30. 最初の火種
「あの二人は?」
静かな声だった。
だが、その一言で周囲の空気が僅かに引き締まる。
教室の奥――窓際に座る一人の少女が、隣の席の男子に小さく問いかけた。
周りの近くの席にしか聞こえない声だったがそれだけで、数人の生徒がこっそりと視線を向けたほど、彼女の言葉には不思議な圧があった。
高く結い上げられた黒髪が、肩甲骨まで流れるように整えられていた。
その端正な所作には、“自身を律するための鎧”のような気高さが滲んでいる。
切れ長の双眸は翡翠のような色を湛え、見つめられた者の内面をも射抜くような鋭さを帯びていた。
白磁のように滑らかな肌。凛とした鼻梁と緻密に整った輪郭。
そして、まだわずかに幼さの残る唇は紅すら差されていない。
それは、飾らぬ意志の表れだった。
美しさと、気高さと、毅然とした冷静さ。そのすべてが揃った立ち姿に、誰もが目を奪われていた。
彼女の名は、エミルティシア・グレイスヴェル。
ヴェルゼン帝国に連なる大公爵家の次女。
幼い頃から魔導と戦技の両方に秀で、「世代最強」の異名で呼ばれる存在だった。
その凛とした立ち姿は、誰もが一目で“只者ではない”と察するほどの威圧感を纏っていた。
その存在が放つ気配に、教室の空気がほんの少し澄んだような錯覚すら生まれる。
窓から差す陽光が彼女の髪の輪郭を縁取り、光と影が静かに揺れていた。
「――はい、エミルティシア様」
隣に座る青年が、静かに返事をする。
長身で細身、無駄のない立ち居振る舞い。騎士然とした雰囲気はないが、全身に漂う緊張感と冷静さが、彼がただ者ではないことを物語っていた。
「男の方は、ルキアリス・ラスカリエ。女の方は、セレフィナ・ノルゼリア。どちらも我が帝国の片隅――辺境の平民出身と聞いております」
声には卑下も侮蔑もなかった。ただ、事実だけを淡々と述べる語調。
だが、それを聞いた周囲の一部が、目配せを交わし、くすりと口元を歪める。
平民出身。
その一言が、ここでは十分な差別の理由となる場所だった。
エミルティシアは、静かに瞳を細めた。
その視線が周囲をなぞる。
笑った者。
ささやいた者。
露骨に顎を引いた者。
彼女は何も言わなかった。けれど、その冷ややかなまなざしだけで、幾人かの生徒が気まずげに顔を背けた。静かな威圧だった。沈黙の中に、明確な意思が宿っていた。
「後ろ盾はいないの? 珍しいわね。優秀なのかしら?」
ぽつりと、興味を持ったように口にする。
あの少年の目――どこか“人間”の常道から逸れているような、それでいて惹かれる何かがあった。そんな違和感が、彼女の好奇心をわずかに刺激していた。
彼女の右腕の青年は、少しだけ首を傾げて答えた。
「それはどうかと。辺境の方が平民が経済力を持ちやすいと聞きます。実力というより――環境と偶然が重なった結果かと。……優秀と言っても、“平民にしては”という程度でしょう」
それは、おそらく彼なりの分析に基づいた言葉だった。
だが、エミルティシアは肩をわずかに揺らして笑った。
「……あら? あなたも平民出身じゃない。決めつけるのは、良くないわ」
軽やかな皮肉とも取れる声音。けれどその瞳は変わらず静かで、底知れぬ洞察を湛えていた。
青年は、わずかに口元を引き結ぶ。
「……私は、エミルティシア様に拾い上げていただきましたので」
その言葉に、誇張はなかった。
ただ一つの事実として、彼はそう言った。
エミルティシアは、小さく口角を上げて笑った。
その視線はふたたび前方へ――教室の扉のすぐ内側、教師に叱責されている二人の姿へと向けられる。
「……でも、初日から遅刻はマイナスね」
小さく、まるで独り言のように呟く。
「これから、どれだけ挽回してくれるのかしら?」
その声音には、嘲りも失望もなかった。
ただ――どこか愉しげだった。
まるで未知の駒が盤上に置かれるのを、好奇心混じりに眺めているかのように。
彼女の瞳に宿る冷ややかな光は、同時に、ほんのわずかな期待と興味を帯びていた。
教室の最前列では、担任と思しき男が、深いため息をつきながら、手元の書類を机にバサリと投げ置いた。
「……全く。もう良い。そこの席に座りなさい」
教壇の前から低く響いた声に、ルクは目を向ける。
担任と思われる男は、手元の書類をバサリと机に投げ置き、深いため息をついた。
それから、ぞんざいな手つきで教室の左手を指差す。
視線の先――五人掛けの長机が並ぶ列。その一つに、空席がふたつあった。
中央に座っていた少年が、軽く手を挙げた。
ルクのよく知る顔。虎毛のような金と黒が混ざった髪を持ち、気の抜けたような笑顔を浮かべている――カイルだった。
彼がいるというだけで、ほんのわずかだが、空気の緊張が解けた気がした。
「ほら、行こっ」
隣でセレが小さく囁くように言った。
彼女は一歩、先に足を踏み出す。いつものように自然体で、けれどその背筋はぴんと伸びていた。
ルクは頷くこともなく、ただ静かにあとを追った。
教室内に満ちる視線はまだ熱を帯びていた。
まるで何か“変わったもの”を見るかのように、観察と評価の入り混じった目線が突き刺さる。
足音だけが、教室の空気を切り裂いていた。
視線の熱が、肌の上に張り付いて離れない。
だが――ルクは何も気にしていなかった。
緊張も、羞恥も、戸惑いも、今の彼の中にはなかった。
ただ淡々と、決められた場所へ進む。それだけだった。
歩くたび、床板が靴の音をわずかに返す。
歩くたびに響く靴音が、やがて教室のざわめきと溶け合っていくようだった。
ルクがカイルの隣の席に腰を下ろすと、すぐにセレも反対側へと座った。
これで長机の五席がすべて埋まり、三人は一列に並んだことになる。
「ひぃえっ」
甲高い悲鳴が、すぐ隣から跳ねるように響いた。
ルクが椅子に腰を落ち着けたその瞬間だった。
「あっ……!」
今度はセレの小さな声。
彼女の視線を追って、ルクもわずかに横を見る。
カイルのさらに向こう――五人掛けの机の端に、小さく身を縮めるようにして座っている少女がいた。
桃色の髪が肩先でふるえ、ちらちらとルクの顔を見ていた。昨日、通路でいじめられていた少女だ。
彼女の両手は膝の上に重ねられていたが、よく見ると、その指先がかすかに震えていた。
握りしめられた指の中には、細いリボンが巻かれている。装飾というより、何かの“お守り”のように見えた。
それを落とさぬように、そっと握りしめている姿が、どこか痛々しくもあった。
椅子が擦れる音とともに、彼女の隣にいた少年が立ち上がった。
「貴様、“姫”に何をした!」
怒気を含んだ低い声が、教室中に響いた。鋭く目を吊り上げ、制服の襟元を乱しながら、ルクへ詰め寄ろうとしている。
(……姫?)
ルクが微かに眉を動かす。
“姫”――その呼び方に、ルクはわずかに目を瞬かせた。
昨日、怯えながらも小さく頭を下げていた少女の姿が脳裏に浮かぶ。
――あれが、姫なのか。
たしかに、どこか育ちの良さを思わせる所作はあった。けれどそれは堂々とした気品というより、壊れ物のように人目を避ける、脆さの中に滲んだ“作法”だった。
まるで、誰にも触れられずに過ごしてきた硝子細工のような――。
ルクの隣に座るセレも、椅子から立ちかけた。だがその瞬間――
「――うるさい! 黙れ!!」
雷のような怒声が教室全体に響き渡った。
担任だった。
それまで教壇の前から様子を見ていたが、怒気を纏って歩み寄ってくる。
「初日から問題を起こすとは……貴様らは揃いも揃って問題児かッ!」
その口調に、教室の空気が一気に冷え込む。
「なっ……!」
セレが思わず声を上げかけた。
が、唇を噛んでそれを飲み込む。
睨むように担任を見据えながらも、今反論しても無意味だと悟ったのだろう。静かに椅子へと腰を下ろす。
張り詰めた空気だけが、なおも教室に漂っていた。
担任と思しき男は、苛立ちを隠そうともせず、ルクたちの席を忌々しそうに睨みつけたまま口を開いた。
「……いいか。授業は基本的に、それぞれ好きな科目を選んで履修してもらう。だが、必修の一部はクラス単位で行われる」
声が教室全体に響き渡る。
「そして、その中でも“協力”が前提の授業では――今、貴様らが座っている《五人席》の並びを“チーム”として扱うからな。以後、同じ班として行動してもらう」
ざわっ……と、教室内に小さなどよめきが走った。
「対魔訓練もある。探索演習もある。──チームで動けない奴から、落ちていくぞ」
場の空気が一瞬、凍りついた。
数名の喉が、ごくりと鳴った。それが唯一の音だった。
ルクの隣、セレがわずかに身体を傾け、小声で呟く。
「……ええぇ……」
その視線の先には、机の端でちんまりと座る、桃色の髪の少女――昨日助けたあの“少女”がいた。
緊張した面持ちで、ちらちらとルクの方をうかがっている。
セレの呟きは小さなものだったが、どうやら担任の耳に入ったらしい。
男の視線が鋭く突き刺さる。
「……何か文句でもあるのか、ノルゼリア?」
鋭い目がセレに向けられる。
セレは、しまったというように一瞬だけ目を伏せ、素知らぬ顔で前を向いた。
「……いえ、ありません」
淡々と答えながらも、耳の先がほんのり赤く染まっている。
ルクはその様子を横目で見ながら、内心で静かに首をかしげた。
窓の方から、午前の陽が差し込んでいた。
光が自分の机の端に淡く滲み、床に細長い影を落としている。
(……チーム、か。初めてかも)
ルクは、わずかに息を吐いた。
それは呼吸というより、胸の奥に溜まった“名もなき圧”を逃がすような動きだった。
ゆっくりと指先が机の角をなぞる。ざらりとした木肌の感触が、ひどく鮮明に伝わってくる。
――今いる場所に、少しだけ触れてみる。
目の端には、まだ手を強く握りしめる桃色の少女と、肩を震わせるカイルの姿が映っていた。
この班がどうなるか、先行きはあまりに前途多難だった。




