表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/36

29. 迷いの先に刻まれていたもの

 朝六時。

 ルクは目を覚ました。

 これは、かつて地下のコロッセオで暮らしていた頃から続く、染み付いた習慣だった。

 暗闇の中で誰よりも早く起き、気配を殺して動く。そうしなければ、生き残れなかった。


 ……今はもう、その必要はない。

 けれど、その習慣だけは、まだ体から抜けていなかった。


 静かな部屋。

 いつもなら、この時間にセリアを起こしていた。もっとも、彼女が素直に起きたことはなかったが――。それでも「起こす」という行動が日常であり、それが今はないことに、妙な違和感を覚える。


 ルクは洗面台で顔を洗い、歯を磨く。冷たい水が頬を撫で、目を覚まさせる。

 そして、机の上に置かれた紙袋に気づいた。中には、ふんわりと焼き色のついたパンが入っている。


 昨日、別れ際にセレが言っていた。


「美味しいパン屋さん見つけたんですよ。朝ごはんにどうぞ」


 その言葉通り、パンはしっとり柔らかく、ほんのりとした甘みが口の中に広がる。昨日焼かれたはずなのに、まるで焼きたてのようだった。


(……どこの店なんだ)


 ルクは、次の機会にセレに聞こうと心に留めた。


 時刻は七時を少し回ったばかり。始業は九時。

 だが――ルクは制服を手に取ると、何の迷いもなく着替え始めた。


 やることが、ない。

 だから、早く行こう。

 どうせ部屋にいても時間を持て余すだけなら、いっそ早めに校舎を歩いて様子を見ておいた方がいい。


 制服を整え、軽く体を動かして動きやすさを確かめる。

 ふとベッド脇に視線を移した。


 ベッド脇、壁に掛けられたローブが視界の端に揺れている。


 セリアから贈られたものだ。

 深い藍色に銀の糸――思い出すだけで、あのときの彼女の笑顔まで浮かんでくる。

 それは、彼の中に刻まれた“帰る場所”の象徴だった。


 学園指定の制服がある以上、今は着られない。

 けれど、休日になったら――そう思い、ルクはセリアのローブを丁寧にハンガーに掛け直す。

 そして扉に手をかけ、ふと立ち止まった。


 振り返り、誰もいない部屋に小さく声をかける。


「……行ってくる」


 誰かに聞かせるつもりも、誰かに届くこともない言葉。

 それでも、彼にとってはそれが“大切な習慣”だった。




 * * *




 そして現在――午前九時。始業時間。


 教室に、ルクの姿はない。


 彼は――迷っていた。


 ようやく足を止めたのは、人気のない石畳の通路だった。


 古めかしいアーチ状の石柱が、そこに一対、静かに立っていた。磨かれた灰白の柱は、天井を支えるようにアーチを描いており、通路とその先の中庭をゆるやかに隔てている。


 アーチの奥には、円形の中庭が広がっていた。


 中央には小さな噴水が据えられ、水面にかすかな波紋が広がっている。陽の光は建物の隙間から斜めに差し込み、噴水の縁や、周囲の石壁に淡く反射していた。人工的な手入れは最小限にとどめられ、植えられた草花もなく、ただ野草と石と水だけで構成されたその空間は、どこか静謐で、儀式めいた神聖ささえ漂わせていた。


 ――やってしまった。


 流石のルクもそう思った。


 地図を何度見返しても、自分がどこにいるのか分からない。階段も、曲がり角も、同じような場所がいくつもある。教室の番号すら覚えているのに、辿り着けないという奇妙な感覚。


 ルクは地図を手にしたまま、アーチの根元に腰を下ろした。


 冷たい石の感触が、制服越しに背中を押し上げる。水の音はほとんど届かず、代わりに静けさが耳を包み込んだ。焦りはなかった。ただ、セリアといた時とは違い、こうして一人でいることの不慣れさに、ほんの少しだけ胸がざわついた。


 ふと、視界の端に違和感があった。


 座ったまま顔を上げると、アーチを支える柱の根元に、なにかが刻まれている。


 さりげない石の装飾――のように見えたが、目を凝らしてみれば、それはただの意匠ではない。


 模様に、見覚えがあった。


「……エル、ザフル?」


 その瞬間、ほんの一拍だけ、空気が凍りついた。


 ――音が、消えた。


 風も、鳥の声も、水音さえも止まり、

 世界が、ルクの発した言葉に“聞き入った”ようだった。


 石柱に刻まれていた模様に見えるものは、セリアに教わった“古代語”だった。ルクは自然と、その発音を口にしていた。


 だが――意味はわからない。


 文字は読める。音にすることもできる。

 けれどこの単語だけは、意味を聞いた覚えがなかった。


 それでも、口に出したとき――小さく、体の奥で魔力が揺れた。


 ……あっ。


 遅かった。

 初めて読む古代語は、意図せずとも魔法を引き寄せる――

 そんな大事なことを、すっかり忘れていた。


 突如として――音がした。


 ぼこっ、という鈍い音。

 それに続いて、水のうねりが空気を押し上げた。


 中庭の噴水が、うねるように膨れあがったのだ。

 まるで地下から突き上げるように、水が盛り上がっていく。

 すぐに、白濁した水柱が、地を這うような唸りを伴って噴き上がった。


 噴水の中央から勢いよく飛び出した水は、瞬く間に十メートル近い高さまで上がり、陽光を反射して白銀の帯となって空を裂いた。


 音を立てて、噴き出す。

 水は溢れ、跳ね、あたりを濡らし尽くした。


 植え込みが倒れ、ベンチが押し流される。レンガの敷石の隙間から染み出す水音までもが、騒音のように耳に迫った。


「……何をしてるの……」


 その声に、ルクはゆっくりと振り返った。


 石のアーチを抜けた先、濡れた石畳を踏みしめるようにして現れたのは――セレだった。

 肩で息をしている。どうやら全力で走ってきたらしい。


 額には汗がにじみ、頬はほんのりと上気していた。けれどその瞳は真っ直ぐにルクを捉えていた。

 怒りと――心底、安堵したような色が浮かんだ瞳。


「大きな音がしたと思ったら……やっぱり、ルクだった……」


 深いため息混じりに、そう呟いた彼女の視線は、すぐに中庭の中心へと移った。

 未だ激しく噴き上がる水柱。唸るように弾ける噴水は、もう完全に暴走状態だった。


 だが――セレはそれを見て、ほんの一拍だけ黙り込んだあと、さらりと口にした。


「……多分、噴水の故障ね」


 その声音は、どこか自分自身に言い聞かせるようだった。

 そして、すぐにルクの腕をぐいっと引っ張る。


「そんなことより、ルク。早く教室に行くよ!」


 セレの声には、焦りが混じっていた。

 彼女の指は細いが意外なほど力強く、戸惑いながらもルクは歩き出す。


 ぽちゃん、と水飛沫が足元に落ちた。

 それでもセレは振り返らない。逃げるように、けれど堂々と、廊下を進んでいく。


「なんで、一人で行こうとするのよ!」


 歩きながら、セレが声を荒げた。ルクの腕を引いたまま、彼女は前を向いたまま怒っている。


「カイルから、ルクがいないって聞いて……本当に心配したんだから!」


 ルクは歩きながら、黙ってその言葉を聞いていた。

 校舎は巨大で、しかも迷路のように複雑だ。セレが怒るのも無理はなかった。


「校舎の中にいるって思いたかったけど……もし街のほうに出ちゃってたらって考えたら、もう絶望的だったんだから……!」


 怒気の裏に、滲んだ安堵の気配があった。

 早足のくせに、ルクの歩幅に合わせるように少しずつペースを落としているのが分かる。


「いい? 次から移動するときは、絶対に――私かカイルと一緒に!」


 語尾を強く言い切ると、セレはようやく立ち止まり、ちらりとルクを振り返った。


「……どこかで、地図の見方も教えなきゃダメね。そもそも迷いすぎなのよ、ルクは」


 そこには、完全な怒りではなく、呆れと――心配と、微かな照れが入り混じっていた。


 ルクは小さく頷いた。

 自分が何か悪いことをしたという実感は、あまりない。

 だが、この目の前の少女の声が震えるほど怒っているのなら、たぶん、自分は――迷ってはいけなかったのだ。


 ようやく教室の前までたどり着いた。


 扉の上には《1-D》の文字板が掛かっている。セレは立ち止まり、手元の地図と見比べて小さく頷いた。


「間違いない、ここだね」


 そう呟いて先に扉を押し開ける。


 静寂が一瞬だけ流れたかと思うと、すぐに低く響く声が飛んできた。


「……初日から遅刻とは、なかなかいい度胸だな――セレフィナ・ノルゼリア、ルキアリス・ラスカリエ」


 叱責とも取れるが、その口調にはどこか皮肉めいた柔らかさがあった。


 ルクは、呼ばれた名を聞いて一瞬だけ足を止める。


 (……自分のフルネーム、久々に聞いたな)


 淡々とした口調のその言葉が、妙に他人事のように感じられた。

 ルキアリス・ラスカリエ。長くて重々しい響きだ。

 もはやルクだけでもいいんじゃないか――そんな考えがふと頭をよぎったが、思い直す。


 この名は、セリアがくれた“最初の贈り物”だった。

 そのことを思い出すたびに、胸の奥がじわりと熱を帯びる。


 ちなみに「ラスカリエ」という名字は、セリアが「ないと格好つかないでしょ! この街の名前をそのまま名乗っちゃえ!」といつものように、何気なく、当然のようにつけてくれた。


 (……そういえば、セリアの名字、聞いたことなかったな)


 そんなことを考えているうちに、教室内の視線がルクへと集中し始めていた。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ