照らしていた。
周囲では、生徒たちがざわめきを抑えて列を整えている。
並んだ名札の横に、成績順位が貼り出されていた。
その最上段に、エミルティシア・グレイスヴェルの名があるのは、誰の目にも当然だった。
そして今、まさに彼女の名前が呼ばれた。
「エミルティシア・グレイスヴェル。対戦相手、レオネル・クライブ、前へ」
教員の声が告げられた瞬間、場の空気がわずかに張り詰めた。
呼ばれたのは、成績首位のエミルティシア・グレイスヴェル。
そして、彼女の“片腕”として常に半歩後ろに控えている、長身で細身の少年――レオネル・クライブだった。
教員の声に応じ、制服の裾を風に揺らしながら、エミルティシアが歩み出る。
脚の運びに一片の迷いもなく、肩の動きにも無駄がない。
まるで最初から“完成”しているような、構えのない構え。
そして、向かいに立つレオネルもまた、一言も発さずに構えを取った。
二人のあいだに交わされるものは、言葉ではなく、ただの間合いと呼吸。
互いを“知っている者同士”だけが許される、静かな前奏だった。
ふたりの距離が、静かに縮まっていく。
言葉は交わさない。ただそれだけで、場の“温度”が変わった。空気が重く、密になる。
視線を交わさずとも、互いの存在を知覚していた。
木剣を手にしたレオネルが、わずかに膝を沈めた。
隙のない構え。いや――構えですらない。ただ「そこにいる」だけで、侵しがたい威圧が立ち上がる。
対するエミルティシアは、剣を正眼に構え――だが、その目はまっすぐに相手を捉えてはいなかった。
むしろ“全体”を見ていた。空間と、風と、呼吸の揺らぎまで。
「始め」
その一声とともに、光が剣を照らした。
空気が、わずかに引き締まる。
No.1とNo.2の対決――誰もが認める両名の実力。その名が呼ばれた瞬間から、周囲の温度はひとつ変わっていた。
初手、一合目。
斬撃と突きが交錯する。火花は散らない。ただ、“音がない”ことだけが、逆に観る者の呼吸を止めさせた。
レオネルの斬撃は直線的。だが、そのどれもが“反応では間に合わない”軌道だった。
タイミング、角度、足の向き――全てが、先を取るための設計。
対するエミルティシアは、攻めるのではなく“崩し”に徹していた。
真正面から力をぶつけることはない。ほんの半歩の軸ずらし、重心の揺らぎだけで、レオネルの流れを逸らす。
一合、また一合。
風のように繊細で、刃のように鋭い軌道が交差する。
互いの距離が詰まり、離れ、また交わる。
その応酬に、言葉はない。ただ、正確さと、研ぎ澄まされた意志だけがあった。
二合目、三合目――観ている者には、「速い」のか「遅い」のか、判断がつかなくなる。
音も、叫びも、ない。あるのは、呼吸と風と、時折響く足音だけ。
そして――六合目。
エミルティシアの足が、唐突に止まった。
空気が切れるような静寂――
次いで、レオネルの剣が踏み込む。読み切ったかのような動き。否、それは彼女が“描いた罠”だった。
咄嗟に気づいたレオネルが、手首を返して軌道を変える。
――が、それこそが、彼女の狙い。
“隙のない者に、隙をつくらせる”
斬撃の後ろ――その死角に、剣があった。
レオネルの首筋に、木剣の先端がそっと添えられる。
「……終了」
教員の静かな声が響いた瞬間、演習場に、ひと拍置いて――爆ぜるような歓声が広がった。
「すげぇ……」「今の見た?」「やっぱエミルティシア様……!」
押し殺していた息が一気に解き放たれ、空気が弾けるように揺れる。
敗れたレオネルは、わずかに目を伏せて剣を納め、彼女にだけ小さく頭を下げた。
エミルティシアもまた、微かに頷くだけで背を向ける。
派手な動作は一切ない。
だがそのやり取りに、余計な言葉は必要なかった。
静けさと歓声が交錯するなか、クラスの空気に一つの“輪郭”が浮かび上がっていく。
――彼女に従えば、間違いない。
そんな“確信”が、誰の口から出るでもなく、場を支配していた。
エミルティシアの班は“頂点”として君臨していた。
強さ。統率。風格。
全てが揃ったその班に、「従うこと」が正解であるかのように、生徒たちは自然と歩調を合わせていく。
教師すらも、「あの班は教えることがなくて困る」と小さく漏らすほどだった。
一方で――
ルクたちの班は、そんな空気の“外側”にいた。
「――次。ルキアリス・ラスカリエ」
教員の声が響いた瞬間、それまで演習場に満ちていた熱気が、潮が引くようにしぼんだ。
「あいつかよ……」
「おいおい、また練習にならねえ試合か」
「弱いくせに平民とか、存在価値ないだろ」
名を呼ばれたルクが、無言で前に進む。
ただ歩くだけの姿にさえ、誰もが揶揄と侮蔑の視線を向けていた。
教員は何も言わない。
すでに三人――カイル、ミュリナ、そしてルク。
この三人は、“クラス内ワースト3”として、呼ばれるようになっていた。
同じ班の他の二人は、勝利を収めていたが――この三人だけは、いまだ“未勝利”。
誰もが、その事実を知っていた。
そして誰も、そこに希望を見てはいなかった。
開始の合図と同時に、対戦相手の剣が振るわれる。
ルクは、ほんのわずかに身を引いた。構えのようなものは見えない。
次の瞬間、腹部に打撃を受ける。
「……終了」
教員が淡々と告げると、周囲から小さな嘲笑がこぼれた。
「ほんとに何もしねえな」
「訓練だぞ? 一応は」
「はっ。この班、終わってんな」
セレが一歩、声を出しかけたが――周囲の視線に気圧され、言葉が喉に詰まる。
「セレフィナだけでしょ、あの班で“まともに強い”の」
「イズミュア姫の影が薄い方従者、あいつも中の中だしさ」
「上位5位を独占してるエミルティシア様の班とは大違い」
苦笑混じりの言葉が、あえて本人たちに聞こえる距離で囁かれる。
それでもセレは立ち尽くしたまま、何も言い返さなかった。
その様子を見つめていたエミルティシアは、静かにその様子を見下ろしていた。
罵声。嘲笑。冷たい視線。
その中心で、ルクという少年はただ静かに立っていた。
痛みに顔を歪めるでもなく、屈辱に肩を震わせるでもない。
まるで、何も感じていないかのように――ただ、無。
眉が、ほんのわずかに動いた。
侮辱の応酬ではなく、それを当然とする“空気”に対する違和感。
だが、彼女は何も言わなかった。
“本人が何も抗わないのなら、それ以上口を挟む必要もない”――そう考えて。
そして、誰もその一瞬の表情の意味には気づかなかった。
……ただ、ルクの目だけが、ごくわずかにそちらへ動いた――気がした。




