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25.ひとひらの頼み

 入学式が終わると、生徒たちは三々五々に講堂を後にし、それぞれ思い思いの方向へと散っていった。


 学園内は、入学式を終えたばかりの新入生たちで賑わっていた。

 芝生の広場にも、石造りの回廊にも、あちこちに初々しい声と笑いが満ちている。


 だが、ルクたち三人はその喧騒から少し離れ、人通りの少ない東側の庭園を歩いていた。


 風が抜けるたび、若木の葉がさわさわと揺れ、足元には古びたタイルの模様がまだらに露を帯びていた。


「じゃ、ちょっと俺は野暮用で別行動だ」


 不意にカイルが足を止め、気軽な調子で言った。

 ルクとセレが振り返ると、彼は腕を軽く振りながら、もう歩き出している。


「後で合流するぜ。じゃあな!」


 ルクが言葉を返す間もなく、カイルは建物の影へと姿を消した。


 ルクが目だけでセレを見る。

 彼女は肩をすくめ、くすっと笑った。


「……そういう時もあるのよ、きっと」


 何かを知っている素振りだったが、それ以上は言わなかった。


 風がまた吹き抜け、ルクの前髪をかすかに揺らす。


「ルク。ちょっとどういう施設があるか、散歩がてら見てみない?」


 その言葉に、ルクは短く頷いた。


 建物の構造を知るのは、生存確率を高めるための基本だ。

 出入口の数、死角の有無、逃げ道。地形の把握は、生き残るための最低条件でもある。


「そうだな。地形を把握しておく価値はある」


 ルクの返答に、セレはやわらかく笑った。


「やっぱり、そう言うと思った」


 それは、少しだけ複雑な笑みだった。

 まるで“そう考えてしまう彼”に慣れすぎてしまった自分を、寂しく思っているような。


 二人は並んで歩き出した。


 石造りの校舎は重厚で、天井は高く、壁には魔術の紋章が彫り込まれている。

 歩くたびに足音が反響し、まだ新しさの残る空気に、うっすらと白い陽光が満ちていた。


「……こうして歩くの、ちょっと不思議ね」


「何が?」


「あなたとこうして並んでるのが。最初に会った時を思い出してた」


 ルクは答えず、少しだけ視線を落とした。


「ルクって、話しかけても返事しない時あるじゃない?あれ、怒ってるのかと思ったことあるよ」


「怒る理由がないよ」


「うん、だからすぐに慣れたけど」


 セレは笑いながら、階段の手すりを指先でなぞった。

 指に触れる石材は冷たく、滑らかだった。


 そんなふうに、ぽつぽつとした会話を交わしながら、二人は校舎の裏手へと差しかかる。

 陰が濃くなり、空気に少しだけ湿り気が混ざる。


 そのときだった。


 ルクがぴたりと歩を止めた。


 校舎の裏、薄暗い隅の空間――その一角に、人の気配。


 数人の生徒が、壁際に一人の少女を追い詰めるように立っていた。

 取り囲むように、距離を保ち、壁を背にした少女は俯いている。


 ルクはその様子を一瞥しただけで、また無言のまま歩き出そうとしたが、その裾がふいに引かれた。


 ローブの端を、セレがそっと摘んでいた。細い指先が布地に沈み込み、ほんのわずかに力がこもっている。


「……助けないの?」


 その声は、まるで小枝が風に揺れるように静かだったが、確かに届いた。


 ルクは足を止め、ゆっくりと彼女のほうを振り返る。

 セレの瞳が、まっすぐに彼を見上げていた。透き通るようなアイスブルーの瞳――だが、その底には、かすかな切実さが滲んでいた。


「なぜだ?」

 ルクは答える。表情には戸惑いすら浮かばない。

「……あれくらい、自分でなんとかできなければ、生きていけない」


 それはただの事実だった。感情ではなく、経験から導き出された当然の理として。


 けれど、セレはふるふると首を振った。


「それでもです」

 声は柔らかく、しかし揺るぎがなかった。

「私は……ルクに、助けてほしいんです。あの子を、あなたに。」


 ルクは、目を細める。


 なぜそこまでして頼むのか。どうして、自分に。

 分からないながらも、その真っ直ぐな願いはセレの頼みなら聞こうと思わせた。


 そして、静かに頷く。


「……わかった。行ってくる」


 セレはぱっと笑顔を見せた。

 どこか子どもじみた、けれど清々しい笑みだった。


「わーい」

 嬉しそうに声を弾ませながら、胸の前で両手を祈るように組んで見せる。


「気をつけてくださいね?」


 ルクは無言で少しだけ眉を動かし、苦いような呼吸をひとつ落とす。


 怪我を心配しているなら、行かせない方がいい。

 だが、セレはすぐに言った。


「違います、ルク」

 そして、淡く笑って続ける。

「相手を殺さないように――気をつけて、です」


 ルクはほんの一瞬、まばたきを忘れた。


 そして、ゆっくりと歩き出す。


 ルクは、取り囲まれていた少女には目もくれず、無言のまま一歩、また一歩と近づいていく。


 その歩みは、ごく自然なものだった。

 足音はなく、衣擦れもない。気配も重力も、まるでそこに“質量”が存在しないかのようだった。

 いや、それどころか――

 そこに“存在している”ことさえ、見ている者の意識からすり抜けてしまうほどだった。


 男たちは、その異様にまるで気づかない。

 後ろに立たれているにもかかわらず、まるで壁の一部か何かのように、視界に映りながら認識していなかった。


 ごく自然に、背後に立つ。

 無言で、男の肩に手をかける。


 一瞬、ルクの瞳がわずかに細められた。

 力加減――それを誤ると、人は簡単に壊れる。セリアに何度もそう言われたのだ。


(……これくらいなら、死なないはずだ)


 そう判断してから、ルクはごく軽い動作で、男を地面から引き剝がすようにして投げ飛ばした。


「おぐっ――!」


 鈍い衝突音とともに、男の身体が地面すれすれを滑り、硬い音を立てて数メートル先で転がる。石畳にぶつかった肩から、骨がきしむような音がした。


 直後――


「……死んでない、っと」


 いつの間にか背後から追いついてきたセレが、しゃがみ込み、男の呼吸と脈を軽く確認してから、ルクに小さく手で丸のサインを出した。


 それを見て、ルクは微かに安堵したような気配を見せ――しかしすぐ、残る三人へと目を向ける。


 その目は、氷のように冷たいものだった。


 最初の男が倒れたことで、ようやく他の三人も異変に気づいたようだった。


「て、てめぇ何だよ……!?」


 一人が叫び、振り返りざまに威嚇のように手を上げた。

 しかし、その声も動きも、ルクの目にはあまりにも“遅い”。


 ルクは一歩踏み込む。

 風のような軌跡が走り――次の瞬間、男の視界が傾いた。


 ルクの手刀が男の鳩尾に突き刺さる。

 正確には、「触れた」程度に見えた。だがその衝撃は凄まじく、男は内臓を締め付けられたように顔を歪め、膝から崩れ落ちた。


 白目を剥いて、泡を噴きながら気絶する。

 だが、呼吸はある――セレがまた即座に確認して、頷く。


 二人目。


 剣を抜こうとした動作を、ルクは斜め前から一瞬で制した。

 足元に滑り込むように移動し、その脚を、ほんのわずかに引っかけただけ――のはずだった。


 だが男の身体はそのまま宙を舞い、まるで人形のようにぐるりと一回転してから、背中から叩きつけられる。


「っがは……!」


 土煙が上がる。

 痙攣するように手を伸ばしかける男を、セレがすぐさま静かに仰向けに寝かせ、頷く。


 三人目――最後の一人は、もう戦意を喪失しかけていた。

 顔面から血の気が引き、腰が抜けたようにその場にしゃがみ込む。


 だが、逃がさない。


 ルクの気配が“そこにある”とようやく理解したその瞬間、男の視界は黒一色になった。


 ルクの掌が、男の額に軽く触れただけ。

 だが、その「一撃」で意識を刈り取られたように、男はそのまま前のめりに倒れた。


 石畳に落ちる音さえ、乾いた紙のように軽かった。


 静寂が戻った。


 倒れた四人は、皆無事ではあるが、一様に二度と逆らう気力すら湧かないだろう。


 ルクは何も言わず、ただ振り返る。


 セレが肩をすくめて笑った。


「お疲れさま。……完璧」


 その笑みに、ルクは無表情のまま、静かに頷いた。

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