26.甘いものの前に
用は済んだ――と言わんばかりに、ルクは少女にも倒れた男たちにも一瞥をくれることなく、無言で背を向けて歩き出そうとした。
「ちょっと、ルク! 待って!」
セレの声が後ろから飛んできた。
振り返りはしなかったが、ルクの足が静かに止まる。
セレはルクを追い抜くようにして前へ出て、壁際に座り込んでいる少女の前にしゃがみ込んだ。
薄桃色の髪がふるりと揺れる。陽に透けるその色は、まるで春の花弁のように淡く、どこか品のある立ち姿を思わせた。
「大丈夫ですか? 怪我とか、してませんか?」
穏やかに、しかし真剣な声音でセレが問いかける。
だが、少女は返答できずにいた。
「あ、う、あう……」
唇が何度も震え、言葉にならない声が喉の奥から漏れ出る。
その怯えきった瞳は、セレではなく――ルクを見ていた。
まだ距離があるはずなのに、彼女の視界にはルクの姿だけが濃く焼きついている。
ルクは、その視線に気づいた。
無感情なまま、そちらに顔を向ける。
その瞬間――
「ひえっ……!」
少女が小さく叫び声をあげ、ばたばたと立ち上がると、逃げ出すようにその場を駆け出していった。
小さな足音が石畳を駆け、回廊の陰に吸い込まれていく。
残された静寂のなかで、セレが小さく息をついた。
「……ルクが怖かったみたい」
悪気のない口調だったが、その言葉にはわずかに複雑な色が滲んでいた。
少女の背中が、路地の向こうに吸い込まれていく。
それは、セレの胸の奥に小さな“棘”を残していった。
振り返った彼女の目には、恐怖の色がありありと浮かんでいた。あどけない顔に似合わぬ、怯えと混乱。その視線が向いていた先には、ただ無言で立ち尽くすルクの姿がある。
それを見送ったセレが、わずかに肩をすくめ、小さくため息をついた。
「……助けてもらったんだから、お礼くらい言えばいいのに」
その声は、努めて穏やかだった。
けれど、耳を澄ませばその奥に、微かに不満の影が滲んでいた。
少しムッとしていたのだ。
ルクを怖がって逃げるという反応――それは仕方のないことかもしれない。だが、あまりにも無礼ではないかと、セレは思った。
確かに、少しやりすぎだったかもしれない。何もそこまで吹き飛ばさなくても、と思わなくもない。
だが、誰一人殺してなどいない。
むしろ、“加減した”のだ。それを理解できないほど、あの子は無知で――あるいは、過敏で――。
……あるいは、正しかったのかもしれない。
だが、セレには分からなかった。
彼女にとって、ルクは“そういう存在”だった。
無表情で、無遠慮で、時に過剰に、相手の反応を顧みない。
けれど、それを「怖い」と感じたことはない。最初から、彼はそうだった。
むしろ――そういうところを、信頼していた。
だからこそ、いま少女が見せた反応に、少しばかり苛立ちを覚えたのだ。
怖がられる理由が、どうしても実感として分からなかった。
元々そういう資質なのか、それともルクと共に過ごすうちに感覚が麻痺してしまったのか。
あるいは――両方かもしれない。
けれどその鈍さに、彼女自身が気づくことはない。
それは――時に、優しさよりも残酷なものになるのかもしれなかった。
セレはちらりとルクを見た。
彼は、いつも通り無言のままだった。まるで何もなかったかのように、表情ひとつ動かさない。
その佇まいに、彼女はまた一つ、淡く息をついた。
気を取り直し、二人はまた校舎の探索へと歩き出した。
校舎の中は、予想以上に複雑な構造をしていた。ルクにとって階段は幾重にも折れ、通路はまるで迷路のように入り組んでいる。建物同士が空中廊で繋がっている場所もあれば、地下通路が交差している区画もあった。
何日かけても、すべてを回り切れる気がしなかった。
いや、下手をすれば――卒業の日が来ても、一度も足を踏み入れていない場所があるかもしれない。そんな気さえするほど、この学園は広大だった。
しばらく歩き続けたところで、セレが足を止める。
小さく息を吐き、隣を歩くルクの袖を引いた。
「……ねえ、そろそろ休まない? ちょっと疲れちゃった」
ルクは一瞥を返し、頷いた。
休息の必要性については、彼も理解している。
戦闘では体力よりも“集中力”の持続こそが重要で、適切なタイミングでの休憩は生存率を高める。そういう意味でも、彼にとってこの提案は妥当だった。
「外に出よう。校舎の外、いきたかった場所があるの」
学園国家セリオネア。
巨大な校舎の外には、教育機関とは思えないほど豊かな街が広がっている。市場もあれば、宿屋もある。鍛冶屋もあれば、薬草を扱う店もある。ちょっとした小国並の生活圏が、整然と存在していた。
セレは、入学前から目をつけていた店があった。
校舎から門を抜けてすぐの場所にある、小さなカフェ。木造の看板に、手書きで花の絵があしらわれていて、いつ通っても香ばしい香りが漂ってくる。
「村にはカフェなんてなかったからずっと楽しみにしてたんだぁ」
セレはそう言って、少しだけ跳ねるような足取りで、弾むように笑った。
その声は、本当に心から待ちわびていたことを物語っていた。
門をくぐり外に出ようとしたところでその前に、ひょいと姿を現す人影があった。
カイルだった。
手をポケットに突っ込みながら、気の抜けた笑みを浮かべている。
「よっ。どこ行くんだ?」
軽い調子の声だったが、どこか“待っていた”ような気配を纏っている。
セレはすこしだけ驚いた顔をしたがすぐに返事を返す。
「カフェに行こうかなって思ってたの」
「カフェ? ……いやいや、それより先に行くとこあるだろ?」
カイルは片眉を上げて、手のひらをくるりと回す。
「武器屋だよ、武器屋。せっかく外出するなら、まずは実用品からだろ?」
その目は、冗談めいて笑ってはいるが、どこか真剣でもあった。
カイルの一言に、セレの顔がさっと険しくなる。
確かに、必要ではあった。
セレ自身も、そしてカイルも、一応の武器は持っているものの、いずれも旅用の簡素な品だ。長く使い込んできた分、愛着こそあれど、戦闘において信頼し切れるほどの性能はない。
ましてやルクに至っては、あの金属塊のようなナイフ一つしか持っていない。
どう考えても、優先すべきは装備の拡充――そう頭では分かっているのだ。
だが。
セレは、ほんの一瞬だけ空を見上げた。
それでも、心のどこかでは、まだ諦めきれない思いがくすぶっていた。
木漏れ日の差し込む門前。すぐ先にあるはずの、小さなカフェ。
木造の看板に描かれた、あの手描きの花の絵。
きっと扉の前を通るたびに、扉の隙間から香ってくる、甘いスイーツの匂いがするに違いない。
ずっと、ずっと――楽しみにしていたのに。
言葉を返せずにいるセレを見て、カイルが怪訝そうに眉をひそめた。
「……何か問題か?」
それには答えず、セレはひとつ、深く息を吐いた。
それはどこか“あきらめ”と“譲歩”の混ざったような、重たい溜息だった。
「……わかったわよ。先に武器屋に行きましょう」
口調はどこか棘を含み、言葉の端に不機嫌が滲む。
今度は隠そうともしなかった。
ぐいと踵を返すと、ほんの少し強めの足取りで歩き出す。
「でもね。絶対、帰りにカフェには行くんだから。これは譲らないからね」
後ろに続く二人にそう言い放ち、セレは背を向けたまま、ぷいと顔を逸らした。
その背中はどこか拗ねたようでもあり、可笑しみすら覚えるが――その一歩一歩には、しっかりとした意志が感じられた。
武器屋は、門を出てすぐの通り沿いにあった。
その立地は、まるで「とりあえず寄れ」と言わんばかりで、通学路の延長に位置している。新入生の多くが立ち寄るからか、目立つ看板と広い間口を備えたその店は、少し離れていてもすぐに見つけられるほど存在感があった。
セレはちらりと空を仰ぐ。まだ陽は高い。
これなら、カフェの閉店時間には余裕で間に合いそうだ――そう思った瞬間、口元にわずかな笑みが戻った。
気を取り直して三人で扉をくぐると、耳をつんざくような声が店内に響き渡った。
「らっしゃあぁぁい!!」
いかにも、といった風体の男がカウンターの向こうから身を乗り出してくる。
皮膚は褐色に焼け、太い腕には鍛え上げられた筋肉が浮かび上がっていた。胸板は分厚く、火花の痕のような古い傷が随所に見える。
笑えば白い歯が覗く、気さくそうな表情――だがその奥には、鍛冶師としての誇りと“本物”の凄みが宿っていた。
「いろんな武器が揃ってるから、ぜひ店内を見てまわってくれい! 気になる武器があったら声をかけてくれたら説明するぜ!」
そう言いながら、店主は腰に手を当て、腕の筋肉をあからさまに誇示するようなポーズを取る。まるで肉体そのものが武器だとでも言わんばかりだった。
その姿に、カイルの目がきらきらと輝いた。
「おおっ、やっべ、テンション上がる!」
叫ぶようにそう言うなり、彼は駆け足で店内へと飛び込んでいく。
金属が並ぶ音、鞘が擦れる音。まるで宝探しでも始めたかのように、右へ左へと興奮した様子で歩き回る。
セレはそんな彼を一瞥し、小さくため息をついた。
「もう、ほんとに単純なんだから……」
それから視線をルクへと戻す。
「ルクは、どの武器が欲しい?」
問いかけに、ルクはわずかに首を傾け、目線を店内の武器棚へと滑らせた。
そして――
何の迷いもなく、入口からすぐ近くの木箱に無造作に突っ込まれていた、量産型の斧を一本取り上げた。
無骨で、重く、取っ手の部分はわずかにささくれている。装飾も何もないそれは、訓練用か、あるいは初心者向けの粗雑な品だった。
セレは、見た瞬間に分かった。
これは“適当に手に取った”だけだと。
「……それ、元に戻して」
ルクは一瞬だけ目を伏せたあと、言われた通りに斧を戻す。
セレは店内をぐるりと見渡し、すっと背筋を伸ばして言った。
「ルクの武器も、私が選ぶわ」
それは、迷いのない声だった。
まるで、それが当然であるかのように。




