32.誰が“弱者”か
訓練場は、校舎の裏手に設けられていた。
灰色の石畳が敷き詰められた広場に、朝の光が斜めに差し込んでいる。
長い影が地面を渡り、風がそれを無言でなぞる。
その広場に、班ごとに分かれた生徒たちの姿が並んでいた。
誰もが等しく制服を着ているはずなのに、不思議と“温度”の差が生まれている。
緊張している者もいれば、気楽そうに見える者もいた。
だが皆、その中で“どう振る舞うか”を密かに測っていた。
中央の石壇に立つ教員が一歩、前へ出る。
紺の戦闘服に鋼を編み込んだ肩当て。顔の傷が、軍歴の長さを物語っていた。
そして、無駄のない声が場を制した。
「最初の実技は、“模擬一対一”。呼ばれた者から前に出ること」
声に抑揚はないが、一言ごとに沈み込むような重さがあった。
「目的は、現状の実力の確認。魔法の使用は禁止。殺傷能力のない訓練用武器のみ使用可とする。武器はこちらで用意したものを使え」
ざわめきが、微かに生まれる。
目の前に並べられたのは、各種の練習用武器――木剣、模擬槍、クッション性のある打撃武器など。
刃も突起も削ぎ落とされ、見た目は質素だが、材質は本物に近い。重量も、バランスも、無視できないレベルだった。
「後々の課程では、自前の武器を用いる。だが今は、安全性に重点を置く。必要なのは、力ではなく制御だ」
指導者としての誤魔化しのない言葉。
そして続くのは、少しだけ硬質な現実だった。
「なお、成績は個人評価に加え、“班全体の平均”が加算される。班単位での底上げが重要だ。意識しておけ」
その一言で、空気が変わる。
ちら、と横目で周囲を見始める者たち。
誰が“足を引っ張るか”――それを無意識に探してしまう者の目。
「演習場には、保護術式を展開している。骨折・出血といった深刻な負傷は起きない。ただし、痛みは防がれない。油断するな」
声の余韻と同時に、沈黙が落ちる。
ルクは、その場に立っていた。
隣にセレ、斜め前にカイル。
それぞれの顔に、笑みも不安も浮かんではいなかった。
ただ、目だけが、少しずつ色を帯びていく。
今はまだ演習。だが、ここから何かが始まる――
それを理解している者だけが持つ、静かな“構え”のようなもの。
模擬戦は、既に始まっていた。
複数の組が、入れ替わり立ち替わり、石畳の中央へと進んでいく。
打ち合いの音、気合いの声、足音と風――それらが重なって、訓練場に独特の律動を刻んでいた。
セレは三組目で呼ばれた。
小柄な体格の少女と、背の高い剣士志望の少年。
だが、戦いはあっさりと終わる。
構えからわずか三合。余計な動きは一切ない、無駄のない所作で、セレは相手の木剣を打ち落とした。
強すぎず、弱すぎず。絶妙な力加減。
“優等生”という評価に収まるには、あまりにも完成された制御だった。
やがて、教師が名簿をめくる音が響く。
「――次。カイル・ラヴゼル」
カイルが、ひとつ大きく肩をまわした。
「……っと。来ちまったか」
ぽつりとそう呟き、列を離れて歩き出す。
木槍を受け取りながら、カイルは軽く片手で回す。
その仕草に、一部の生徒が期待の視線を向けた。
――だが。
開始の合図とともに、カイルはふわりと前へ出る。
その一歩目が、妙に緩やかだった。
続く数合。
動きは緩慢。反応は遅く。
攻防の間合いすら、微妙に外されている。
そして五合目。
カイルはあっさりと木槍を落とし、そのまま肩をすくめて退いた。
「終了」
教員の短い声とともに、場が静まる。
「……あれ? 弱くね?」
「いや、期待外れってやつ?」
「金黒の髪、もっとやるかと思ったけどな」
囁きが漏れる。
まだ誰もカイルの実力を知らない。だが、だからこそ――この“印象”だけが、静かに伝播していく。
列に戻ったカイルに、セレがちらりと目をやる。
それは、事前に仕組まれた“演技”に対する、満足げな肯定の微笑みだった。
名簿のページが、また一枚めくられる。
「――次。ルキアリス・ラスカリエ……対戦相手、シオン・バルグレイン、前へ」
自分の名が呼ばれても、ルクは特に反応を見せなかった。
ただ静かに前へと歩き、手近にあった木剣を手に取る。
無駄な動きはない。だが、どこか生気のない足取りだった。
対戦相手の少年は、やや緊張した様子で構えを取っている。
明るい茶髪が、乱れないように後ろで結わえられていた。肌は浅く焼けており、身のこなしには実戦慣れした雰囲気もある。
教員の合図とともに、模擬戦が始まった。
――一瞬の、間。
動いたのは、シオンと呼ばれた相手の少年の方だった。
その刹那。
ルクの足が、わずかに動く。半歩、遅れて。
――だが、その瞬間。
彼の目だけが、静かに研ぎ澄まされていた。
まるで“視えていた”かのように、淡く、鋭く。
それは、戦いの場に何度も立った者だけが持つ“地”の色。
一瞬の軌道読み、殺意の流れ――感覚の底で刻まれる、無意識の演算。
シオンは、得体の知れない違和感を覚えた。
なぜか、皮膚の奥がざわつく。
目の前に立つのは、ただの訓練相手ではない――そんな、理屈では説明できない予感。
だがそれは、一秒にも満たない間の出来事。
ルクの木剣は、ぎこちなく構えの途中で止まった。
――その不自然な動きは、まるで“わざと下手に見せた”かのようで。
次の瞬間、少年の打撃が腹部をとらえた。
鈍い音が響く。
そのまま後退し、膝をつく。
教員が手を上げ、短く告げた。
「終了」
静けさが、広がる。
シオンは、ひとつ深く息を吐いた。
勝ったはずなのに、胸の奥が妙に冷えていた。
さっきの一瞬――木剣が届く直前。
相手の目が、自分の動きを“先に知っていた”ように見えた気がして。
気のせいだ。そう思おうとしても、どこか喉の奥がざらついていた。
――あの目が、どこか恐ろしかった。
この違和感は対戦相手である彼にしか感じていなかった。
シオンは木剣を収めかけた手を、一瞬だけ止めた。
肩越しに、ルクの背を見つめ――それから、何も言わずに列に戻った。
「……あれ、今の……避けられたよな?」
「いや、反応遅すぎでしょ」
「え、てかあれで終わり?」
ざわめきが、徐々に大きくなる。
ルクの背中に向けて、数十の視線が突き刺さるように集まっていた。
冷笑、落胆、猜疑――それぞれの“色”をした目が、無言で突き立てられる。
その中で、セレは気づかぬうちに息を詰めていたことに気づき、そっと息を吐いた。
無表情を保ったまま、胸の奥でほっと安堵する。
目立たない立ち姿と、表情のない顔。
さっきまで空気のようだった存在が、一気に“評価の俎上”に載せられていく。
教師はルクに視線を落とし、少し間を置いてから、呟いた。
「……ふむ。要特訓だな」
淡々とした声。
誰よりも冷静に、事実だけを切り取る言い回し。
その言葉が、ある意味で最も“真実”を遠ざけていた。
ざわつく声の向こう。
ミュリナ・エルシエルは、ただ一点を見つめていた。
彼女の肩が、わずかに震えている。
彼が、負けるはずがない。
あの圧倒的な“力”を知っている。
目の前の演技が、演技でしかないことを――誰よりも理解していた。
だが、声に出せなかった。
信じてもらえないとわかっていた。
この場で名前を挙げれば、また“悪の姫”としての視線が戻ってくる。
それでも。
「……あの人、本当は……」
かすれた声が喉の奥で震える。
だが、唇が揺れただけで、音にならなかった。
隣にいた従者の少年に、小さく声をかけかける。
だが彼はそれに気づかず、ただ憤慨していた。
「なんなんだよあいつ……強くもないくせに、姫に失礼な……」
ミュリナは、その言葉に顔を伏せる。
怒っているのか、悔しいのか。
わからないまま、ただ俯いた。
列に戻ったルクを、ちらりと視線だけで追いながら。




