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3. 命を賭ける劇場

 コロッセオの中心に立つ少年の正面、そこにいたのは、今日の対戦相手として選ばれた一人の男だった。

 年の頃は二十代前半。粗衣ながらもよく鍛えられた体躯に、無駄のない動き。場慣れした兵士のような佇まいは、一見して戦いを知る者であることを窺わせた。


 だが、その顔には油断があった。

 男は少年の姿を一目見るなり、ふっと緊張を吐き出すように息をつき、口の端を上げる。

 そして――薄ら笑い。

 勝てると、思ったのだ。


 目の前にいるのは、自分よりもふた回りも小さな、まだ十代半ばの少年。

 ひどく若く、細く、年端もいかぬ子ども。

 そんなものが、対戦相手だと告げられたならば、どんな者であれ一瞬は安堵するだろう。


 ──生きて帰れる、と。


 それが錯覚であるとも知らず、男は微かな勝利の幻想にしがみついた。

 この異常な場所では、幻想こそが生き延びるための唯一の鎧だ。

 男の胸には、まだ自尊心が残っていた。


 彼の番号は821番。三桁の末尾も末尾、つい最近この地獄に送られてきたばかりの新入りだった。

 闘技場において数字の若さは“歴の浅さ”を意味する。

 逆に言えば、“92番”という番号がいかに異質な存在かを、この男は知らなかった。


 ここでは二桁台の剣闘士など、もう存在していない。

 いや――かつては存在していたのだ。だが皆、とうに死んだ。

 今や“92”という番号は、この地で生き続けた者、その極点を示す記号だ。


 知らないのも、無理はない。

 それでも、知らないからこそ男は笑えた。

 この先、笑えることなど二度とないとも知らずに。


 男の装備は、片手剣と大型の盾だった。

 剣は刃渡り一メートルほど。片手で扱うには少し長く、重い。

 盾はそれに輪をかけて巨大だった。まるで鉄扉を切り抜いたかのような板。

 攻防一体を狙った構成のようにも見えたが、明らかにバランスを欠いていた。


 少年はそれを一目見るなり、心の中で静かに首を横に振った。

 ――あれでは、振りも受けも中途半端になる。盾に引きずられ、剣が鈍る。

 使い手の未熟さが武器に現れている。

 だが、そんなことはどうでもよかった。


 少年の目には、男の顔も武器も、戦うという現実すら映っていなかった。

 彼が見据えていたのは、ただ――終わりの瞬間。それだけだった。


 そのとき、観客席の一角――他よりも一段高く広く設けられた“特等席”に、ざわめきが走った。

 そこにいたのは、脂肪に塗れた一人の醜悪な男。

 広すぎる玉座に腰を下ろし、椅子から溢れるように腹をはみ出させている。


 顔は赤黒く腫れ、目元は吊り上がり、唇の端からは絶えず涎が糸を引いていた。

 手には金杯。肘掛けには肉の皿。衣服は豪華だったが、どこか湿って汚れている。

 まるで獣が衣を纏って人間のふりをしているかのようだった。


 彼はこの闘技場の主。全ての“死”を買い上げる者。


 彼の周囲には、いつものくたびれた兵士ではなく、明らかに鍛え抜かれた精鋭たちが控えていた。

 銀装甲に鋭い眼光。主の狂気を背に、冷徹な忠誠を漂わせる者たち。


 その“主”が、にやけ顔で立ち上がり、金杯を振りかざす。


「おお……見たまえ! 我らが92番が出てきたぞォッ!」

「血に飢えた猛獣が! 今まさに牙を剥こうとしておる!!」


 その声は、拡声の魔法によってコロッセオ全体に響き渡る。

 歓声がうねりのように巻き起こった。

 群衆の口々が“92”という数字を叫び、揺れ、狂騒が渦巻く。


 そして主は、芝居がかった仕草でさらに声を張った。


「だが! 聞け、諸君!」

「今日の相手、821番もただの雑魚ではないッ!!」


 観客席にざわめきが広がる。

 耳を澄ます者。酒を手から落とす者。女たちの目元が細められる。


「奴はとある貴族の館で育てられた戦闘奴隷!」

「片手剣と盾の扱いは確かだと聞いている!」

「先のデビュー戦では、鮮やかに勝利を収めた逸材よ!!」


 観客の目が光を帯びる。

 賭け札が舞い、計算と欲望の唸り声が混ざり合う。


「勝てば一攫千金だ! まさかと思うだろう? だが、奴は新入り! 未知数! 可能性がある!!」


 まるで扇動者のように、主の言葉は火をつけた。

 観客の中に熱が満ち、札が宙を舞い、金貨が重く響く音が連鎖する。

 誰もが、自分の欲望を正当化しながら金を積み上げる。


「さあ、掛けろ掛けろ!」

「命の値段を賭けて楽しめェ!」

「どちらが死に、どちらが生き残るか――決めるのは、貴様らの欲望だッ!!」


 その最後の一声で、コロッセオ全体が爆発するかのように沸き上がった。

 金と声と熱気と唾が、まるで噴き上がるように空を震わせる。


 だが――その中心に立つ少年だけが、依然として沈黙のままだった。


 少年は無言のまま、大剣を肩から下ろした。

 その動作は、機械のように無駄がなく、静かだった。

 重たい剣が砂の上に沈むように下ろされるが、まるで音がしない。

 まるで、大剣の質量すら少年の肉体に吸い込まれているようだった。


 右足を一歩前に出す。

 半身の構え。自然すぎる体勢。

 そこに力みはない。緊張も、ためらいも、意思の強さすら感じさせなかった。

 すでに、すべての殺意が“姿勢の中に定着している”というだけのことだ。


 一方、821番の男は、膝を軽く曲げ、盾をしっかりと掲げていた。

 広すぎる盾は、その身体をすっぽりと覆い隠す。

 全身を防御の裏に隠したその姿勢は、まるで一枚壁のようで――

 安全圏から斬りつけ、守って勝つ。

 その戦術はあまりに典型的で、逆に少年から見れば滑稽ですらあった。


 空気が変わる。


 砂を踏む音、布が揺れる音、観客の叫び、すべてが濁流のように交差するなかで、

 二人の間にぴん、と一本の細い糸のような緊張が張り詰める。


 静けさが場を支配しはじめた。

 会場の観客たちも、言葉を呑み込み、何かを“察するように”徐々に声を潜めていく。


 主が立ち上がる。

 片手を高く掲げ、芝居がかった動作で、試合開始の合図を与えた。


 ――カアァァン。


 甲高い、鐘の音が鳴った。

 金属の澄んだ音が、コロッセオの石壁を伝い、空気を裂くように響いた。


 少年は、即座に動いた。


 砂が爆ぜる。

 その一歩は、爆発的な加速――ではない。

 重力を無視するでもなく、音速に迫るでもない。

 ただ、見えなかった。


 あまりにも自然で、あまりにも滑らかすぎた。

 大剣の質量がまったく速度を殺さず、背中と肩と腕と脚が、それぞれに完璧な比率で動いた。


 男は、即座に盾を前に突き出した。

 構えは崩れない。盾の裏で息を殺し、次の一撃に備える。


 ――盾で受けてからの反撃。

 それが唯一の勝ち筋。彼はそれを信じた。


 だが。


 少年は、一切の間を挟まず、真正面から剣を振り下ろした。


 「バコォッ!」


 破裂音。

 刹那、盾が――“割れた”。


 割れた、のではない。

 “砕けた”のでも、“裂けた”のでもない。

 打撃の瞬間、盾が中心から破断し、まるで木の繊維が噛み合う間もなく、真っ二つに裂けたのだ。


 腕ごと叩き折られたような衝撃に、男の構えは一瞬で崩壊した。

 盾の破片が飛び、視界が砕けた木屑で覆われる。


 その瞬間。


 少年の身体は、すでに次の動きに入っていた。


 一歩踏み込み、ためらいなく、大剣を横に薙ぐ。


 「シュバッ!」


 一閃。


 刃が走る音さえ、空気を切り裂く感触としてしか残らなかった。


 男の首が――胴体から離れた。


 鮮やかだった。

 肉も、骨も、神経も、何一つ抵抗できなかった。

 首は宙に舞い、空中で二度ほど回転しながら、観客席のすぐ前に転がった。


 その表情には、“驚愕”と“理解の欠如”が、まだ残っていた。

 何が起きたのか、まるで分かっていない。

 死んでなお、目だけが必死に問いを浮かべていた。


 胴体は、遅れて膝から崩れ落ちた。

 口から息を吐くように、噴水のような勢いで血液が噴き出す。

 それが一気に砂を濡らし、染めていく。


 すべてが――終わった。


 少年は一歩も動かない。

 ただ立っている。顔には、何の感情も浮かんでいない。


 額に血が飛ぶ。

 頬に、まつ毛に、腕に、首から飛んだ飛沫が赤黒く付着している。

 それでも、彼は一切表情を変えなかった。


 まるで掃除でも終えたかのように、少年はただ、そこに立っていた。


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