31.童話
ホームルームが終わると、クラスのざわめきは廊下へと流れ出した。
誰かが椅子を乱暴に引いた音が、板張りの床に短く跳ねる。
その音にかき消されるように、小さな独り言が宙に消えた。
机と椅子の列が崩れるように、教室の熱が引いていく。
その流れに混じって歩き出したのは、ルク、セレ、カイルの三人。
何の言葉もなく、肩を並べて歩き出す。だが、その歩調には微妙な“温度差”があった。
無言のまま、ただ前を向いて歩くルク。
視線だけで周囲を測るセレ。
わざと飄々とした足取りを装いながら、耳を澄ませているカイル。
三人が教室を出る、その瞬間だった。
背後から――
睨みつけるような気配が、ひどく分かりやすく追ってきた。
振り返ることはなかった。けれど、視線がぶつかる音が、確かにした。
それは彼女の隣にいた少年――昨日の、ミュリナ・エルシエルを“姫”と呼んだ、あの少年だった。
目の奥に怒りを宿したような色。言葉には出さないが、剣の代わりに視線を使っているような圧。
けれどルクは、ただ歩いた。
相手の存在ごと、風のように無視して。
踏み返す価値があるとは思わなかった。
そしてその“無視”が、相手にとって一番効くということも、なんとなく分かっていた。
二限目は、三人とも空きコマだった。
何をするか、どこへ行くか――そんな話を持ち出すには、ほんの少しだけ早い沈黙があった。
先に口を開いたのは、やはりカイルだった。
「……ちょうどいいな。作戦会議でもしようぜ。セレが行きたがってたカフェにでも、寄ってみるか」
何でもないふうを装った口調だったが、その言葉を聞いた途端――
「行きます! 絶対に行きます!」
セレが、弾けるように声を上げた。
その声は、廊下のざわめきの中に溶けず、むしろそこに小さな波紋をつくった。
わずかに跳ねた彼女の髪が、肩越しに光を撥ねる。
目が、ほんの少しだけ潤んでいた。まっすぐに。
その様子に、カイルがふっと肩をすくめた。
「そんなに即答するか……」
「するに決まってるでしょ」
ルクは、何も言わなかった。
けれど、その足取りにはどこか、ほんのわずかだけ、緊張がほどけた気配があった。
***
カフェは、正門から出て右に進んだ先にある公園に面していた。
白い壁と濃い木目の柱が交差し、天井の梁には小さな吊り灯りが並んでいる。
窓際の席には、光が差していた――けれど、あたたかさよりも先に、涼しさが目に入るような空間だった。
セレの足取りが、店に入った瞬間ほんのわずかに弾んだ。
視線はあちこちをせわしなく巡っている。けれど、その動きすらどこか慎ましかった。
三人が選んだのは、窓から遠い奥の席。
人目を避け、声の届きにくい位置。
ルクが席に着くと、セレが隣に腰を下ろし、カイルは向かいに回った。
セレは席に着くなり、目を細めて天井を見上げた。
ずっと来たかった場所。その空気を、そっと呼吸に溶かすように味わっていた。
注文を済ませると、カイルはようやく本題を切り出した。
視線は窓の外を向けたまま、だが声の芯には温度があった。
「で? 何があったんだ?」
「別に?」
セレの即答は短かった。
けれど、その短さには棘があった。感情が研ぎ澄まされたとき特有の、かすかな硬さが滲んでいた。
「昨日いじめられてたのをルクが助けたら、お礼も言わずに逃げていった女よ。失礼よね」
言葉だけを見れば淡々としていた。
けれど、吐き出すような口調。唇の動きはなめらかだったが、声の裏には怒気がわずかに乗っていた。
「……ふーん。怖がらせたか」
カイルが軽く肩をすくめた。
どこか他人事のような響き。だが、茶化しているわけではない。
「殺してないのよ? ……ちょっと、やりすぎだったかもしれないけど」
「ルクはちゃんと手加減したわ。なのに――」
「……あんな逃げ方、ないでしょう」
カップの縁を握る手に力がこもり、フォークの先がわずかに震えた。
セレの声が少しだけ大きくなった。
怒りというより、否定されたことへの居心地の悪さに近い何か。
“あの反応は間違ってる”――そう言い聞かせるような語調だった。
「まあまあ。これから同じ班なんだ、落ち着こうぜ」
カイルがやんわりと受け止める。
セレは小さくため息をついた。息は熱を帯びていたが、吐き出すと同時に冷めていった。
「……いったい誰なのよ、あの子」
セレの呟きに、カイルはすぐに応じる。
「ミュリナ・エルシエル。イズミュア王国の姫だな。……まぁ、それならあんなにビクビクしててもおかしくない」
「イズミュア……あぁ、なるほど」
セレは小さく頷いた。
どこか腑に落ちたような、けれど完全には納得していないような横顔だった。
ルクは黙っていた。
会話に加わる様子もなく、ただ遠くを見るように視線を落としていた。
「ルク。……イズミュア王国のこと、知らないのか?」
カイルがちらと視線を向ける。
ルクは、迷いなく首を横に振った。
「……マジかよ」
呆れを含んだ声だったが、どこか納得もしている調子でカイルは頭をかいた。
「いや、有り得なくはないな。有り得なくは……」
ぶつぶつと呟きながら、カイルは言葉を続けた。
「イズミュア王国ってのはな――とある童話で出てくる“悪の国”だ。一番有名なやつだよ。誰しもが幼い頃に読まされる。“赤き剣”って話、聞いたことないか?」
ルクは小さく首を振った。
「……そっか。まぁいいや。内容はだいたいこんな感じだ」
椅子の背にもたれながら、カイルは語り出す。
どこか他人事のようで、それでいて確信のような響きを持った語り口だった。
「はるか昔――イズミュア王国が大陸全土を侵略しようとして、あちこちで戦争を仕掛けた。で、民を虐げて、悪逆非道の限りを尽くした。
でも最終的には、どこかの“正義の英雄”が現れて、王を打ち倒し、世界に平和が戻った……ってやつな」
「でもそんな話、歴史書には出てこないのよね」
セレが眉をひそめながら言う。
「まったくな。童話の中だけ。……まあ、そういうことになってる。
ほんとのことは、たぶん誰にもわからない。けどさ――
“イズミュア”って言葉を聞いたら、もう条件反射で“悪”って思っちまう。そういう話なんだよ」
言葉が途切れると、テーブルの上に静けさが広がった。
セレはしばらく黙っていた。
爪の先でコップの縁を撫でるように弾きながら、言葉を選ぶように呟く。
「……じゃあ、国の名前を変えればいいのに」
ぽつりと落ちたその言葉は、声というより“感想”に近かった。
誰に向けたでもなく、ただそう思っただけという空気だった。
けれど、それがテーブルの上にひとつの波紋を広げた。
カイルは苦笑を浮かべて天井を仰いだ。
「変えられるもんなら、な。……でも、たぶん無理だろ。プライドってのもあるし、認めたくないんだろうよ。“悪だった”ってことを」
その言葉に、セレは視線を伏せた。
伏せた先にあったのは、窓の外。
日差しにきらめく木々の葉。そのひとつひとつが、どこか他人の時間のように静かに揺れていた。
「……そんなものかしらねぇ」
小さなため息のような声。
まるで答え合わせのない問いのように、ふっと空中に溶けていった。
「……あ、そうだ」
カイルが唐突に思い出したように言った。
「この話――セリア様には言わない方がいいぜ。あの人、“赤き剣”の童話、嫌いなんだよ」
「……そういえばそうだったわね」
セレがパフェに夢中になりながら片手間に返事をする。
「昔、うっかり話したことがあってさ。妙に不機嫌になったんだよな。あの人、たまに変なとこでこだわるっていうか……。理由は知らないけど」
「……セリア様は、“何かを貶める物語”が嫌いだから」
セレがぽつりと言った。
その声には、不思議な温度が宿っていた。
他人の話をしているのに、まるで自分のことのように、そっとなぞるような口ぶりだった。
カップの縁から手を離し、セレは背もたれに身を預けた。
ゆっくりと呼吸を整えながら、ほんの少し声を和らげる。
「……あの子、小さい頃から、ずっといじめられてきたんでしょうね。“悪の国の王族”だなんて、勝手にレッテルを貼られて」
その言葉には、皮肉ではなく、淡い憐れみがにじんでいた。
“かわいそう”と言えば簡単だ。けれどそれは、感情の上澄みではない。
押しつけでも、同情でもなく――ただ、そうあったのだろうという確信。
「……まぁ、そりゃあんな性格にもなるよな」
カイルも、ぼそっと言った。
「年下かって思うくらい小さくてさ、あんなふうにビクビクされたら……なんかこっちが悪いことしたみたいな気になるっての」
カップを傾けながら、半分冗談のように笑った。
けれど、笑いはすぐに静まった。
ルクは、何も言わなかった。
微動だにせず、ただその場にいた――ように見えた。
だが、ごくわずかに伏せた瞳が動いた。
見ているのはカップではない。けれど、何かを“視て”いる気配があった。
湯気の消えたカップの向こうで、時間だけが進み続けていた。
その視線は伏せられていたが、意識は、言葉の届かない場所を彷徨っていた。
誰にも気づかれないように――けれど確かに、何かを感じ取ろうとしていた。
「……しっかし、同じ班ってのは気まずいな。厄介ごとに巻き込まれなきゃいいけど」
カイルが、半分ため息のように肩をすくめた。
セレはその言葉には応じなかった。
けれどその横顔には、かすかな迷いの色が滲んでいた。
しばらくの沈黙が、カフェの中を満たしていた。
周囲では、貴族と思しき生徒たちがくすくすと笑い合い、陶器のカップがテーブルに触れる音が小さく響いていた。
けれど三人の席だけが、そこだけ空気が違うように、静かだった。
カイルが、ふと口を開く。
声は低く、わざと無関心を装ったような調子だった。
「なあ……念のため、なんだけどさ」
セレとルクが、わずかに視線を動かす。
「お前ら、少し――力、抑えてくれないか?」
セレが首を傾げた。
「まだ何もしてないじゃない」
「してない。けど、“まだ”だ。お前ら、絶対に目立つぞ」
カイルの言葉には、いつもの飄々とした軽さがなかった。
それは経験からくる“予感”というより、“確信”に近いものだった。
「貴族の目ってのはな、平民が何もしてなくても、何かやりそうな奴をちゃんと見つけてくるんだよ。で、勝手に敵認定してくる。……そんなもんだ」
セレが、わずかに口元を引きつらせた。
「嫌な例えね。でも、外れてないわ」
その声には、かすかな苛立ちと諦めが混じっていた。
彼女もまた、そういう目を向けられた経験があるのだろう。
「だからこそさ、今のうちに言っとく。抑えられるうちは、抑えておこうぜ。自分たちの方からは、余計な楔を打たないように」
カイルの視線が、テーブルの向こうのルクへと移る。
「とくに、ルクな。……加減、できるか?」
数秒の沈黙が流れた。
ルクは微動だにせず、ただ視線をテーブルに落としたまま動かなかった。
その答えは、沈黙の中にあり、誰の目にも明らかだった。
「……やっぱ無理か」
カイルが苦笑交じりに溜息をつく。
「じゃあ、やらせるなって話か。必要ない限りは、絶対に戦わせない。そういう方向で」
「いいわよ」
セレが頷いた。
すぐに頷いたのは、実はずっとそのつもりだったからだ。
「そもそも、私はもともとか弱い乙女ですしね?」
わざとらしく肩をすくめ、明るい声で続ける。
ルクをちらりと見やりながら微笑むその横顔には、嘘をつくとき特有の、ほんのわずかな緊張が滲んでいた。




